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【短編】雨の日に聞く夜の音は

雨の日に聞く夜の音は

若津仰音・作


この音楽を聴くとあの頃のことを思い出す。そういう音楽が誰にでもひとつはある。


楽しみにしていたレコードの発売日。定時で仕事を終えた私は、駅前の高架下にあるレコードショップ目掛けて一目散に駆け出していた。二十六になろうとしている大の大人が、たかだかレコード聞くために、少年のように全速力で走る。周りの目も気にせず、横断歩道を超え、橋を渡り、満面の笑みをさえ湛えてみせる。
「あんた達は、嬉しいというだけで、訳もなく全速力で走ることをもう、忘れてしまってるんでしょ?」
誰に向けるでもなく挑発的なことを心で思いながら、街中(まちなか)を駆けて行く。

息も切れ切れ、ショップに入ると、店長が私を見て一瞬フリーズする。それからすぐに笑い出して、戸棚から私用に取り置いてくれていたレコードを取り出す。

「店で聴いてく?」
「ううん、帰ってひとりで聴く」

「ひとり」っていうのは嘘だ。優しい店長に向って、いつも小さな嘘を吐く。

家に帰って、シャワーを浴び、軽い夕飯を済ませる。
アイラインを丁寧に引いて、コーラルピンクのチークをのせる。
レコードを手に取って、慌ただしく玄関を後にする。
夜の九時、水色のクラシックカーに乗って、街灯照らす幹線道路を疾駆する。
車内にかかるキースのピアノが、気分の高揚に弾みをかける――



半年前の、よく晴れた日の朝――
あの日、私は数ヶ月振りに取れた有休を使って、当ても無いドライブに繰り出した矢先だった。私の愛車も久しぶりに洗車されて、ご機嫌全開のはずだった。ところが、ガソリンスタンドを出て、十分もしないうちに、ボンネットの隙間から、蒸気がもくもく出始めて、私は慌てて近くのバーガーショップに停車した。恐る恐るボンネットを開けると、クーラントが漏れているらしく中の液が半分以上減っていた。
蒸気が上がる中、ボンネット開けて立ち尽くす私の姿は目立っていたのだろう。
「オーバーヒートだね」
たった今バーガーショップの駐車場に滑り込んで来た車から、四十過ぎの男性が出てきてそう言った。彼の車からはキースのケルンコンサートが微かに聞こえていた。
ロードサービスが来るまでの間、私は彼とバーガーショップで時間を潰した。そうすることを私が提案したのか、彼がしたのか、今となっては忘れてしまったが、どっちにしろ、私たちはお互いに、お互いのことをもっと知りたいと感じていたのは間違いなかったはずだ。彼は、この近くにある音響機器メーカーの工場で働いていると言って、名刺に番号とアドレスを添えて、私に渡してくれたのだった。


それから半年が経ち、私は彼の影響でレコードに興味を持った。再生機器がないからという言い訳をして、買ったレコードは彼の家に持ち込んで聴くようになった。数年前に離婚したという彼の住むマンションの部屋は、ひとりで済むには広過ぎる広さだった。ウォルナット製の大きな机やディスプレイラックに混ざって、彼の趣味とは程遠いフリンジ付きのクッションが、いつもソファーの上でひと際目を惹く――




車でキースを聞きながら、信号待ちをしている間に、ほんの半年間で見て来た彼のことを反芻していた。


あの巨大な歯医者の看板を右折して、二個目の信号を左に曲がると、彼のマンションだ。
着くと、まずマンションを見上げて部屋の明かりを確認する。今日も居る。車を客用スペースに停めると、レコード抱えていそいそとマンションの裏口に回る。ここのマンションのエントランスは、夜の九時を過ぎると、閉まってしまう仕組みになっていた。
私は裏口からいつものように中へ入るために、暗証番号を入力する。四桁。1715…ピピーという音が鳴り、弾かれる。7151だったかな…またピピーと電子音が鳴り響く。暗証番号を度忘れして、何度も失敗しているところへ、空からぽつぽつ雨が降り出した。持ってきたレコードが濡れないように、上着でかばいながら、彼に電話して聞こうかどうか悩む。玄関前のインターホンを鳴らして驚かせたい私は、やっぱり何度も、思いつく限りの番号を押し続けてみるのだった。
すると頭上で急に雨音が大きくなって、見上げると、大きなビニル傘。振り向くと、こちらへ傘を差し出す彼が、クスクス笑って立っていた。

「いつから居たの?」
「暗証番号、十回くらい間違えたのは、見てた」

彼は右手を差し出し、コンビニで買って来たらしいアイスを見せた。私たちは、その夜、甘ったるいアイスを食べながら、買って来たばかりのレコードを聴いた。カーテンの無い掃き出し窓には、椅子に並んで座る二つの影が、ときどき揺れては重なっていた。



あれから十年が過ぎ、私はあの頃聴いていた曲を、ときどきスマホアプリで聴いている。
彼も元気でやっているだろうか。
私みたいに、あの曲を、今でも聴いたり、するのだろうか。


【YouTubeでは朗読もやっています (ここクリックで動画に飛べます)】



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この作品についてetc


ずっと一緒に連れ添うひとのみが「運命」の相手とは限らない。
運命の人は、たくさん存在する。


あの日、
あの場所にいなければ
あの日、
もう数秒でも家を出るのが遅かったなら
あのとき、
あんなことを思いつかなかったら
あのとき、
それを実行に移しそびれていたら
あの彼女や
あの彼とは
出会っていなかったというだけで
運命の深さを痛感し感動すら覚える。


家族になれたことも
友達になれたことも

恋人になれたことも
片思いできたことも

仲間になれたことも
分り合えないことも

好きになれたことも
嫌いになれたことも


「出会うってすごいことよね」と
わざわざ言葉にすると
ちっぽけ過ぎることに
驚愕しつつも
出会うだけでもやっぱりすごいのだと
やはりしみじみ思うのです。

あなたが出会った運命の人は
どんなひとたちですか。




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