自分事と他人事のバランス
共感をする、フリーライターのaoikaraです。
いいことも、悪いことも、いろんな感情に共感する。
たとえば、とてもとてもうれしい出来事。私に直接幸せが訪れるわけではないけれど、誰かのあふれるような幸せに、私の心もおどる。ぴょんぴょんと跳ねているのがわかる。祝福の気持ちでいっぱいになる。私の胸にも多幸感がやってくる。
逆にとても悲しい出来事。胸が痛くなる。ずっしりとのしかかる。呼吸さえも慎重になる。当人が何百倍もつらいに決まっているけれど、それでも私の胸には重々しさがやってくる。
私が言われたわけではないけれど、攻撃的な言葉。自分に向けられたわけではないのに、その鋭さや残酷さが、とてもしんどくなってしまう。とても悲しいと、ただ思った。
共感するのは、自分とは直接関係のない出来事も、自分事として考えているからだろう。誰かを思い、共感する気持ちが、人と人が支え合う優しさや、声を上げて前に進む強い力にもなってきた。
ただ、全ての出来事に共感をしてしまうと、心が持たない。思いは数え切れないほどある。全ての受け止めようとしたら、思いはたくさんありすぎて、抱えきれなくなってしまう。
だから、自分の心を守る意味で、心の距離を置き、自分と相手との線を引くのも大切だと思う。端的にいえば他人事。冷たい響きかもしれないけれど、誰だって全ては抱えきれないから、必要なことではあると思う。
自分を守るだけでなく、相手を守る意味でも、自分と相手との線引き、他人事であるのは必要なんじゃないかとも思う。
共感をして、“自分のことのように”思うのはいい。でも、本当に“自分のこと”にして、相手が抱いていたはずの気持ちを自分のものにしてしまうのは、思いや感情を奪ってしまってはいないかと思う。
たとえば大切なものを失った友人。共感して一緒に悲しむ。寄り添うのはいい。でも、「友人が悲しい < 私が悲しい」になってしまうと、感情の主が自分になってしまうと、本当に一番に悲しいはずの人が置き去りになってしまう。
もちろん、自分事にするからこそ、相手を思い、寄り添い、本気で考え、行動しようと思える。尊い考え方。
だけど相手の思いをいつの間にか自分の中に落とし込んで、自己実現に形を変えてしまうこともある。私は、それは“奪っている”と感じる。
とはいえ、奪う側も悪意はない。相手の思いと自分の考えは地続きで、自分の考えを“主”張することが相手のためにもなる、と本気で相手を思って考えているのがほとんどだと思う。
そして、本当に相手のためになることも大いにある。相手が救われることもある。
ただ、自分のためと、相手のためと、境目があいまいで。自覚なく、相手を利用してしまっていることもあるのだと思う。ただ悪意はないから、ほかの人から「それは結局自分のためじゃない?」と言われても、本当にわからないだろうとも思う。
思いや感情や気持ちは、その人だけのもの。奪っちゃいけない。他人事であることも、言葉のニュアンスとしては違うけど、大切なことではあると私は思う。
誰かの心に共感して、自分事にしすぎていないか、大切なものを奪っていないか。自分の思いを伝えようとするときに、ちゃんと考えなければと思う。
2021年8月20日(金)
No.970
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