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タイピング日記043 / なんのためにでもなく / よしもとばなな〜『歌うクジラ』村上龍・著、あとがきより〜

ある段階から、私は自分が見聞きして発見したすごくたくさんのことをそのまま書いても、もうだれにも通じることはない、だから徹底的に夢を売ろう、と決めた。
人間は「知りたい」と決めてアキラのようにひたすら移動を続けたら、どんなことでも知りうることになる。
知れば知るほど絶望しても、真実に肉迫していくほかに小説家にできることはない。
一般の人は無意識にそれを知っているが、見ないようにしている。
しかし、知っているからこそ、小説を読むのだと思う。
ほんとうは知っている自分を慰めるために。
ある程度体を動かして世の中を見ていると、そして他の国や業種の人たちと徹底的に交わると、小説を書くことや自分の価値観を売ることの空しさをとことん知ることになる。

それでも小説家は小説を書く。
それがアキラが最後に見つけたような、私たちの「自分の方法」なのだ。

私が「夢を売ろう」なんて甘いことを言っている間に、龍さんはその真逆の道を選んだ。
もうだれも理解できなくてもいい、この世にはまだいないかもしれないどこかの誰かにシェアするために、自分に嘘をつかないために、知っていることを躊躇せず書くのだと決めた。
『歌うクジラ』『心はあなたのもとに』というふたつの小説は、龍さんが心に決めてからの作品だと思う。
そこにはひとかけらの希望もないように見える。この主人公たちになるなら死んだ方がましなくらいだ。私はこれらを読んで、彼のたどりついた場所の、膨大な情報量、無限のバリエーションのある異様な日常、夢や甘みゼロの凄まじさを知った。
そして甘っちょろい自分、幸せや夢や友情を描いて人々を慰安することしかできない自分を恥じた。
しかしこの恥の感覚は、この世のだれひとり私に与えてくれないものだった。
私はなぜかその中でとことん安らぎ、まだ生きていく勇気を得た。
だからこそ私は彼に言ってあげられる。
自分がもうだれにも理解できないかも知れないものを書いている空しさ、大衆にうとまれるほどの真実を描くリスク。そんな孤独を感じることがあるかもしれない。
でも、「ほんとうに」理解して読んでくれる人は必ずいると。
ここにも確かにいると。
私は龍さんの人生を全然知らないし理解していない。しかし小説で言いたいことは100パーセント受けとって、作家の意図どおりにまるでアキラのバックパックの中身にあるもののように、自分の意思によって瞬間の判断で役立てている。
時間というものは無限に小さく割ることができて、その一瞬より短い時間で生死を左右するような判断をすることが、人間の能力の中には実は含まれているのだということも理解し受け取った。
馬の鼻先にぶらさげたニンジンみたいに少し先にある希望や安らぎや幸せのためにではなく、人は生きているかぎりただ生きるしかないのだ。そのためにはとことん今の中で無限の判断をくり返し、その判断をする主体である「自分」でいるしかない。自分とはなにかなんてどうでもいい、生理的、本能的な「自分」だ。
私はこれから甘いものを書いて人々を慰安するしかできない。でもとことんやっていこうと思う。
あと数分で酸素がなくなるような場所、来週には今いるところには住めないような状況、八方ふさがりの状態からじわじわ這(は)い出ることも不可能なとき、そんなときに私の小説を思い出して数秒でも、たとえ死んでしまっても、死ぬまでのわずかな時間にわずかな力を得られるものを書きたい。
私が龍さんの絶望的な小説に深く慰められたように。
夢を描くことも、極めればどこかにたどり着くかもしれない。
私の着く場所が、結果的に龍さんのいるような凄まじい場所に少しでも近いといいと願っている。

「取り戻せない時間と、永遠に共存し合えない他者という、支配も制御もできないものがこの世には少なくとも二つあることを、長い長い自分の人生で繰り返し確認しているだけなのだって、わたしは気づいたの」

私が二十数年かけて甘みと夢を加えながら描いているファンタジーの内容を、たった三行で正確に描写されても、私はちっとも悔しくなかった。
嬉しくて、幸せで、慰められた。龍さんの存在に感謝したい。

最後に。
『歌うクジラ』を読んで、主人公のおかれたあまりにも絶望的な状況に震え、主人公の洞察と本能の力がもたらすかすかな希望に力をもらい、読み終わって自分の日常の安楽さに喜びながら自分の住んでいる場所のあたたかいベッドに寝ころがってほっとする……これが当初の私を含めた大半の人の感想だろうと思う。
でも、読み終えて数日後に「待てよ」と思った私の中にある変化が生じた。考えてみてほしい。私も真剣に考えた。
この小説に描かれていることは、私たちを取り囲む単なる現実だ。
うまくオブラートに包まれているから一見違うように見えているだけで、私たちはひとりひとりがアキラなのだ。
社会はほんとうにこうなっている(こうなってきている、でさえない)し、この中を生き抜くにはアキラであるしかない。
そう思うともちろんこわいし居心地が悪いし、できれば考えないようにしたい。
あきらめて仲間のいる場所にゆだねてしまいたい、そう思うだろう。
でも、違う。
半歩でも一歩でも、一秒でも十秒でも自分でいることを考えるしかない。
もし自分がアキラだったら、どこまでもちこたえられるか。どの段階で投げてゆだねてしまうか、考えてみてほしい。
投げたことを最後の最後に自分がどう思うだろうか? ということも、考えてみてほしい。
その思考は必ず後になってあなたを救うだろう。
救われたからって、幸せになるわけでも生き延びるわけでもないかもしれない。
しかし、自分ではいられるだろう。

「別の人間になることだけは絶対にいやだった。他の人間になった自分をどうやって憎めばいいというのだろうか」

この言葉は世界でいちばん美しい言葉かもしれない。
「逃げられない」よりもずっとずっと美しい。
ほとんどの部分が醜いであろう人間たちが唯一発することができる、美しい言葉なのだ。


『歌うクジラ』村上龍・著のあとがき

「なんのためにでもなく」よしもとばなな

『歌うクジラ』2013年10月16日第一刷発行(講談社文庫)


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