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掌編小説 | ダンサー

すえた臭いが鼻を突く。アリスは顔をしかめた。たった今、男が一人暮らしをする部屋に、合鍵を使って入ったのだ。
部屋には大きなベッドがあって、その横にはベッドサイドランプがある。暗闇でもアリスには、部屋の状況がよくわかっていた。この部屋にある物のことは、すべて知り尽くしているのだ。

アリスは、ここを訪れた時には、いつでもそうするように、ランプを灯した。部屋はランプの灯りでぼんやりと色を持った。
何度も訪れたことのあるこの部屋が、今日はまるで知らない場所のようだ。なにかが変わってしまった。それも、驚くほど唐突にだ。

女の勘、好奇心、いろいろと言い方はあるが、アリスは覚悟をもってここに来たのだ。この部屋の主がアリスの恋人だったとして、アリスではない女性を部屋に連れ込んでいたとして、それを我が目で確認する。そこにどんな気持ちが目覚めるのか、それを確かめにきたのだ。

いささか興奮しすぎたか、薄いストッキングがしっとりするほど汗をかいていた。
アリスは荷物を床に降ろすと、それが決まり事であるかのように、まずは丁寧な所作でストッキングを脱いだ。

ストッキングの圧から解放され、自由になったアリスは、無防備な下半身のまま、絨毯の上を歩き始めた。足の裏を擦るようにして歩く。今ここに、自分が在ることを確認するように、ゆっくりと歩いた。
毛足の長い絨毯は、アリスの足の指の間を出たり入ったりしている。足を撫でる絨毯の優しさが、アリスの心を癒したのだろう。いつしかアリスの表情は、うっとりとしたものに変わっていた。

この部屋の中で、唯一、この絨毯はアリスの味方だ。なぜなら、この家に、この絨毯を迎えたのはアリス自身なのだから。

この部屋は少し寒すぎる、とアリスは思った。先程まで汗ばんでいたアリスの体は、急激に冷え始めていた。それなら、とアリスは優しい絨毯の上で舞った。体を温めようと思ったのだ。暖房のスイッチを入れれば部屋を温められるということには、どうしてか思い至らなかった。
ランプの灯りが、部屋を優しく包んで、アリスに今日だけの友達を連れてきた。影だ。アリスは影と舞った。
今日という日に、柔らかく、広がりやすいスカートを選んだアリスは、とても賢いプリマバレリーナだ。
アリスは舞い、影は踊った。
スカートは、花を咲かせるように、部屋の中で何度でも開いた。

しばらく踊っていると体は再び汗をかき始めた。アリスは当然、上着を脱いだ。そしてセーターも脱いでしまう。スカートすら脱ぎ捨て、下着だけになった。自分の汗と、この部屋に残る誰かの汗の飛沫を、空気中で融合させるかのように、両手を広げ、なおもくるくると舞った。
アリスは回った。アリスが回ると、長い毛足の絨毯に渦のような跡ができた。

それからアリスは、満を持してベッド脇のゴミ箱を抱え上げた。溢れそうなティッシュの山を見つめ、再び、うっとりとした表情を浮かべる。メインディッシュだ、とアリスは思った。
すえた臭いを発するティッシュの中に、ゆっくりと顔をうずめていく。ティッシュから放たれる臭いを胸いっぱいに吸い込んだ。知り尽くしたあの男の匂いで、アリスの肺は満たされていった。
満足したところで、ゆっくりと顔を上げ、ティッシュを片手で掴み、握ってみた。手のひらには、生々しくしっとりとした冷たさがのこる。アリスはここでも顔をしかめた。
そして、そのティッシュを豪快に、天井に向けて投げた。また投げた。投げながら舞った。

綿雪のようだ、とアリスは思った。

ゴミ箱が空になるまで投げ続けた。
すっかり部屋を散らかしたアリスは、倒れるようにベッドに寝転んだ。手足を投げ出し、しばし呼吸を整える。吐き出される息は白かった。この部屋はすっかり冷えているのだ。
アリスは布団の中に潜り、息を潜めた。音のない真っ暗な世界で、心臓の音だけが力強く響く。

やがて息苦しさから顔を出した。冷たい部屋の空気を吸い込むと、頭はいくらかすっきりした。自分はいま、とても冷静だ、とアリスは思った。そして、汗ばんだ体から下着を剥ぎ取り、布団の外に投げた。

アリスは自分の体に触れてみた。このベッドで、男が初めてアリスに触れた時のことを思い出していた。つい数ヶ月前のあの夜のことが、頭の中の大きなスクリーンに映し出されて、恥ずかしさと懐かしさで、アリスの顔はほころんだ。
アリスは呼吸を荒くして、体の奥から突き上げてくる疼きに抗った。顎を上げ、身をよじる。悶えながら、両の眼は冷静に天井を見つめていた。
見慣れた染み。剥げた塗装。
少し前にこのベッドで、アリスの代わりにこの景色を見ていた誰かと心を合わせてみる。

ここを出たら。駅まで歩いて10分、電車に乗って15分、乗り換えて30分、また駅から歩いて10分。ざっと一時間だ。

その誰かは、天井の染みを見ながら、家に着くまでのことを考えていたに違いない、とアリスは思った。
獣と化した男が、なにかに到達しようとする激しい揺れを、華奢な体の内に受け容れながら、頭の中では、帰ったら観る映画のことを、考えていたに違いない。
夢中で焦がれる振りをして、本当はそんなことを考える余裕がある。そういう余裕を与えてしまう男だもの、とアリスは思った。

アリスは大きく身震いをした。シーツを汚してしまったが、それは何よりの置き土産となる。荒かった呼吸が収まった頃、アリスの体は芯から冷えて、やがて熱を失った。

ベッドから立ち上がり、脱ぎ捨てた衣服を拾い上げ、静かに身につけていく。
見渡せば、部屋は来た時とすっかり様変わりしていた。男の夢が詰まった部屋は、卑猥な処理を手伝ったティッシュが散らばり、足の踏み場もない。
おやおや、とまるで他人事で、アリスは再び絨毯の上でワルツを楽しんだ。
くるくると絨毯に渦巻きの柄を残す。
わたしはここにいる、そして今後二度と来ることはない、とアリスは呟いた。

アリスは最後に、一部始終を見ていたベッドサイドランプに向けて、バレリーナらしいお辞儀をしてみせた。
「わたし、バレエなんて踊れないの。あなたは気づいていた?」
アリスはランプに向かって、もう一度お辞儀をした。
そうして、いよいよ部屋を出ようとしたところで、ポケットに入れていた鍵の存在を思い出した。不要になった合鍵だ。男には知らせずに作ったものである。アリスは迷いなく、絨毯の上にその鍵を投げた。鍵は音も立てずに、絨毯の長い毛足に隠されて見えなくなった。

夜風が冷たい。アリスは駅までの道を清々しい気持ちで歩いた。なんの未練も残すことなく、あの部屋を出てきたことを誇らしく思い、若いうちにこのような経験ができたことにも、心から満足していた。アリスにとって初めて肌を重ねた男との思い出は、十分に色濃いものになった。
明日、クラスの友人たちはアリスの報告にどんな反応を示すだろうか。アリスは笑いが止まらない。きっと、アリスの見事な立ち振る舞いに、拍手喝采するはずだ。



[完]


#短編小説

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