嘆かわしく愛。
嘆かわしいことだ。
実に嘆かわしいことに、どんなに恋愛小説を書いても愛の尊さが理解できないのだ。
人が人を愛する尊さ、美しさが理解できない。
愛がなければ憎しみが蔓延り、世界は争いに塗れる。嘘だ。なぜなら愛の反対は憎しみではないからだ。無関心でもない。そもそも対義語が存在する前提条件が誤っていると思っている。
愛は依存だ。つまり愛し合うということは相互依存だ。相手に「寄り添う」と同時に、あるいは、寄り添っているつもりが寄り「かかって」いるのだ。
家族なんてその典型だろう。
無論、ありようは無数であり否定も肯定も自由で、その存在自体を否定することは何人たりとも許されない。あくまで個人の思想の範囲内である。
家族という共同体。愛情という強力な感情を向けられること。僕はとても苦手だった。
そしてそう言うと大抵の人は難色を示し、諭す。あるいは問題があるのではないかとカウンセリングを提案する。自分が抱いている感情を吐露しただけで病人扱いされることを学んで以降僕は極力愛について否定することをやめた。愛は、家族は、美しいのだ。それ以外は頭がおかしい。平穏な家庭で育ったのなら尚更だ。僕は多少問題のある両親のもとで、五体満足、私学まで借金なしで進んでいる。いや、「進ませてもらっている」と言わねばいけないのだろう。愛、感謝、家族。愛、感謝、家族。愛、感謝、家族。
愛、感謝、家族、それらは僕は嫌悪感で支配する。
友情、愛情、全てを拒絶する。
いくら恋愛小説を書いても、書いても、書いても、理解できない。たくさんの人と付き合っても理解できない。一時的に快楽に包まれこそすれ、それは即、嫌悪感へと変化する。
そこで終わればいい。
そこで終わればいいのに、厄介なのが、そのことを問題扱いされることである。「どんな家庭で育ったのか」とか「親不孝」だとか「病院行ったら?」とか「カウンセリング紹介しようか」とか「若者の一時的なものだよ」などと欠陥品のように見られるのだ。
それならば言わなければいいのだろう。
しかしどうしても自己完結できない時というのはある。
愛情を向けられると体がこわばる。恋愛感情だけではない。「愛」と書くとそこに繋がるが、広義的な「愛」であって、例えば部活動におけるチーム愛だとか、学校行事におけるクラスの一体感、それらも含まれる。人が人を強く思うとき、思われる時、僕の全細胞が拒絶し、その場から一刻も早く去れ、そう命じる。ひどい時は息が苦しくなり、また、嘔吐しそうになる。
解決も完結も理解も求めない。ただ、そこに或るのだ。それをここに記したい。
そして、現状、僕が受け入れられる唯一の愛は、僕自身による僕への愛のみである。