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【小説】いかれた僕のベイビー #38


 潮音ちゃんとオレの部屋で朝まで過ごしたあの日から三週間程経ったある日、オレは呼び出しを受けて指定の場所へ一人で向かった。
 タクシーを降りて見上げた先に目的のマンションがある。
 うちのマンションとは明らかに違う高級な造り、飛ぶ鳥を落とす勢いでシーンを席巻中とはいえ、メジャーデビューから一年でこんなにも違うのか。

 今日オレを呼び出したのは、他でもない、向井さんだ。


「すごい良いとこ住んでるんですね」

「まだまだだよ、1LDKでたいして広くもないし駅からも遠いし、最近は電車使わないから問題はないけど。まぁ俺が全曲作詞作曲してるから他のメンバーよりは稼いでるのは事実だけどな。……適当に座れよ」

 そう言って向井さんはキッチンへ行き冷蔵庫を開けている。

「はい、……あ、向井さん、これ」

 向井さんを追いかけて手に持ったままだったビニール袋を差し出した。

「手ぶらでいいのに、律儀だな。お、しかもちゃんと俺の好きなビールじゃん。けど先にこっち飲めよ」

 オレが買ってきたビールをそのまま冷蔵庫に入れると同じ銘柄のキンキンに冷えた缶ビールを取り出しオレに手渡してくれた。



 そのままオレはソファに座らせてもらい、向井さんはキッチンカウンターの側の椅子に座る。

「……悪いな、わざわざ来てもらって」

「……いえ」

「潮音、つーか事務所からも聞いてると思うけど、俺謹慎中だから、外で会うわけにもいかねーし、俺らの活動休止でおまえらにも迷惑かかってると思うから、それも含めていろいろ、おまえと少し話がしたくてさ……」

「大丈夫です、……オレも向井さんと話がしたかったから……」



 あの日の朝、オレの部屋で川西さんからかかってきた電話で潮音ちゃんに告げられた内容は、向井さんの事だった。

 潮音ちゃんはあの夜、向井さんはいろんな事が重なって苛立っているのだと思うと言っていたが、その予想はやはり当たっていた。
 メジャーデビュー前に関係を持っていた女性が子供を産んでいて向井さんとの子供だから責任を取れと、今になって言ってきたらしい。
 身に覚えのあった向井さんは当初事務所に相談せず一人で対処しようとして話し合いが拗れ、追い込まれた相手の女性が週刊誌にネタを売った事で事務所もレーベルもタイアップ曲を手掛けていた企業も巻き込んでの大騒動になってしまった。

 潮音ちゃんに連絡が来たのは彼女が向井さんの従兄妹なので事前に報告しておきたかったからと諸々の事実確認。
 向井さんの印象は誰に聞いても『格好良くて良い人』その位向井さんは徹底的にイメージを大事にし、悪い噂は全く耳にしなかった。女性関係も潮音ちゃんの事を知るまで余程上手くやっていたのかほとんど聞いた事もなかった。
 今一番勢いのあるバンドのリーダーの世間のイメージとあまりにも違うスキャンダルのせいで記事を揉み消すことも出来なかったらしい。
 さらに、向井さんもさっき皮肉を込めて自らネタにしていたが、この一年でバンド内格差によってメンバー間の不満がたまってきていたようで、この一件でいよいよ爆発したそうだ。
 脱退を申し出て来たメンバーもいたため、冷却期間という事で向井さんたちのバンドの活動休止が急遽決定した。

「……まぁ、俺の事とバンドの事はほとんど事実だよ。週刊誌に書かれてる事は、かなり盛られてるけど、子供の事は、DNA鑑定とかしてないから絶対とは言えないけど、恐らく俺の子だと思う。俺に黙って産んだはいいけど、育てるのが大変だとかで連絡してきたんだよ」

 そういえば優菜も生活が苦しくて地元に戻って来たと言っていたな。優菜と話をした時は、似たような案件が身近でさらに起こるなんて思いもしなかった。

「……向井さんは、どうするんですか?」

「さぁ、向こうも大事になって精神的に弱ってるらしくて今言ってる事も無茶苦茶だから、もう少し落ち着いてから改めて事務所通して話す事になってる、どうするかは、それからかな。……バンドは、今は俺がどうこう言える立場ではないから、メンバーに委ねるしかないな」

 ふうっと、大きく息を吐いてから向井さんは煙草に火をつける。

「……おまえも気を付けろよ」

 向井さんの事を知ってから正直、それはオレも考えていた。今は全部関係は切ったとはいえ、過去を掘り返されるとどうにもならない。

「まぁでも、おまえは大丈夫か、俺と違って損得無しで相手の事ちゃんと思いやれるやつだし、なんかあっても上手く対処出来るだろ、……潮音もいるし」

 そんな事はない。損得しか無かった、だけどだからこそ、相手への誠意も忘れないように気を付けてはいたつもりだ。その上で今後もし何かあるなら、誠心誠意対応する、向井さんの一件を知った後に潮音ちゃんと川西さんと相談してそう決めた。
 そして今は何が起こるかわからない未来に怯えるより、目の前のこの人と、ちゃんと話しておかないといけない事がある。

「……潮音、良い女だろ、一緒にいて楽しいとか付き合いやすいとかいうタイプじゃないけど、どんなやつでも相手の本質を見て理解しようとするし、人を裏切ったり傷付けたりするような事もしない。子供の頃からそうだよ、自分が傷付くとわかっていても空気読んで上手く立ち回る、……俺は、あいつのそういうところ全部わかってて、利用したんだよ」



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