最終話_この怠惰でモラトリアム的状況がずっと続けばいいのにと思っていた。
「ねぇ、楓くん」ゆきさんが僕を呼んだ。
「なぁに」とゆきさんにぎゅーっと抱きつくと、よしよし、と頭を撫でられ僕は嬉しくなった。
「楓くんはさ、小説、誰のために描いてるとか、あるの?」
「うーん、あんまり」
「じゃあさ、私のために書いてよ。って言ったら困る?」
「んーん、でもなんで?」
「楓くんはさ、私のこと大好きじゃん?」
「そうね」ぎゅーっと力を入れるとゆきさんも「うりゃっ」と力をいれて窒息させにきた。
「私ね、歌う時とか、歌詞書くとき、いつも楓くんのこと考えてるんだって言ったら重い?」
「え!そうなの!?全然!むしろ嬉しい!」
「ふふ、ありがとう」「だから、だから?ってわけじゃないけど、なんか、なんだか寂しいなぁって」
「僕が誰のことも思わずに書くことが?」
「うん、自分勝手なのはわかるんだけど、それでも、私のために、書いて欲しいなぁって、そしたら幸せだろうなって」
顔を上げる。ゆきさんはものすごく恥ずかしそうで、顔が真っ赤になっている。「泣いてるの?」と聞くと「泣いてないよ」とにかっと笑ったけどやっぱりちょっと泣いている。
何かあったのかな、とは聞かなかった。うん。30手前の女には色々あるもんね。女同士でいつまで暮らしてんだ、結婚はどうするんだ、いつまでバイトするつもりだとか、あるいはセクハラジジイをいかにぶっ殺すかとか。そういうのがさ。
「ゆきさん、おいで」と僕は両腕を広げた。
「いいの?」と聞くゆきさん。普段は逆だからね。
「聞かないの?」と僕の胸の中でゆきさんが苦しそうに言った。「聞かない」と僕がキッパリ言うと「意地悪」と言われたので「じゃあ聞こうか」と言ったら「大丈夫でーす」と言われた。
ふわふわのゆきさんの髪は、名前のように、本当に雪のように柔らかくて、力を込めたら溶けてしまいそうだった。僕の胸の中で僕のために描かれた歌を口ずさむゆきさんの長い髪をなん度も梳かす。「じゃあ書こうかな、ゆきさんに」と言うと「ふふふふ、あっはっはっは」と楽しそうに笑った。
「そんな限定しちゃって書けるの?公募とかさ」
「公募はもういいよ」
「え、辞めちゃうの?」
「何言ってんの辞めないってでも書き方を変えまーす!」
「おー!…?」
「売れそうなこと狙って書くの辞めます!そもそも向いてないし!できないし!」
「テクニック的な?」
「そう!テクニックとかさ、書くために難しい本読むこととか、適性がないことは辞めます。僕にある適性と言えば…」
「と言えば?」
「ゆきさんが大好きなことです!」
一生、有名にならなくてさ、こんな感じで、ゆるーく、大学生みたいなさ、怠惰でモラトリアム的な状況が続けばいいなって、この時思ったんだよね。
僕は貴方のために書くよ。
上野楓