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【短編小説】A rolling stone gathers no moss 第8話「eight」

(あらすじ)
36歳の崖っぷちボクサー井ノ坂いのさかは、休養のため訪れた故郷でスマホを落とす。
拾い主に電話が繋がり安堵する井ノ坂に、スマホの向こうの少年は、奇妙なことを語り始める──。

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 試合が決まってひと月が経った頃、井ノ坂の拳は快音を響かせていた。会長が次々に構えるミットを目がけ、素早くパンチを打ち込んでいく。その光景をジムの練習生たちが見守っていた。

 「ようし、終了だ...」
 「ハァハァ...ありがとうございました...」
 「いいぞ、井ノ坂。どのパンチもよーくキレとる。それに以前より重さも増しているようだ...」

 会長は、驚きの目を向けた。
 井ノ坂も手応えを感じていた。

 「会長にミット持ってもらうと、やっぱり気合い入りますから...」

 「ふん。それだけじゃなさそうだがな」と会長は笑った。

 「まぁ、いい。拳を痛めとるんだ。これくらいにしておこう。今日も向こうに帰るのか?」
 「はい、実家です」
 「遠いのに。ご苦労だな」
 「試合までは甘えさせてもらおうと思ってます。失礼します」

 練習をあがろうとすると、会長に「井ノ坂!」と呼び止められた。

 「今のお前、良い目をしとるぞ。ここに来たばかりの頃のような目だ。この調子で試合まで仕上げていくぞ」

 普段は笑わない会長が、ほんの少し口角を上げて言った。

 「はい! 宜しくお願いします!」

 井ノ坂は、会釈してジムを後にした。
 試合決定後も、毎日地元に帰っていた。行きも帰りも県境を跨ぐので、周囲からは不思議がられたが、井ノ坂は自身にとってそれが必要なことだと感じていた。
 そうして地元に着くと、例の公園に必ず寄るようにしていた。

 『あ、おじさん』

 3回目のコールで、少年の姿が映った。新しく買ったスマホ画面に映る過去の世界は、相変わらず夏の光で眩しく輝いている。少年の服装も変わらない。初めて電話をした時から、向こうでは30分ほどしか経っていないようだった。 

 「さっそく始めるぞ」
 『うん』

 ワンツー、ワンツー...
 少年がぎこちないフォームでシャドーボクシングをする。

 『どう? おじさん』
 「駄目だ。また手打ちになってる」
 『えー、そうかなぁ』
 「よく観てろ。腕で打つんじゃなくて、腰と肩の回転で拳を投げる意識を持って...シッ! シッ!」

 小さな三脚でベンチに取り付けられたスマホが井ノ坂のワンツーを捉える。

 『おおー、すげぇ! ようし、もっかいやってみる! シッ! シッ!』
 「うん、さっきよりいいぞ」
 『ほんと? やったぁ』

 ――俺って、こんな顔で笑ってたんだな。

 「次は、重心を意識してみろ。打つ瞬間に前足の親指に体重をのせる感じで...」
 『うんうん』

――こんなに楽しそうにボクシングと向き合ってたのか。

 目を輝かせながら、アドバイスを聞く少年の姿を見て、井ノ坂の指導にも熱が入っていく。教えながら、自分自身のフォームもイチから見直す機会になり、無意識にパンチ力の向上に繋がっていた。

 「少年。スマホの充電は、後どのくらいある?」
 『えっとね、50%って表示されてるよ』
 「そうか...」

 少年のいる過去世界は、時間がとてもゆっくり過ぎるようだが、通話すると充電が激減するようだった。現代のひと月で、その半分が失われた。試合まで後一ヶ月。少年とそれまで話すことができるだろうかと井ノ坂は考えた。

 「また連絡する」
 『うん。待ってるよ、おじさん』

 実家に帰ると、妻の美緒が食事を作って待っていた。
 両親や兄弟は、気を遣ってかそれぞれの部屋にいるようだった。

 「おかえり」
 「ただいま」

 今夜は、卵かけご飯、鶏ささみのサラダ、味噌汁だ。かつては、飲まず食わずで減量していた井ノ坂だったが、結婚してからは、妻が毎日の栄養バランスやカロリーを管理してくれている。

 「いただきます」

 味噌汁をすすると、出汁のきいた優しい味わいが、身体に染み渡っていった。

 「ごめんな。正月明けても、ずっと実家で」
 「あら、気にしてたの?」
 「まぁ...一応」

 「一応ね」と美緒は笑った。

 「この町に帰ってから、あなた少し変わったよね」
 「え、そうかな?」
 「うーん...変わったというか、戻ったというか」
 「会長と同じようなこと言うんだな」

 井ノ坂は苦笑したが、美緒や会長が何を感じているのか自分でも分かっていた。

 「思い出したんだ。どうして俺はボクシングをするのか。その単純な理由を...」

 美緒は、どこか懐かしそうに微笑んだ後、「スマホの代わりに見つけたのね」と言った。

 「そう、2年ローンの代わりに」
 「もう。今度失くしたら承知しないから」

 地球で一番敵わないのは妻だな、と井ノ坂は笑うのだった。


 ◇


 『あーぁ、試合観たかったなぁ』

 決戦の前日、少年は残念そうにつぶやいた。

 「仕方ないだろ。おじさんは、とても遠いところにいるんだ」

 ――そう、時間的にな。

 『あ! いいこと思いついた。試合中、テレビ電話で繋いでよ』
 「その手があったか...」
 『ねぇ、いいでしょ? お願い! お願い!』
 「わかった、わかった...仕方ないな。リングサイドにスマホを置くようにするよ」
 『よっしゃあ! 楽しみー!』

 少年は、両手を掲げて喜んだ。

 「じゃあ、また連絡する」
 『うん、それじゃ』

 そう言って井ノ坂は、少年との通話を切った。

 少年と話したのは、それが最後だった。

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