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悲しみのエンターテイメント化

おもしろおかしいnoteを書きたいなぁ、と思ってはいるフリーライターのaoikaraです。

できれば真っ昼間みたいな。あるいはド深夜みたいな。類は違えど、からっと、じめっと、笑えるような。でも私が書くnoteは、夜と朝の間のような、なんとも居心地の悪い薄暗さがある。

つらいことも、悲しいことも、全部書いてしまえばいい。まだ傷口が膿んでいて書けないときもあるけれど、時間が経てば書ける。

未来に対して、「ああなったらどうしよう」「こうなってしまったらどうしよう」と心配ばかりしてしまうけれど、「最悪書いたらいい」と思っている。「おもしろおかしく書いてやろう」と。

でも結局、“良心”とか“恥じらい”とかを理由に、書けていない出来事が山ほどある。


しんどいことを“書いて”ではなく、“話して”伝えることもある。目の前の人が驚いたり、笑ったりしてくれると、自分の損な出来事も浮かばれる。とても小さな出来事でも、その瞬間はエンターテイメントになっているみたいだ。

生きていくために、乗り越えていくために、理解するために、消化するために。自分自身の“損”をエンターテイメントにするのは、心を守るために必要な作業でもある。それは話したり、書いたり、もっと別の形で表現したり、方法は人それぞれ。

自分自身をエンターテイメント化するのはいいと思う。でも、誰かの悲しみや苦しみを好奇心だけで暴いているのは、グロテスクなエンターテイメントとして消費しているなぁ、と思ってしまう。

でも、私自身も誰かの犠牲の上に成り立ったエンターテイメントを受け入れているときだって、ある。下手すると楽しんでいる。

その罪悪感を、真っ当な意見のフリして正当性を主張しておけば、たぶん自分は一番の悪者にはならない。だけど、すごくすごくグロテスクだ。


エンターテイメント化するのはあくまで自分だけ。誰かを犠牲にして消費していないか、気を付けようと思う。

2021年8月31日(火)

No.981

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