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爪 (短編小説)

バスタブに湯を張る。
寝起きの怠さと、昨晩の酒が体を重くしている。
湯気の立つバスタブの前で、昨夜色ごとを交わした相手と裸で抱き合い、鼓動を直に伝え合う。
浴室にこもる湿気が互いを更に密着させて、相手への愛しさで体は熱を持つ。

湯に浸かると、私を後ろから包み込む男の息遣いを耳元に感じた。
男がまた私を求めていることには知らぬ顔をして、他愛もない話をする。

体は触らせても、その先をしない。
ホテルで愛し合うことが第一ステップだとしたら、その次に必ず確かめなければならないことがある。
それは、爪の味。

「少しだけ、いいですか」
湯の中で私の体をまさぐり続ける男の手をそっと持ち上げる。

「昨日の話、本当だったの?」
私に手を掴まれた男は、戸惑いながらも少し興味を持ち始めているようだった。
「本当です。少しだけで良いのですから。ほんの少し…」

私が愛を確かめる時、その人の爪の先を少しだけ齧って食べる。
そうでないと身も心も捧げることは不可能だった。

私が6つの時、母は家を出て帰らなくなった。
その日小学校から戻ると、どこか浮ついた様子の母がいて、爪を切っているところだった。
床に座り込み、片方の足を立てて、鼻歌を歌いながら爪を切る母のスカートの中を、ぼんやり見た記憶がある。
爪を切り終わった母は、爪切りの中に溜まった爪も捨てずにそのまま机の上に置くと、財布から一万円を出し、爪切りの横に置いた。
「じゃ、行くね」と母は言った。
いつもの流れだと思った。ただ、いつもより母が綺麗だと思った。

母は翌日もその翌日も帰らなかった。
そんな日が続いて、もう帰ってくることは無いのだろうと思い始めてから、私は夜になるとこっそり布団のなかで、母が遺した爪を食べた。
母を思い、母の爪を口に入れて、舌で遊ぶように転がした。
そうして寂しい夜をやり過ごした。


男の浅黒い、ごつごつとした指を口に含む。男の短い爪の間に私が歯を差し込むと、男はびくっとして手を引いた。

「怖いですか?」と私が聞くと、
「慣れないだけだ」と強がってみせた男を、私は愛しく思った。

塩辛いような土臭いような男の爪は、味わう前に吐き出した。
そんな私を見て悲しそうにする男がいたたまれなくて、私は身を起こし、男の上で体を向かい合わせた。男の頭を片手で胸に抱き寄せる。そのあとは男の好きにさせて、私は目を閉じた。
私は男に見られないようにして、自分の爪を齧る。甘い、なんとも言えない懐かしい母の爪の味を思い出す。そしてあの時目に焼き付いた、母のスカートの中を思い出し、私は我慢できずに声を漏らした。



[完]


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