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丸山健二先生へ。



丸山健二先生へ。

丸山塾からの除籍処分?
私淑する大作家からの引導。
悲しい気持ちでいっぱいです。
数ヶ月は立ち直ることはできないと思います。
それはぼくの問題です。
ご心配なく。

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丸山健二先生の直伝の講座(丸山塾)はぼくの作家人生にはかけがえのない財産(と同時に呪い)となりました。この呪いは自分で解かねばいけません。

『夏の流れ』は《他者からの伝聞だけで》上梓した。刑務官、刑務所内部の細やかな描写、それを伝聞のみで創り上げた。衝撃的でした。

様々な小説家のデビュー作「夏の流れ」やいまぼくが書いている小説「上陸者」(恐れ多いですが並ばせていただけるならば)にはある共通点があることに気づきました。デビュー作ではないにしろ、阿部和重さんの「シンセミア」の舞台(彼の故郷)も同じようです。それと、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」も。

世に出るものがあれば下で踏み潰されたものが必ずある。この構図は八百屋の開店、新規事業の勃興、スポーツ界の隆盛、ミュージシャンの流行の構造、みんなおなじです。

ガルシア=マルケスが「百年の孤独」でノーベル賞を受賞したその日。小説「百年の孤独」の舞台になった街はお通夜のように静まり返った。有名な逸話です。丸山先生の「夏の流れ」のネタ(と刑務所の内部の詳細)を結果として暴露してしまったひとびと。「千日の瑠璃」の舞台の街。作品は作家が目撃したかれらの犠牲の上に成り立っている。

今回、デビュー作になるかわかりませんが「上陸者」の後半部分で《久山拳銃》なる最後の純文学大作家が登場します。かれのどら息子である九山那由多は父大作家久山拳銃のことを《親父の文学はもう死んだ、ヤツの文学はもはや死んだ詩だ》と言います。

確認で書きますが。
ぼくはここで私怨を晴らす(ストレス発散の)ために書いているのではありません。

 メタファーで読んでいただければ、息子の九山那由多は大作家九山拳銃のどら息子(妾との二十番目の隠し子)でありながら、実父にその存在は認められない。おれだって立派な小説は書けるんだ! と心で葛藤します。でも九山拳銃は自分のこと(新たな作品の執筆のこと)しか考えません。まるでアウレリャノ大佐のように。

丸山健二先生はまさに「純文学の文字の魔術師」に相応しい大作家です。ぼくのアウレリャノ大佐でした。

「小説なんだから。虚構の物語なんだから、それでいいんだよ。そういう比喩(メタファー)はじゃんじゃん使っていいんだよ。だってきみはじぶんの目で目撃をしたきみの真実を作品に浮き彫りにしたのだ。きみにとっては作品が一番なんだろ。作家丸山健二としてきみの作品を応援するよ。ニンゲン丸山健二としてはきみの人間性は否定するけどね。それでもじぶんの作品をなによりも優先させる。そのひとでなしは作家の才能だよ」

事前(出版前)に先生に一読してもらいたかったのはこう言うことでした。

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もうひとつ。

《デビューした作家は九割は(書けなくなって)消える》

この常識は丸山健二先生の口から聞けたのも貴重な財産です。これは薄々感じておりました。丸山塾で丸山先生の授業を受けて、七月あたりに、ぼくなりの結論が出ました。丸山先生は村上春樹さんを(その文章の表現方式の一部を)毛嫌いしているようですが。ぼくはどちらも大好きな大作家です。

なぜ丸山健二も村上春樹も長くそのキャリアをもって作品を発表し続けられるのか?

己の文章技術を絶え間なく磨きつづける。それが執筆の原動力だ。これがぼくの結論です。ですからその点において、ふたりの作品はなんど読み返しても飽きません。

ロックシンガーでもポップスの作曲家でもエンタメ(純文学)作家でもデビューして一時期は作品を出せる。だが表現者の情熱や作品は尻つぼみとなって、いつしか業界から消えてしまっている。しかし、画家や歌舞伎役者やジャズ奏者やジャズシンガーや噺家のほうは違います。こちらはじぶんの技術を追求(模索)して生涯生きつづける生き物です。

「ことばを疎かにしない。ことばを大事にする」

丸山健二先生から受け継いだ魂です。しかし、言葉を大事にしないから書けなくなる。作家として消えてなくなる。と言う理屈は成り立たないと思います。必要は発明の母と言いますが、伝えたい物語があってそれに見合った言葉をひりだす。ぼくはことばは創作の情熱を後ろから後押しする燃料だと考えます。

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短い間でしたが、ありがとうございました。
敬具。

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