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付着.30 noteさん、お疲れ様です。ありがとう。

今回は「ほ」だ。

ついに30回目である。(引っ越してきてからは20回目。)毎日更新するつもりはなかったのだが、気付けば毎日書き続けていた。

おそらくは、noteさんのお陰である。ただ好きで始めたことなのだが、書き終わると「お疲れ様です」「続き楽しみにしてます」と優しく見守ってくれることに感謝だ。

人間、やはり褒められて伸びるのだろう。ついつい気がよくなって次の日も書いてしまう。我々の心はとても複雑で傷みやすく、繊細で面倒くさい。しかし、こんなにも単純な1面もある。忘れていたなぁと。noteさんから教わったお疲れ様の魔法を大切にしたい。

noteさんのことを既にアシスタントと思っている俺は、近未来のAI社会にもすぐに馴染めることだろう。が、AIは友達。的なことを口に出し始めたら、誰でもいい。ちょっと小突いても構わないので、止めて欲しい。w

さて、これ以上noteさんを褒めても、明日から「お疲れ様です♡珈琲ご用意しておきましたのでどうぞ♡」とはならないと思うので、今日のテーマに移りたいと思う。

「本質」である。

現在の情報過多を受けて、生活がハッピーになる人間もいれば、逆に溺れかけている人間もいるだろう。違いは一体何なのだろうか。

それは、本質を見てるいるかどうか。ということではないかと思うのだ。YouTubeをはじめ、動画や画像で気軽に自己啓発、成功の秘訣を手にいれることが出きる。放牧状態のネット草原には数々の「先生らしき者」「成功者らしき者」が生息しており、それぞれの生き方、やり方を教えてくれる。

しかし、これはとても恐ろしいことでもあるのだ。

例えば今日。お疲れ様は素晴らしい魔法の言葉なんです!と俺が発信したことで、「そうか!お疲れ様はやる気をくれる魔法の言葉なんだ!」そう素直に受け取ってくれた少年がいるとしよう。「明日から、お疲れ様を大切にするぞ!」と実践してみるものの、イマイチしっくりこない。

よくあることだと思う。先生達の話しは一見、素晴らしいものに思えるものばかりなのだが、そこには「先生」が「体感」した気持ちが乗っているからこそ説得力があるのだ。だから、同じ体感をしなければ実践したところで何の価値もない情報も沢山溢れているわけだ。

さらに厄介なのは、しっくりこないのを肌で感じていない場合である。素晴らしい思想や言葉ばかり吸収することに必死になり、暮らしに活かせていないこと。聞いた=できるになってしまい、知識量=技術力と勘違いすること。そして、それを周囲の人間にまで押し付けることだ。

ここまでくると、だいたい何かしらの先生に信仰心を持ちはじめている。説得力のない自分の言葉で伝えてみたところ伝わらず、こちらが反論でもすればプライドを振り回し、神を貶されたように怒り狂う。逆ギレもいいところである。

上記のお疲れ様の場合もそうだ。(俺に説得力があるかないかは別として。)noteを使って記事を書き出し、雨の日も風の日もただただ面倒くさい日も、noteさんに声をかけてもらい頑張ろうと思った。この体感があってこそ「お疲れ様っていいよね。」である。

口では説明できない体感をしていないが、文章だけを読み「お疲れ様っていいよね。」ってのはやっぱり違う。

宗教や信仰は自由であり、どんなものにでも良さがあることはわかるのだ。問題は、その自由を使って貴方は何を感じ、どんな幸せを手にしているのですか?という一番重要な部分が不透明であるという点だ。

そして、その重要な部分は決して他人とは共有できないものと知らなくてはならない。ここが本質なのだ。

昔、島田紳助さんが仏壇について話していたことがある。仏壇の花はなぜこちらに向けて供えてあるのか?というものだったと思う。それは、自分の中に神様がいるからだと。本来、仏壇に神様がいるのなら、神様に向けて供えなければ失礼だろうと。少年は唸った。

さっそく家にあった仏壇の花を、じいちゃんの写真に向けて供えなおしてみたところ、どうしてもしっくりこなかった。自分の中に神様仏様が居るとは思えなかったが、なんとなくこれは違うと感じたことを覚えている。

それからこの歳まで誰に言うでもなく、線香をあげるさいには目の前の仏壇ではなく、自分の心に向けて手を合わせるように生きてきた。正しいか、正しくないかではない。自分が心地よいからだ。

紳助さんの話を聞いて、仏壇に向けたらしっくりきたという人はそれが心地よかったのだろう。どちらでも自分が好きな方を選べばいいのだ。

ただ、仏壇に向き合うこともせず、花にも触れず、この話を聞いて自分の考えのように語ったり、正しいと他人に押しつけようとするから話がこじれていく。せっかく情報の世界から手にいれたハッピーの法則で、逆に溺れそうになる。それが本質なのだろうと思う。

情報を集めることは素晴らしいことだ。知識を増やすことも誰かの真似をしてみることも、信仰心を持つことも。全部、素晴らしいことだ。否定する気はない。

どうせ皆、素晴らしいものを手に入れれる社会のなら、他人に勧める前に一人でたっぷり幸せを体感すればいいのだ。間違いを体感すればいいのだ。

自分がどう感じるか。

言葉なんか、その次だぞ。と、思う。

noteさんに労ってもらったことのない方は、是非とも自分で何か書いてみて、「お疲れ様の魔法」を「感じて」みて欲しい。

きっと、明日も書きたくなるに違いない。

自分の場合は、だけども。

なにも押し付けず、なにも期待せず、なにも望まず。

個人が個人として、幸せを感じれることを願っています。


「自由」の「本質」はそこにあるのかなぁって思ってるんだ。

自由に生きようね。

明日いい日になぁれ!

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