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村上春樹をめぐる冒険。(6571字) / HIU(堀江貴イノヴェーション大学)文公式書評ブログのための原稿



HIU(堀江貴イノヴェーション大学)文公式書評ブログのための原稿

メッセージで「あなたの言っている日本語がわからない」ときた。
文字をあつかう末席を汚す人間の不徳の致すところだった。
ぼくは批評家ではないので反論はしない。
だが、もし村上春樹さんがそう言われたらどう返す(きっと村上春樹さんには過去に猛烈にかみついてきた批評家がいたはずだ)かな? 
考えてみた。
「昔、あるひとに《きみのことばは伝わらない》と言われました。かれのことばのおかげでここまで書いて来れたと思います」
こんな感じだろうか。
でも、作家ってじぶん独自のことばで語るのが職業だから、あれですよね。
よしもとばなな(あるいは堀江貴文)ファンが大江健三郎の小説読んで「これなに言ってるか、わかんない」とおなじですよね。
もうひとつ、自民党議員に「これが裏金です。こういうことは一般ではやっちゃいけないんですよ!」と一般市民が言って、
「え? あ、そうなの? へえ。だってよ。おまえ知ってたか? 」
って話が通じないって場合もありますね。

ごほん。さて、本題。

僕の数少ない読者には「ああ、蒼井さんがひまなときに書いて(noteに出して)きた、毎度の村上春樹コラムの寄せ集めね」となると思います。「羊をめぐる冒険」でちょいと「追加」はありますが。
ほぼ変わりません。
編集バージョンです。
原稿で野原綾さんのくだりをお借りします。
HIU(堀江貴イノヴェーション大学)文公式書評ブログなのでNさんとしますね。


村上春樹をめぐる冒険。その①


ぼくは書き手です。
おなじ書き手側からの「村上春樹をめぐる冒険」をしたく思います。

まず最初に、読書と書物(本)について簡単に書きます。

筒井康隆先生の書籍のどこかにあったのですが、うろ覚えです。それでもここに書いてみます

読書にはいろんな読書がある、理解したいと読む読書から、不眠症の人間が睡眠導入儀式のための読書、社会が話題だから読む、好きな彼氏が読んでいるから読む、母から父から強制的に読めと言われた、学校の推薦図書だから、夏休みの読書感想文の課題図書だから、ブログで読書感想を発表したい、小説はどのようにできているのか分解したい、僕の好きな作家はいったいどのようにしてペンを持ち、あるいはキーボードを叩き、深呼吸をして、ときに散歩をしたり、このシーンはいま流行りの変顔をまるごとワンシーンにしているな、がっはっは。とか作品を描いた筆者の執筆シーンを想像するために読むなど。

読書は読み手おのおのの目的によってなされます。

映画館もそうですね、営業マンが寝るために入るスカラ座って可能性もある。本もそうです。棚に飾ってあるだけだとか、百回読み返しても脚立がわりにするひとだとか。

筒井康隆先生は読書には三段階の深さがある。と言っています。

⑴文字を追う(社会が読んでいる。友達との共通点で。現実逃避)
⑵理解しようと読む(自己発見、じぶんの改革のため)
⑶筆者になろうと読む(同業者がすること。建築家も画家もおなじ)

その作品はどのように作られているか?
これは単なる読者と同業者では違うし、また経験やテクニックでも変わってくる。
この間、僕のブログでNさんからこんな質問をいただきました。

⑴村上春樹は、なぜ簡単なことを難しく書くのか?

⑵村上春樹作品は、読んだ人が、意味のない万能感を身に付ける気がする。

⑴はこれは個人の感想ですが、村上春樹さんはいわば令和・平成で言う「夏目漱石」のポジションです。村上春樹の書籍がでれば社会事件となり、秋にはマスコミと大型書店のバックヤードがざわつき「わーい、ノーベル賞だーい。臨時ボーナスだーい! 」やいのやいの。と騒ぎたてます。新聞紙面に載った村上春樹の一言は、日本の社会に大きく影響を与えます。村上春樹さんは現代の夏目漱石そのものです。

ということで、村上春樹さんの日本文学史上での文体、その構造は社会で語られ尽くされています。同時期に活躍したダブル村上と称された村上龍さんの小説をよく並べられます。一言で言います。

村上龍はむずかしい言葉を使ってシンプルに描く。
村上春樹は平易なことばを使って難解な世界を構築する。

■□■□■

⑴村上春樹は、なぜ、簡単なことを難しく書くのか?


Nさんの問いに簡潔に答えると、

村上春樹さんは簡単なことを小難しくチマチマと思索をするのがだいすきな作家なんです。それだけ。かれには簡単な事象をことさら難しく解釈しているつもりはないですし、じぶんで難しいことを書いている。などと言う自覚もありません。かれなりの独自の考えを「この原稿なら出せるな」と言うレベルまで原稿(文章)を磨いているだけです。村上春樹さんは登場人物が着ている服装やその色やアクセサリーはどのようなものを身につけていたか、などをきちんと書きます。そう言う作家です。スティーブン・キングは「女子高生なら女子高生でいいじゃないか、服なんて描写する必要があるか? 読者が勝手に想像するだろうに」それはスティーブン・キングの書き方です。「巧みな描写はいずれの場合も、選ばれた細部が言葉少なに多くを語っている」(スティーブン・キング「小説作法」)

ひとつ。村上春樹さんの文章にはつねに「世界ってさ。目に見えてるほど簡単にはできていないんじゃないかな? 」っていう洞察(あるいは監視)の目が光っているのが垣間見えます(文学論になりそうなのでここで割愛)。

ちなみに、村上春樹さんの小説の構造それ自体はとても重層的です。その世界には幾重ものレイヤー(層)があり、巨大な影が主人公を小突きまわします。主人公はよくこう言います。

「ぼくはこれからどこへいけばいいのだろうか? 」
「ぼくはじぶんがあちこちから小突き回されるのが嫌なんだ」

では主人公を小突きまわしているのはいったい誰? 村上春樹さんの小説にはよく陰謀論が使われます。ですが、その小説の世界を牛耳る黒幕は舞台に登場しない。あるいは死にかけていて小説の内部にでてこない。笑。でも蒼井は読んでこう思う。
「この作品を描いているのって村上春樹だよね? 」
って突っこみながら読み進みます。

ある小説(1Q84)では、ある日とつぜん、番犬のシェパードが腹の内臓から捲れて死ぬ事件が起こる。原因は書かれていない。ふたつほど伏線であるが…… その回収としては描かれていないようだ。謎のシーンだ。でも、

「シェパードを殺したのは村上春樹(筆者)の手だよね? 」
「メタ文学を書いているのかい? 村上春樹さん」

このことは、三読目にふと、気がつきました(これはぼくなりの解釈でぼく独自の作品の楽しみ方です)。

■□■□■

⑵村上春樹作品は、読んだ人が、意味のない万能感を身に付ける気がする。

これは簡単です。ぼくは彼女にこの一文を書かせた村上春樹さんは恨めしいほど羨ましい! これは作家が最も欲しい腕(技術)を村上春樹さんが備えている証拠ですね。ことばだけで読み手に力を沸き立たせる。

それは、村上春樹さんの言葉に説得力があるからです。

読者がその小説世界(いい小説だったか悪い小説だったかは別にして)に没入していた証です。それこそが小説です。もし村上春樹さんがNさんの記事を読んだら「ぐへっへっへ。してやったり」とまでは思わないかもしれませんが。嬉しいと感じるはずです。作家冥利に尽きますね。

言葉は誰でも使います。ペテン師と小説家は言葉を使うと言う点においてはおなじ種族です。社会の枠外で生きると言う意味でもおなじです。


村上春樹をめぐる冒険。その②


ぼくは村上春樹さんの短編は詳しくありません。ですが長編は五度づつ読んでます。ムック本のように語りたくないので、ムック本よりさらにガチャピンらしく語りたいと思います。

村上春樹さんは処女作「風の歌を聞け」でこう語っています。上の二点のみ理解してればオッケー。

⑴この世に完全な文章も小説もない。
⬆︎反語で汲めば、だからこそ、村上春樹さんは作家人生をかけて書いているわけです。
⑵この世には距離をはかるモノサシが必要だ。
⑶テーマは「源氏物語」の本歌取り。

この二つがデビュー後の村上春樹の作家人生を決めてます。

□■

⑴この世に完全な文章も小説もない。


⑴村上春樹さんがえがく、中・長編にはほとんどかならず「永久機関」なる言葉がでてくる。これは何を意味するのか?
「小説はどんな細密に完璧に描いたとて、本物の世界のようには描けない。それは完璧に見えるだけだ」=「だって文字で構築された世界だもの」=「読者の頭のなかのただのイメージですよ」

□■

⑵この世には距離をはかるモノサシが必要だ。


⑵これは世界観というよりも、その文体に顕著に顕ています。
筆者の文字との距離感。物語と筆者との距離感。キャラクター同士(人間)の距離感。筆者と読者との距離感。
ぼくの個人的に覚えているところです。

 ぱんぱん。と尻を叩いた。

とか、

 もぐもぐ。

この一文でぼくは唸っちゃう。

あとは会話そのものなんだけど、これは同時代の人間しか味わえなかった衝撃。村上春樹が時代を作った業績そのものかもしれません。

誤解を恐れずにかきます。
それまでの日本文学ではいわゆる、純文学の世界でいえば書き言葉の美しさ、谷崎潤一郎や芥川龍之介や三島由紀夫などのいろいろな作家固有の文学的文体(書き言葉)の美しさがすごい! とされてきた。美文調などと崇められてきた。

ある日、村上春樹さんの文章が新人賞をとった。

出版の業界人たち、編集者たちは「これだよ! おれたちはこういう軽い文章が読みたかったんだよ! 」って事件になった。文壇で書かれた文芸の文章ってさあ、重いんだよ。読みづらいしよ、頭が疲れるんだよ。でも、すげえ、この村上春樹はしゃべるみてえに語ってるぜ。ってことです。

もしかしたら、あの文体は、いまでいうラノベ感覚だったのかもしれません。

これは先輩がいます。
田辺聖子さんです。芥川賞になった「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニー)」は当時、日本中に相当な衝撃を与えました(ナウイ。とかの話し言葉を小説の文章のなかで描いたのはこの田辺聖子さんが初めてじゃなかったかな)。だから当時は、小説の内容ってのは二の次だったんですね。村上春樹さんは人気が出てから、研究者たちがこぞって読み始めた。ってことですね。
村上春樹さんの小説で、

やれやれ。

ってのは、ジョジョの奇妙な冒険の主人公がよく使います。

□■

⑶は割愛。


村上春樹さんの作家のライフスタイル。


村上春樹さんの著書「村上さんに聞いてみよう(読者との一問一答集)」で、かれはこんなことを言っていた。

僕はよく読者に「作家さんていいですね。机に座ってするすると書いてお金をもらえるなんて」みたいなこと言われるんですけど困っちゃうんです。じつは作家はみなさんが思っているほど楽な仕事じゃありません。
マラソンに例えて言うならば、一つの執筆をこなした後は、ハーフマラソンを走り切ったほどに体力を消耗します。つまり執筆は肉体労働なのです。

村上春樹

だから、ぼくは日々、からだを鍛えています。
(村上春樹さんの毎日のルーティンを紹介)
彼は毎朝、四時に起きて四時間の執筆。それから軽い食事。
その後に、十キロメートルのジョギングか一キロメートルの水泳、あるいはその両方をやる。午後から二回目の四時間の執筆をする。毎日の執筆量はきっかり原稿用紙十枚。決めている。それから夕食をとる。好きな余暇、音楽や翻訳作業をする。お酒をのんで夜八時には就寝。

かれをそれほど執筆に体力が必要だと思わせているのは何か。
それは彼がこよなく愛するレイモンド・カーヴァーの言葉があります。
レイモンド・カーヴァーの「書くことについて」より。

もし全力で書かないのなら作家を辞めた方が良い。


「その語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう? 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中に持っていけるのはそれだけである」

村上春樹さんはその意味を、翻訳家としてこう訳しています。
『時間があればもっと良いものが書けたはずなんだけどね』ある友人の物書きがそう言うのを耳にして、私は本当に度肝を抜かれてしまった。今だってそのときのことを思い出すと愕然としてしまう。(中略)もしその語られた物語が、力の及ぶ限りにおいて最良のものでないとしたら、どうして小説なんて書くのだろう? 結局のところ、ベストを尽くしたという満足感、精一杯働いたというあかし、我々が墓の中まで 持って行けるのはそれだけである。私はその友人に向かってそう言いたかった。悪いことは言わないから他の仕事を見つけた方がいいよと。同じ生活のために金を稼ぐにしても、世の中にはもっと簡単で、おそらくはもっと正直な仕事があるはずだ。さもなければ君の能力と才能を絞りきってものを書け。そして弁明をしたり、自己正当化したりするのはよせ。不満を言うな。言い訳をするな」
(拙訳『書くことについて』)

普段は温厚なカーヴァーにしては珍しく厳しい物言いですが、彼の言わんとすると ころには僕も全面的に賛成です。今の時代のことはよくわかりませんが、昔の作家の中には、「締め切りに追われてないと、小説なんて書けないよ」と豪語する人が少なからずいたようです。いかにも「文士的」というか、スタイルとしてはなかなかかっこいいのですが、そういう時間に追われた、せわしない書き方はいつまでもできるものではありません。若いときにはそれでうまくいったとしても、またある期間はそういうやり方で優れた仕事ができたとしても、長いスパンをとって俯瞰すると、時間の経過とともに作風が不思議に痩せていく印象があります。


村上春樹をめぐる冒険。その③


元師匠をふくむ有名作家や大作家は、みな口を揃えて「村上春樹はダメだ。あんなのは文学じゃない。ナルシシズムだ」と言います。

猪瀬直樹さんは福沢諭吉が作ったことば「社会」を引用しておっしゃってましたね。総じて日本の老作家たちは、村上春樹を「物語のなかで社会と個人が向き合ってない。じぶんしか描かれていない。だから物語がナルシシズムなのだ」と切り捨てます。

はて、そうだろうか?

大前提として小説とは「何をどのように書いてもいい。それが小説だ」

筒井康隆

最後に一冊だけぼくが最近読んだ小説「羊をめぐる冒険」を紹介します。

そういえば、最近、ガルシア=マルケスの「百年の孤独」の文庫化がされました。これは貧乏学生たち、さらには僕らの世代でもマルケスファンには待望のニュースでした。

羊をめぐる冒険の最後の方(ぼくが北海道の列車のなかでずっと読んでいる本、物語の黒幕の出生が描かれている)に「十二滝町の歴史」があります。あのクダリ。まさに「百年の孤独」の街「マコンド」のオマージュです。
ああ! これこれ! 春樹さんもやっぱりガルシア=マルケスが好きなんだね! と胸にグッときます。笑。

村上春樹さんといえば陰謀論。この「羊をめぐる冒険」も一言で言えば「羊に憑かれた男が日本の政財界を裏で牛耳っている。その人間に憑く羊を追いかける話」です。ネタバレはしませんが。これはよく出来ている。さすがにストーリーテラーです。読んでくれとは言いませんが、面白い。ぼくは五回読んだ。ぼくの猫も二回読んでます。猫に子猫が生まれたら読み聞かせをしようと思うくらい面白いです。

さて、村上春樹作品に出てくる「大物右翼政治家」この当時(二十五年前の学生の頃)はぼくは「金丸信」(竹下登は総理大臣になったので、裏で牛耳るのは金丸信)と踏んでいました。ですが、どうでしょう。
このあいだ、自民党から裏金問題で次の選挙を辞退する。と言った人物。そう「二階俊博」元幹事長。これはもう、黙示録的小説だとしか言いようがない。笑。
社会とばっちりつながっとるやんか! 国民の深層心理にこんこんと鉱脈のように流れる物語。いつの時代も読まれる語り手「ぼく」。

2024年、この夏、「羊をめぐる冒険」をどうぞ!

次回予告、ガルシア=マルケス論

「あれはマジックリアリズムなんかじゃない! ガルシア=マルケスがみたまんまのコロンビアだ! 」はまた次回。


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