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タトゥーの彼女


昼下がり。大学にあるピロティ下で煙草をぼんやりと吸っていた。
もう一本目に火をつけようとした時、友人が見知らぬ女の子と一緒に喫煙所に現れた。
その友人と他愛もない話をしながら紫煙を浮かべつつ、それまた自然の流れで彼女とも自己紹介を交わすことになった。
「朝倉くんっていうんだ」
その女の子とは初めましてだった。
「この娘、腕にタトゥー掘ってるんだぜ」
友人の一言。彼女は黒いブラウスの袖をまくる。
白い肩には筆記体で書かれた英語が刻まれていた。
「これ何て書いてあるの?」
「ええとね秘密」
「へえ、ミステリアスだねえ」
タトゥーがあることに正直驚いたし萎縮した。自分の友人関係の中で、そういった人はいなかったからこそ、少しの恐怖を感じた。
だが、それと同時に彼女に対してとてつもない興味がそそられた。
——なんで彫ったんだろう。
素朴な疑問だった。
そのまま話を続けた。彼女は年が2歳ほど上で、でも同学年らしかった。
細い煙草をカバンから取り出し、火をつける。
「それ、ボウイでしょ」
彼女が指さしたのは偶然着ていた何処で買ったか分からない、デビッド・ボウイのTシャツだった。
彼のことは好きであったが詳しくはなかった。でも気に入ってはいたからこそ良くこのTシャツを着ていたのだが、誰からも気づいてもらったことはなかった。
——この娘、ボウイ知ってるのか。
心臓がドグドグと動き出すのを感じた。
彼女に対してシンパシーと興味、そして少しの恐怖。
「これは恋かもしれないよ」
シャツの中にいたボウイが小さくつぶやく。
だが、一目惚れと言うには、ちょっと違和感のある感情だった。

その後も何度か喫煙所で話す機会があった。
「昼休みであれば彼女に会えるんじゃないか」
心の中のボウイの言葉に従った結果だ。
煙草が灰になるまでの短い時間の中で色々な事を話した。
何の曲が好きなのか。どこに住んでいるのか。などなど。

そうして、何度か会ったある日。
「今日空いてる?」
彼女からの誘いがあった。
その言葉を聞いた瞬間、ボウイがウインクしてみせる。
その時、ちょうど他に良い仲になった女の子もいたのだが、すぐさま「YES」の返事をした。
「じゃあ池袋で」
授業終わり、いつもなら通うサークルの部室もすっ飛ばし、待ち合わせ場所へと向かう。

待ち合わせ時刻を少し過ぎたころ、タトゥーの彼女は手を振り現れた。
「行こうか」
入ったお店は小汚い居酒屋であった。
彼女はお酒が好きだった。頬を赤らめにこりと笑う仕草に心が揺れ動く。
「それでさ」
だが、目の片隅に映るのは彼女の肩に彫られたタトゥーだった。それに気がつくとまた少したじろぐ。
ボウイはそんな自分に対してエールを送る。もっと突っ込んで彼女を知ってみたらどうだ、と。
だが、聞けない。そのタトゥーは何で彫ったのか、と。
とはいえ酔いが回るにつれて、ボウイの声は大きくなっていくのだ。とうとうその声に負け、彼女の心の扉を少し叩いてみた。
「そういえば、年2歳離れてるよね」
「うん。私高校行ってなくて、大検取って入学したんだよね。それまで少し色々あってね」
——そうだったのか。
少しは普通の生活をしていた自分と彼女は違う世界にいるのかもしれない。驚きと同時に、どんどんと彼女に対して興味が湧いてくる。
「あのさ」
「ん?」
ジョッキを持ち上げる彼女はこちらを伺う。
「いや。なんでもないよ」
その日は終電前にお開きになった。
酒臭い電車の中で、良い仲になりつつあった娘へのメッセージに返事をすることはせず、彼女の白い肩について考えていた。

その後も喫煙所以外にも一緒に遊ぶに行く機会が増えた。
良い雰囲気になり、そういった事になりそうにもなった。
会ったとき色々なことを話した。自分についてだ。中学の時運動音痴だったのにバスケ部で頑張っていたこと、宇宙飛行士になりたかったことなどなど。
けれど彼女について、その深い部分については知らなかった。ボウイの後押しもあり、何度も聞こうとした。だが聞けなかった。

そういった不安定な友人としてしばらく経った時、あの居酒屋でタトゥーの彼女はきっと運命が変わっていただろう質問を投げかけた。
「朝倉くんは、私のことどう思ってるの?」
ズン、と心の中で沈みこむような一言。
「僕は君のことが」
「私のことが?」
——好きだ、と思う。
他の人とは違う世界で生き、たくさんの苦労も乗り越えた彼女を。だが、そもそも自分は彼女のことを理解できているのか。
——タトゥーの意味も知らないのに。
ただ可愛いくて魅力的な彼女と、そういう事をしたいだけなんじゃないか。付き合って、本当に彼女のことを理解することができるのだろうか。
どうにも困ったからこそ、心のボウイに聞いてみた。にこりと笑い彼は答える。
「そこまで深く考える必要はないんじゃないか? とりあえず飛び込んでみなよ」
彼はそう言ってくれた。だが自分の返事は。
「人として尊敬しているよ」
その続きは途轍もなく格好悪い言葉を続けたと思う。
「そうなんだ。そういう風に思ってるんだねえ」
タトゥーの彼女は微笑んで返事をした。
だが、それは微笑んでいるように見えただけかもしれない。

その後、自分の就活やら父の病気なども重なり学校に行く機会も減った。それに呼応するように彼女との交友も自然と消えていった。

数年たった今でも思い出す。きっとあの時の彼女の質問の正しい答えはなかったと思う。だが、彼女にとって望むべき答えはあったのだとも思う。
では、あの時、何て返事をしたらよかったのか。

暑くなってきた時期に、今でも行き交う女性の肩をつい見てしまう。その肩にタトゥーがあるのかを。


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