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初日、さまざまなキャラの登場(GH全記録)


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 なぜそれらをメモしたのか。男にもわからなかった。バイトの初出勤で緊張して、目に映るものすべてを覚えようとしたのか。

 自分はADHD(注意欠陥・多動性障がい)ではないか? 男は以前からそれを疑っていた。好きな小説やゲームはいくら時間を費やしても集中はできる。だが好きなこと以外に取り組むときや緊張をしたりすると、いろいろなわき見や独自の思考浮遊やとっぴな判断などの衝動が、脳から、とびでる。煙から蚤がぴょんぴょんとはねる。それらは身体にめぐって


 数年前に、男は自分の思考の在りかたや散らばりようを、ふかく内省して、主治医に「ぼくはアスペルガー症候群ではありませんか? 」とおもいきって訊ねたことがあった。

はっはっは。ちがいますよ。

 話は強制終了された。男にとってはだれにも相談できないふかい悩みだった。主治医は男の最後の砦だった。その主治医に笑われて、男はひどく傷ついた。それから男は、自分はADHDではないかという疑懼(ぎく)はだれにも相談していない。

 そうだ。まずは店に顔をみせる。それから出勤のあいさつを、だ。男は思いなおす。勝手口へむかう。

 通路に入ってすぐ右手に棚があった。木目がむきだしの下駄箱だ。そこには履きふるしのサンダルが幾つもならんであった。背負っていたバッグを棚の右端におろして立てかけた。足元にネコが寄ってきた。シャム種にミケ種が混じった毛のながいネコだった。男はひざに手をついてネコの頭をなでる。ウチのネコをおなじだ。撫でる。深呼吸をする。心を落ち着かせる。ここで働いている人間がみんなキミみたいにネコであれば良いんだけどな。つぶやいて男は、笑った。

「オジサン。新人さん! 」

 後ろから、子どもの声がした。男はふりむいた。幼稚園の年長ほどだ。先ほどの子どもの声の主のようだった。ビニール製のサッカーボールを、両手でかかえている。

「そうです。新人です。今日からお世話になります。このお店のぼっちゃんだね」

 ネコの頭に手をのせたまま男はしゃがんだ。

「ソウジ。だよ」

「ソウジ? 名前かな」

「そう、オキタソウジのソウジ」

 男はソウジを見つめる。肌は色白でおもながだ。奥二重。焦点の定まらぬような円な眼はリョーマに似ている。

「新撰組の沖田総司だね。リョーマお父さん? は好きなんだね」

 男はいった。

 みょあ。ネコはのどを鳴らして、ソウジの足元をすりぬけていった。

「パパじゃないよ。バアがつけたんだ。カッコよくて強いんだ」

 男はうなずいた。

「オシゴト。がんばってね」

 迷って男はつるつるした直毛が生える小さな頭がい骨の上に手をのせた。男の手のひらに子どもの頭は吸いつくように収まった。ソウジはのどを鳴らした。ボールを抱えたままふりむいて、自宅のほうへ駆けていった。

 男は勝手口から、店内に入った。

「おはようございます。今日から入りました。よろしくお願いします」

 男はひといきで言った。

 厨房にいるスタッフは男に黙って頷いた。ヤマさんと呼ばれる老婆が、レジ横にあるホール側のシンクでコップを拭いていた。

「いた? 」

 リョーマは言った。彼はディシャップをはさんだ洗い場のシンクに入った一生釜で米を研ぐ。手前のコンロでは、タツは脂を敷かれた中華鍋に沈んだかた焼きそばにジャーレンの背を押しつける。テラス側の奥ではトモキがボールに解凍したエビを入れて両手でかき混ぜる。

「いた? ってなにが、ですか? 」と男はリョーマに返事をした。

「なにが、って!」

 とタツは、ジャーレンと中華包丁を両手にもって、目玉を仰々しく丸くさせて、なまはげのような顔をして見せる。カウンターに座る男は立ち上がってタツにカメラを向ける。

 え、カメラ? 男はおどろく。

「へえ」とリョーマは笑った。

 ホールでミツルはエプロンを付けている。男の視界に女が見える。だが、男は名前を忘れてしまっていた。メモ帳を見る。ほそい。色白美人。ミホ。リョーマの妻。と書いてあった。《息子は沖田総司(ソウジくん)? 》とすばやく書き足した。男は首を下げた。ミホは笑って頭を下げた。

「先ほどはどうも」

「ミツルはもう挨拶したんか」

「外でしたよ」

「シゲちゃんは?」

 リョーマはアゴでカウンターをしゃくった。レジ横の席にいる男は立ち上がった。背の高い男だった。シゲはチャーハンを食べていた。

「もっと美味しくなぁれぇ〜」とリョーマは天に両手をあげる。

「もう食ってるからっ!」タツはリョーマにツッコむ。

「その姿もちゃんと、撮ってますから」シゲは笑ってカメラを向ける。

 男は周りを見まわすと、シゲが座るカウンターとレジ横にひとつずつ、それとディシャップにミニ脚立がついたカメラが設置されてあった。

 リョーマとタツは、カメラに向かっていきおいよく中華鍋を、大仰にふり始める。トモキは焼きあがったギョーザの皿を、シゲの前に差しだす。シゲは湯気のたつギョーザをアップで撮影する。

「撮った?」とタツは言う。

「たくさん撮りました」シゲは笑った。

「シゲちゃんよ、営業が始まる前からまかない食ってんだよ」

 とリョーマは男に笑って言った。

「まいっちゃうよ、ほんと」とタツは言った。

「えー。まずは食べさせてやるって、リョーマさんが」シゲは男に向かってカメラのレンズを向けた。男は顔面を引きつらせ、笑った。

 がっはっは。

 どっと厨房で笑いが起こる。

「このお店は、二回目の取材なんです」

 シゲは男に会釈をした。男は顔面を引きつらせたまま頭を下げた。

「東京を拠点にした超有名グルメ系ユーチューバーなんだってよ」リョーマは大声で言った。

「リョーマサン、ニンキないの、知ってるクセにぃ」シゲは言った。

「そんなことないすよ。ぼくはみてますよ」トモキは真剣な表情で言った。

「お前だけだよ」リョーマはトモキの肩を小突いた。

「それはそれでひどいなぁ」シゲはカメラを向けたまま笑った。

「トモキの『ぼくはみてますよ』って、そういうトコよ。レンビンを生むんだよなあ」タツは、タバコを口に咥(くわ)えてとおくを見つめるマイムをする。

「あ、イタッ」

 トモキは二の腕を揉(も)んでいる。

「こいつキホン、KYメーンだから」リョーマは笑った。

「ヒマチューバーなんだからゆっくり飯くってけよ」タツはカメラに向かって言う。

「撮影を終えたらバンで高速に乗って作業場に戻ってそのまま編集なんですから、ぼくも忙しいんすよ」

 シゲはカメラを離さずにシワだらけの笑みを見せた。人懐っこい。店にすっかり馴染んでいるようだった。

「はたらくっつうから、取材オッケーにしたんだぜ」

「はい、はたらきながらばっちり取材をさせていただきます」

「ばっちりはたらきながら。だろ」とタツはツッコんだ。

「え、あそうです!」とシゲは両手を鳴らした。

 リョーマもタツもトモキも、取材にはなれているようだった。みんな笑顔は絶やさない。

「そのいきおいでたのむよ。忙しいからさ」

 リョーマはミホに目配せをする。彼女は玄関に向かって歩きだす。男は窓の外を見る。外のプラスチックの椅子に、大勢の客は座って行列をなしていた。

 男はミホの仕事を見ようとあとについて行こうとする。コップを拭くヤマは男の肩をたたく。

「のれんをかけるだけだよ。ひよこみたいについていかなくていいよ。まずはピッチャーに氷を入れてもらおうかしら」

 ヤマは言った。

「了解です」

 男はガラス戸を開けてピッチャーをつかむ。重い。水は半分入っていた。ピッチャーをシンク台の横に置いていくあとは氷を入れるだけだ。

 男は飲食の仕事は十二年、ブランクはあった。だが、まだ身体は仕事を覚えているようだった。

 足元に、製氷機がみえる。しゃがんで手を伸ばす。肩に、だれかの手が触れた。男は見あげる。

 マスターだった。手首に黒いリストバンドを巻いてエプロンをつける。リストバンドで手首の肌色のテーピングを隠している。

 男は製氷機のドアを閉めて、立ちあがった。

「よろしくお願いします」頭を下げる。声はうわずった。

 マスターは黙ってうなずく。口を一文字にしたまま、厨房に入った。厨房は、しずまりかえった。

「おはようございます! 」

 マスターが厨房に入ると、店内の雰囲気は締まる。シゲは黙っていすにすわった。窓を拭くミツルの腕がはやくなる。

 厨房にひびく音の種類が、変わった。

 男は製氷機の前に立ってそれを肌で感じることができた。トモキは肩焼きそば用の茹で麺を流水でほぐす。

 マスターは包丁で野菜をリズミカルに割く。

 ヤマがピッチャーに氷を入れる手、ミホがあるく速さは機敏になった。ミツルは店のロゴの入ったエプロンをかける。男の体内に、十数年前、高崎の繁盛店ボーニッシモ本店で皿洗いをしていた頃の感覚がよみがえる。男のからだじゅうにアドレナリンがこみあがる。厨房で生まれた熱はホールぜんたいに活気になって膨張する。

 チャーハンをカチャカチャと平らげる音が聞こえる。

 男はメモ帳を取りだしてメモをとった。二○二三年、三月一九、はれ、ユーチューブ取材、シゲ、ヤマさんコップ、ミツル窓ふき、ピッチャーに氷、外は行列、ミホのれん(あとでカクニン)、マスター入店、十時十八分、

「どこにいたんね、アンタ! 」

 勝手口から声がする。男はふりむく。オクサンは立っていた。

「まずは、あたし。あたしに挨拶してもらわなきゃ困るんだよ」

「はい」

「もういいから、裏に来なよ」

 男は向き直ってヤマに、すみません、あとお願いします。と頭をさげる。

「礼なんかいいんだよ。ヤマちゃん、コオリおねがいね」

 ほらついていきな。ヤマは手をはらう。男はオクサンの後について裏手の通路に降りた。

「まずはあたしに挨拶をすれば良いいの、この店は」

「はい。雰囲気がとてもいいお店ですね」

 男は笑ってみせた。

「いまはそんなことはどうでもいいんだよ! ほら制服」

「はい」

 畳まれた服を渡された。

「あんたウチの店の雰囲気がどうのなんていう資格なんかまだないんだよ」

 男は黙った。

「そんなこというんは、仕事ができてからいうもんだよ」

 男はうなずいた。

「小さいかねえ。ずうたいあるからねえ。着てみなよ」

「きがえる場所はどこですか」

「そこのプレハブでいいよ」

「駐車場にでた、おくのプレハブですか? 乾燥機の手前の」

「ちがうよ。こっちのプレハブだよ」

「手前のプレハブですね」

 男は確認をした。オクサンは目をぱちくりさせた。鶏がそうするように首をクイっと引いた。

「口は達者だねえ、アンタ」

「正確に頭にものごとを入れる。そうしないと頭が混乱をきたすんです」

「黙って! こっちが混乱するよ! 」

「わかりました」

「あんた、ケイオーで口はずいぶんと達者みたいだけどね」

「いや、だから通信で」

「口ごたえはもういいよ! そういうのは聞きたかないんだ」

 男は黙った。

「ウチにはウチの流儀ってものがあるんだ。そのばかデカいずうたいでまずは覚えてもらわないと話になんないよ! 」

 男は黙ってうなずいた。

「頭でっかちじゃウチじゃ働けないよ」

 男はうなずいた。

「着替えたら、見せておくれよ。合わなかったらもっと大きいサイズのシャツ探してこなきゃならないんだから。いちいち手間なんだよ」

 オクサンは通路を歩いて右手の倉庫を指した。

 なかは真っ暗だった。

「すみません、電気のスイッチはどこに? 」男は笑った。

「オザワさん」

「はい。アキさんと呼んでください」

 と男は言えなかった。

「前に、オザワさんに場所、ちゃんと教えましたよね? 」

 オクサンは笑った。

「え? 」

 男はからだを硬直させた。男が店の内部に踏み入れたのは、今日が初めてだった。

 男は黙っていた。

「だれにも教えてもらってないんかい! そこだよ。そこ。ほら」

 勝手口をでた所は裏手のT字路になっている。そこにも二層式の洗濯機はあって横の古い柱にいくつかスイッチがみえる。

 男は顔を歪ませて笑った。

 エンジン音が止まったのが聞こえた。右手を見ると、納品業者らしい白色のバンからを作業員がおりてきた。畳まれたTシャツとズボンを胸に抱いたまま男は頭をさげる。作業員は白菜の段ボール箱を下ろし始めた。

「ヤジマさんがきたよ! 」

 オクサンは勝手口にさけぶ。テラス側の勝手口から男の影がふたつでてバンに向かう。リョーマとトモキだった。

「あんたカバンさ」オクサンは男に向き直って言う。

「カバン? 」

 オウム返しに答えそうになった。

「あ」

 男はオクサンの肩の向こうをみて息をつめた。

「あんなとこ置かれちゃこまるよ」

 駐車場側から入った、靴入れに立てかけたバッグに、シャムに三毛が混じったネコが爪を立てていた。

「ついておいで」

 男はオクサンについていく。

「ここ」

 下駄箱でオクサンは立ち止まった。突っ掛けの先を、ネコの首にのせて、はらった。ネコはまた足元に寄ってきた。オクサンの足先に掛かったサンダルの踵(かかと)に頭をこすりつける。

「ここは従業員用のロッカーだよ」

 オクサンは観音扉になった木戸をあける。木製の棚があった。スマホやスポーツバッグや水筒や女性のバッグや置かれてあった。右端に、自分のバッグを押しこんで入れた。着替えのプレハブはその従業員用ロッカーの対面にあった。

 プレハブのなかは乾物の倉庫だった。棚に、計量された片栗粉のボールやオイスターソースの缶詰などがならぶ。いちばん上には団扇や野球の応援グッズのようなものがホコリをかぶっていた。ドアはどうやって引いても完全に閉まらない。五センチ開いたままだ。そのまま男は服を脱いで着替えた。

 Tシャツのサイズは丁度よかった。コックズボンに足を通した。ウエストはゴムだ。足を通せば穿ける。だがベルトではないのでこれでは一歩あるくたびにずり落ちて尻がでる。

「どうだい? 」オクサンは言った。

「どうですか? 」男は笑った。

「いいじゃないの! お似合いだよ! 」オクサンは両手を打った。

「キツイです。ズボンはずり落ちてパンツが丸だしになります」

 男は言えなかった。

「それからサンダルだけどね。これを用意したんだよ。合うと思うんだ。履いてみな」

 オクサンは黒いサンダルを男に渡した。人工芝が敷かれた裏手の廊下にサンダルを下ろして両足を入れた。

 キツかった。男の足は甲高で幅広だった。サイドから猛烈に絞めあげられる感覚があった。仕事は十時半から三時までとして、三時間半の立ち仕事になるはずだ。

 男は黙った。

 サンダルはアシックス製のメーカー品だった。新品のロゴのマーク黒いビニールに光る。箱から卸ろしてきたばかりのようだった。

「どうしたんだい? 浮かない顔だね。キツイならキツイってはっきりと言ってもらわないとね」

「…」

「どうだい? あたしはぴったんこだと思うけどね。カッコいいよ」

「ありがとうございます」

「これサンダルにしては高いやつなんだよ。いいサンダルなんだよ」

 男はスポーツサンダルのアシックスの相場はわからない。

「まだ、一日仕事をしてないので。今日はコレでやります」

「今日はコレで? それでやっとくれよ。ウチにある一番大きいやつなんだから。さっきからアンタ、のどにつっささるモノ言いをするね」

 男は黙った。

「オザワさんね」

「はい」

「オザワさんがそんなんじゃ、あたしゃオザワさんにね、わが家族みたいにね『アキちゃん』なんて呼べやしないんだよ! 」

 オクサンは踵(きびす)を返して店内に消えた。

 男の眉間に額の皮膚が寄った。大きな山と谷間ができた。ひとに見られると面倒だ。男はプレハブのなかにかけこんだ。戸を閉めようとしたが、閉まらない。下のレールに堆積した砂に戸車がかんでいて五センチひらいたまま、動かなかった。

男はしゃがんだ。十本の指を使ってていねいに砂利をはらった。それから息をなんども吹きかけた。両手で戸を浮かせてスライドさせると、ぴしゃり。閉まった。

 パチッ。突然、プレハブのなかの明かりは消えた。男は、闇のなかにすっぽりと、とり残された。

 闇のなかで男は慌てた。が、むしろ逆に、だった。男は暗闇のなかに独りをかんじる。闇の空間は男に不思議と心の安らぎを与えた。闇は男が胸で激しく打っていた脈動をしだいに落ちつかせる。漆黒のなかでしずかに目を閉じる。時間を忘れて息を調える。耳を澄ます。

 プレハブの壁をへだてた向こう側に、ネコがいる。それを男は耳だけではく肌でかんじる。一匹は乾燥機のほうだ。こちらに向かって鳴く。別のネコは通路に置かれた皿に頭をつっこんでエサを食べる。駐車場でソウジが外のプレハブの壁にボールを蹴って当てる。それらを男は全身でありありとかんじる。

 闇。ここは宇宙空間だ。男は思う。外部の存在は見えないがそれは重力の波動になって肌でかんじることができる。闇につつまれて独りをかんじると、自分の存在の枠外に触れることができる。しかし、闇のなかで自分の実在を実感しようとすると男は、自分を見失う。

 はて。いまぼくは泣いているのだろうか? はて。いまぼくは悲しいのだろうか? 闇のなかで男は自分の顔を想像する。うまく想像することはできなかった。闇に同化した腕で、両の眼をぬぐう。腕は、柔らかな棒のようだ。柔らかな棒は濡(ぬ)れている。肌はそんな感覚はなかった。

「ママ」

 プレハブの外から声が聞こえた。勝手口のほうからだ。男は息をひそめた。

「ハスミさん? っていってたかな。よく聞こえなかったんだけど、自宅のほうに車で来てるんだけど」ナオの声だった。

「スミちゃんかい」オクサンの声だった。

「あれはレガシィかな。シロのスバルの車。ムスコさん? が、運転してたみたい」

「スエちゃんだよ。ニシゼンのハスエちゃんチ。このあいだハクナイショウの手術したんだよ。シシュウ教室のセンセイの」

「ああ! じゃあ、運転してたのは、シンヤくんだ」

「同級生の顔くらい覚えなよ。アンタ客商売やってんだから」

「はーい」

「スエちゃんには宴会の予約はまだ再開してないって伝えといてくれよ」

「車で近くに寄っただけだって」

「じゃあ要件はなんなんだい? 」

「ニジュウイチの昼に同級生とくるんだって、例のバッグ。もってくるって」

「やだねえ。そういうのは要らないっていってるのにさ」

「どうする? 」

「その日はキュウジュウ番卓の座敷をあけときな」

「ニジュウイチは祝日だから、手伝いででられるよ」

「助かるよ」

「どう? あの新人さん」

「…どうもこうもないよ。ずうたいはでかくてノロマそうでね、口ばっか達者なんだよ」

「でもまだ仕事を見てないじゃない」

「仕事なんか見なくてもわかるよ」

「さっそくヤバそうだね」

「なにがヤバそうなんだい? 」

 ナオの笑い声が聞こえる。

「ボロぞうきんになるまではたらいてもらうよ。その分のお給金はちゃんと払うんだからね! 」

「じゃ、スエさんに伝えとくねー」

「たのんだよ。バッグは結構だって。気持ちでじゅうぶんですって」

「はーい」

 オクサンのサンダルが通路を蹴る音が小さくなって、消えた。男はプレハブ倉庫のドアを開けた。


 そろそろ立ち上げ準備のはずだ。

 十時二十五分。男は、メモ帳に記した。

「どうだい? やっぱり良いじゃないか」

 勝手口の敷居に仁王立ちをして腕を組んでオクサンは立っていた。

「先ずは、ぼくはなにをやればよろしいですか? 」

「最初は誰だって何もできやしないんだから、見てればいいんだよ」

 まわりが一瞬、黙った。男は、パニックになりそうになって、咳きこむ。

「アキさん。マスクね。そこにあるわ」

 ヤマさんは言った。

 男は氷水のピッチャーやジュース類が入る冷蔵庫を見る。脇に、紙マスクの箱があって一枚とりだしてつけた。

 座敷の窓側で立つミツルがロールカーテンをあげていた。男は尻ポケットに膨らみを確認する。メモ帳はある。男は安心して座敷にあがる。

 この日。男はあまりに緊張をして、だれかとなにかを話した、記憶はない。だが、男が話したスタッフに関しては、メモ帳にはこう記されてある。

■ミツル(札幌ナンバーのエスロク)二十六歳、リョーマの中学の親友、ホンダ技研の北海道支社にモトクロスレーサーで就職、現在は東京本社に勤務、中高と広ちゃん飯店でご飯を世話になった。今日は休日に東京からボランティアで来た。★リョーマは、もとはプロゴルファー志望だった。この店では絶対に禁句ですよ。店が傾くほど金をかけてなれなかったんだから…

「メモ帳、隠したほうがいいよ」

 ミツルは窓を拭きながら言った。顔は男に合わせない。

「やだね、あの子。メモ帳になにか書いてるよ。いくら紙に書いたって覚えられないんだよ。こういう仕事ってのは。ちょっとヤマさんからもなんか言ってあげてよ」

 背中から声が聞こえる。男はメモ帳をしまった。

「アキちゃん。背たかいね。サン拭いて」

 男はふりむいた。ミホが立っていた。ミホは男の肩口ほどの背丈だった。

「サン? 」

「そ、その鴨居の上とか、窓の下のホコリとかね。この濡れぞうきんで」

 男は濡れぞうきんを手渡される。

「桟ですね! 」

「そう。桟。ぜんぶおねがいねー」

「わかりました」

「やったー。楽しちゃった。背の高い人って良いわね」

「なんでもやりますので、なんでも言ってください」

「じゃ、それ終えたら、テーブルふきを教えるね」

「はい」

「そうよ。アキちゃん。それでいいよ。初日だからさー、気楽になー」

 厨房から声がする。男はふりむく。リョーマだった。男とミホにウィンクをした。ミホは男の背をたたいて座敷を降りた。

 男は頭を下げる。

 リョーマは笑顔を崩さずにマスターの耳元に口元を寄せる。マスターはうなずく。リョーマは眉間にシワを寄せて柱時計を見、だいじょうぶ、だいじょうぶだって。と男に、口パクをする。

 男はまた頭を下げる。中華鍋をかえして舞いあがる黄色いチャーハンをリョーマはオタマで叩いてほぐす。

 男は南側に面したカウンターに沿ってならぶ六畳と八畳の、座敷席の鴨居の桟を濡れぞうきんでふいた。

 桟の濡れぶきを終える頃になってミホはまた現れた。ミホに教えられたとおりに座敷のテーブル席の消毒スプレーと拭きをしていると、

「アキさんさあ。背がそれだけ高いんだからさ、ほら、こっち来て! こっちの玄関の窓も拭いてよ。ここも高いんだよ! 」

 オクサンだった。

「はい、よろこんで! 」

 答えたのはリョーマだった。リョーマの発したそれは、某有名居酒屋チェーン店のスタッフの掛け声だったので、店内に笑いがどっと沸いた。男とオクサンは知らなかったので笑わない。ふたりは首をかしげる。

「みんな、なにがそんなに可笑しいンかねえ」とオクサンは言う。

「ぼくもわかりません」と男は言った。

 男はサンダルを履いて玄関の窓をふく。

「良いねえ。背が高いってのは。アキちゃんは体格もいいし、いろいろ得をするんだろうねえ」

 オクサンは笑った。男への呼び名は『アキちゃん』に戻っていた。男はうれしかった。

「次は外だね。こっちにきなよ」

 オクサンは座敷をおりて突っ掛けを履いた。

「オクサン」と厨房から声がする。男は止まって厨房を見る。

「どうしたんだい? 」

 オクサンは男にふりむく。

「オクサン! 」また厨房から声がする。

「ほら、突っ掛け、さっさと履きなよ」オクサンは男に言った。

「ママ! 」

 声はリョーマだった。オクサンは厨房へふりむいた。

「オクサン、ついでによ、外の椅子も。ならべといて」

 リョーマは無表情に言った。

「あ、そうだった! 」オクサンは口を押さえる。

「よろしくー」

 リョーマの声は小さい。鍋をぶつける音のほうが大きかった。

「いちいちうるさいねえ、わかってるよ。あたしゃこの道いくねんやってると思って…」

「サンジュウクネン」

 噛みぎみに、リョーマの声がとんできた。

「椅子とはあのプラスチック椅子のことでしょうか」

 と男は言った。

「外に来ればわかるよ」


 男は店の南窓の外側を一枚いちまい丁寧に拭いていく。背伸びすると、窓の上の隅までぞうきんはとどく。それからのれんをあげて一旦外にでてテラスとの間にまわりこんで、店の壁を隔てる窓をふいた。

 南の外側の窓の下にはパンジーの鉢がならぶ。青いのはネモフィラ。花壇にはペチュニアもある。こっちはムスカリとガーベラだ。春を彩る色とりどりの園芸種の草花が、店のまわりに所狭しにならぶ。男はポケットからケータイをだして、しゃがむ。写メを一枚、撮った。

「花木は好きなのかい? 」

「ええ、以前、盆栽屋に勤めていました」

「そういやあ、履歴書にそんなことも書いてあったね。たしか埼玉の羽生のほうの」

「ええ、雨竹亭です」

「禅をする寺みたいな名だね」

「ええ、ワビサビで商売をやっていました。盆栽ばかりじゃなくて砂を敷いて水を浸すスイボンに、ヒトガタや滝のカタチをした小さな石ころを置いて眺めるのを楽しむ。それと、店の敷地の一角に黒木で建てた小さなお堂がありました。雨が降ると、そこいらじゅうにナメクジがわっと湧くんです。テレビで台風の予報がでると社員は総出で棚にならぶ盆栽の鉢を縄でくくりつけていくんです。それでみんなで会社に泊まりこみです。夜は朝まで麻雀を…」

「助かるよ。あとはたのんだよ」

 オクサンは店内に去った。

 窓をふき終わると男は駐車場の西でミツルの姿が見えた。腕をくんで男が置いた黒いロードバイクを矯(た)めつ眇(すが)めつ眺める。男はミツルのところに、走った。

 ミツルはしゃがんで、サドルに片手を置いてギアとディレーラーを観察していた。

「スペシャライズドっていうアメリカのメーカーのやつです」

 男は言った。ミツルはふりむく。

「なかなかいいやつだ。おれはオフロードバイク専門だけど」

 ミツルは言うと男は笑顔を見せた。

「去年、車はやめたんです。経済の事情で。それで奮発しました」

「いくら? 」

「半額セールで三十五万」

「ひゃ〜。でもよく整備してある」

「そういうのは好きなんです。車はできませんけど」

「チェーンを専用のクリーナーでちゃんと洗浄してあって、ルブは適度に差してある。バイクのチェーンもそうだけど、定期的に整備やってないとチェーンってこうは光らない」

 男はうなずいた。

「エスロクは」

「ググれば、相場はでるよ」

 男はうなずいた。

「帰りにエスロクの写メ撮っていいですか? 」

「いいよ。でもおれ、ただの手伝いで来ただけ。むかし野球部のころに山ほど飯を食わしてもらったから。今日たまたま会社が休みで。終わったらすぐに東京に帰る」

 男はうなずいた。

 男はミツルについて歩く。サンダルが思いの外きつかった。左足の親指の付け根の出っ張った骨が当たる。男は足を引いてあるく。駐車場の西にかかる蛇腹の門を開けるのを教わった。外の道路に車がならんでいて門を開けると二台が入ってきた。

 十時四十分。裏門をあける。男はメモ帳に記す。店の入り口からオクサンの声が聞こえる。

「先に、あちちに苗字と人数を書いておいてくださいね。それっからお並びになってくださいね。よろしくおねがいしますねー」

 車から降りてきた客に、自動ドアの前に置かれた名簿を指差している。それからエプロンで手をぬぐって店内に入った。


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