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第0章 人生の大切さを自覚した経験の話

幸せってずっと続くのが、当たり前だった。
 
終わりが来ることは知っていても、あえて終わりを考えることなんて、なかった。
 
幸せな生活が続くことに、疑問を持つことなんてなかった。
 
だから、こんなにも早く、死を意識することになるなんて思わなかったし、何の準備もしていなかった。
 
『現実は小説より奇なり』とは、よく言ったものだ。
 
現実は、想像をはるかに超えてやってきたの。
 

 
 

1.別 れ は 突 然 に


 
うちは、いわゆる昭和の家庭だった。
亭主関白な父、ちょっと頑固なところもある優しい母、要領がいい2つ下の妹の4人家族と、顔も名前も知らない人から、街中で普通に話しかけられるのが当たり前という地域のつながりが強い田舎町の中で育った。
 
ご近所さんにも怒られたり、助けて貰ったりして、昭和の世界そのままの人情のある世界だった。
2つ先の町内でも自分がやったことが伝わっているという、今だとプライバシーの侵害を訴えられそうなくらいだけど、当時はそれが当たり前で、それくらい濃いつながりがあった。
その世界のまま、成人まですくすくと育った。
 
転機になったのは、私の成人式の直後だった。
 
母が「鼻に違和感があるから病院に行ってくるね」と、病院に行ったその足で入院となった。
「鼻の頭に腫瘍があるんだって。それを取り除くために、入院が必要になったの」 帰宅して聴いてみたら、そう話した母。
 
最初は「ふーんそうなんだ」という感じで聴いていたのだけど、母は、悪性リンパ腫を発症していた。血液のガンと呼ばれている病気だった。

発症した場所が悪く、放射線治療が難しい状態だったため、半年の抗がん剤治療を選んだ。
 
母にとって心身ともに辛い治療だったが「これさえ乗り切れば、また家族一緒に過ごせる」と希望を持ち、つらい治療と副作用治療に耐えて、その年の夏に寛解。念願の家族4人暮らしが半年ぶりに戻ってきた。
 
だが、当時40代という若さもあり、病魔という敵はあまりにも強く、進行も早かった。
運悪く、寛解から1週間で病気が再発。
 
闘病むなしく再発から3か月、病気が見つかってからわずか10か月後に、この世を去った。
 
家族は3人となって、再スタートを切った。
 
 

2.第 二 の 母 と 慕 っ た 叔 母


 
私には第二の母と慕っていた、父方の叔母がいた。
母と同じ年で、性格が明るく恰幅がよかった叔母は、その場を明るくする太陽のような人だった。
 
「私のことはおばさんじゃなくて、お姉さんって呼んでね♪」と、当時小学生だった姪っ子たちに言い含めて呼ばせていた、かわいい人だった。
 
言いたいことはさらっといえる人で
「優しい姉さんだから義兄さんとお似合いよね。私、義兄さんと結婚してもうまくやれなかったと思うわ。」と、明るくあっけらかんと、含みを持たせずに思いや意見を伝えていた。
同時に、自分の意見を伝えつつも場が悪くならないように配慮もできる人だった。
 
私と父は、互いに頑固だったので意見がぶつかることが多かった。
母が亡くなってから数年たったある日、父は自分の機嫌が悪くなると、家のチェーンをかけ、外からは入れない状態を作り、家族を困らせることがあった。
その場で助け舟を出してくれたのは、この叔母という存在であった。
 
場の空気をしっかり読んでる上で、言うことは言ってくれる肝っ玉母さんで、とても頼りになる人として、親族の中でもひときわ輝いて存在していた。
 
 
ある時父が行き過ぎた行動を取って、納得いかずに私が泣きついた時
 
「よその家庭には口を出さない主義だけど、義兄さん、いくらなんでもやりすぎだと思うわ」
 
と、1度、はっきり言ってくれた。
 
そういったことがあっても頑固な父の態度が変わったわけではなかったが、今まで家庭の中で父のわがままを貫き通す場面で、亡くなった母を含めて誰かが守ってくれたことが1回もなかったので、すごく感動したのを覚えている。
 
 
母がなくなってバランスが崩れた家庭から、いろんな人の手を借りながら新しいバランスを見出そうとしていた矢先、いとこから1本の電話が鳴った。
 
「母が、なくなりました」
 
それは、叔母が亡くなったという訃報だった。
 
 
最初はなんの悪い冗談かと、取り合わなかった。
 
「あんなに元気な人が、なぜ?」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
 
全然現実味がなかったし、突然起きた現実を認めたくない側面もあったのだと思う。
 
 
その後の現場検証の結果、転落による一人事故ということが明らかになった。
母が亡くなってちょうど3年が過ぎた頃に起きた出来事だった。
 
 
 

3.人 生 を 引 き 受 け て い る の は 自 分

 
 
否応なく、一人の足で立たなくてはいけない環境に立たされてしまい、困惑した。
頼れる人がいないという心もとなさが、足元へにじり寄っていた。
 
母が徐々に弱っていく姿を見て、その時にできることは全部したつもりだったけれど、亡くなった後、思い浮かぶことといえば「生きている間にこういうことをしておけばよかった」と、「やってあげたかったこと」ばかりだった。どんどんやりたいことが見つかっては、それを叶える事ができなかった悲しみに暮れる日が続いていた。
 
その悲しみから抜けて、家族も立て直していこうとした矢先、更に大切な人を失うとは思っていなかった。
 
死別と生きている間に別れることは、意味合いも現実的にも全然違うもので、生きていればいつか会える。
その事実がある限り、自分が勇気を出せば変えられる側面がある。
何かを変えられる可能性は0じゃない。だから、前向きに進む気力が生まれたり希望を持つことができるときだってあるけれど、本当に人がこの世からいなくなってしまったら、本当に何もできなくなってしまう。

何をどうあがいても、どんな奇跡が起きたとしても、絶対に現実が覆えることがない。
 
死別という現実に直面するということは、どうあがいても希望に繋がらないという深い悲しみと絶望を受け入れなくてはいけない。
 
今生の別れというものは実際いったいどういうことなのか、身に染みて嫌というほど実感した。
 
人が死ぬってこういうことだ。
そして周囲にはこういう気持ちを残してこの世と別れるものなんだ。
 
20歳そこそこにして、一番つらい悲しみをすでに知っている状態になってしまった。
 
願わくば、大切に思う人ともっと一緒に過ごしたかった。
20年近くたった今でもそう思う。
 
でも、こんなに早く経験してしまったことが、幸か不幸かは自分が死ぬときじゃないとわからないと思う。
そんなに早く、意味付けをする必要もないと思った。
 
それよりも、自分が不幸だと嘆くより、自分を幸せにすることに注力したいと思った。
 
そして、親と親族の死別の経験から
「絶対やりたい!と思ったことに対しては、躊躇(ちゅうちょ)せず全力で飛びこんでいこう!!」と腹をくくった。
 
今生の別れという経験が
無謀ともいえる様々な困難にぶつかっても耐え抜く力になっていった。

踏み出す勇気が必要な場面で、飛び込んでいける心の強さの根っこになった。
 
死別という経験を通じて、通りすがりの人の事件を聞いても号泣してしまうほど弱くなったし、自分の人生を引き受けるのは自分だと腹をくくる意味では強くもなった。
 
自分の人生の責任を自分でとっていかなくては。
自分の人生を幸せにしていかなくては。
 
命に終わりがあるからこそ、今を大切に生きていきたい。
 
それに、ここまで育ててくれた母にも、今まで良くしてくれた叔母にも顔向けできない。
 
元気で健康に育ててくれたのに、かけてくれた愛や時間を無下にするような生き方をしたくない。
大切に思ってくれた、育ててくれた。
 
できないこともいっぱいあるけれど、足りないところもいっぱいあるけれど
ゆっくりでもいいから、よちよち歩きからでもいいから
助け合いながらみんなと一緒に歩いていきたい。
 
そして、この経験を踏まえて強くなろうと気を張って生きてきたけれど、もういいかなって最近思っています。
 
「がんばりたいなら、頑張ってやりきってみて!」
「でも、頑張りすぎて疲れちゃったなら、もうそんなに頑張らなくていいんだよ」って。
 
 
頑張りすぎないで、力を抜いて。
 
そんな風に言える存在になりたいなって思っています。


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