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第4回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~若いというだけで、敬意を払う対象から外されることも多かった~

『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第四回

二人が死んで以来、何度も
母や父の夢を見させられてきた。
日頃から思い出すことが多いせいで
必然的に夢でも見てしまう
だけなのかもしれない。
思い出される母の姿は、
私がまだ幼かった頃の
元気な母であっても、
そこには必ず母を最期に至らしめた
病気のことまでくっ付いた状態で
描かれているのだった。
どんなに温かく
笑いに満ちた場面の記憶でも、
終わりには、
病気になって苦しんだ母を
助けられなかった日々の記憶で
締めくくられた。


父は私が中学生くらいの頃から、
糖尿病の悪化で
入退院を繰り返していた。
病状が良くなる気配はなく、
合併症で視力がどんどん
失われてゆく絶望感から
「見えへん、なんにも見えへんわ」
と、食事中もテーブルの上に
視線を落として俯(うつむ)く父の顔は
生気を失っていた。
「希望」という言葉を
失くしてしまった父は、
四十代だとは思えないほど
皮膚も髪の毛も艶と色を失って
老け込んでいた。
結局幼い頃に元気だった父と過ごした
数少ない思い出よりも、
病気をして以降の父の惨めな姿の方が
圧倒的な印象として
私の記憶に植え付けられている。


十年以上もの間、
父とまともに口も利かず、
母に全てを任せっきりで、
そんな両親に寄り添うということを
してこなかった自分自身への
憤懣(ふんまん)遣る方無い思いが、
どうしてもあの陰鬱な日々に
焦点を当てさせるのではないか。
二人が呪縛のように
夢に現れ続けるのも
そのせいかもしれない。


もともと父はトラックの運転手で
収入が良いとは言えなかった。
文字通り朝から晩まで
トラックに乗りっぱなしで
家に帰って来ても疲れた様子で、
自分から家族に
話し掛けることも無い。
食事を終えると
そのまま四畳半の部屋で
壁に背を凭れてテレビを傍観し、
風呂に入って
そのままその部屋に
蒲団を敷いてもらって
寝床に就く毎日だった。
もうすでにその頃から糖尿病のせいで
身体が怠かったのだろうと
糖尿病に対する知識が増えてしまった
今では簡単に推測できる。
思春期を迎えた私は
そそくさと二階の部屋へ逃れて行く。
二部屋しかない二階を
楓と私とで主に使用していたが、
母も父を避けるかのように
夜の団欒は二階で
女三人テレビを囲んで
過ごすことが多くなっていた。


父の病気が悪化して
職を失ってしまってからは、
父のわずかな障がい者手当だけを
たよりに暮らしていた。
微々たる手当だけで四人家族が
豊かに暮らせるはずもなかった。
母は
何の努力もしようとしない父を罵り、
私は母に負担ばかりかけている
父の存在を疎ましく思った。
その疎ましく思う気持ちは
自分の生まれ育った町に対しても
向けられるようになり、
私は逃れるように
東京の大学に進学した。
父にも母にも、
大学へ進学すること自体諦めてくれ
と言われたが、
頑として聞き入れなかった。


運よく東京の私大に合格して
不安だらけで始まった
学生生活だったが、
精神的にも自立できていなかった私は
しょっちゅう母に電話をして
泣き言を漏らす有様だった。
それだけでなく、
始めたアルバイトもすぐに辞めてしまい
自分で稼ぐことを放棄した私は、
経済的にも母の収入に全てを頼り切り、
とんでもなく
甘ったれた生活を送っていた。
その頃母は私のために
月十万程の収入のために
近所の倉庫へフルタイムで
軽作業の仕事をしに行っていた。
その収入の全額と、
父の障がい者手当の半分が
私のために使われていたというのは
後に母が膵臓癌で倒れた時に
通帳を見て知ったことだ。
仕送りが足りないと
泣きながら連絡すると、
直ぐに口座に入金してくれる。
毎週のように
食料を詰めた小包まで
送ってくれていたというのに、
私は自分だけが孤独で可哀相なのだと
言わんばかりに、
東京という
巨大生命体が合わせ持つ陰鬱さを
見習うようにして
其処に馴染もうとしていた。


当時は
実家の金銭的苦労等つゆ知らずに、
繁華街に出向いては洋服を買い漁り、
食事は外食三昧で、
過食症気味だった私は
帰宅してからも夜遅くに
スーパーやコンビニに
買い出しに行っては
菓子パンだのカップ麺だの
デザートだのと買い込んで
貪(むさぼ)り尽くす有様だった。
東京では
元々好きだった音楽にも
逃げ込んでいくようになっていた。
音楽が内包する
未知の総和に圧倒され
心を奮わせていた無垢な感受性は
どこかへ置き去りにされ、
ただ音の放つ快楽へと
逃避するばかりのものに
成り下がっていった。


夜な夜なクラブに行っては
暗がりにチラつく音と光に身を委ね、
どんな繋がりで知り合ったのかも
忘れた男と酒を飲んで踊りまくり、
初めて会った男の家に
そのまま泊まって始発で帰る
ということも珍しくなかった。
過食のせいでぶくぶくと
太ってしまった体形を気にしては
絶食を試みて
拒食状態にまで陥るという具合に、
太っては痩せてを繰り返していた私は、
心身ともにボロボロになっていった。
家族のことなど思い遣れる心は、
もう何処にも見当たらなかった。


そんな生活が一年続いたある日、
母から電話が掛かって来た。
「お父さんがまた
 入院することになったわ…」
お金のことは
私には言い辛かったのだろう、
ただ父の様態が悪くなった
ということだけを聞かされた。
私は父の心配よりも
「これを理由にやっと帰れる」と
自分の都合のことしか
考えていなかった。
だが大学へ退学届を提出した後も、
二、三か月は未練がましく
東京の片隅に
へばり付いて生きてみたが、
結局生きていくだけの対価を
何処のバイト先でも
提供し続けることが出来ずに
すぐ放棄することを
繰り返すばかりだった。


もうすぐ暑い夏が始まる
という頃になって漸く、
重い躰を持て余したまま
実家へと帰って行った。


実家へ帰って暫くした頃、
母は「お父さんと離婚したい」
と言い出した。
「今の仕事も体力的に
 随分きつくて…
 もう少し負担の無い
 パートタイムの仕事に
 変えようと思ってるの」
それを聞いて
申し訳ない気持ちで一杯になった。
父の看病もこの一家の稼ぎも
母任せにして来た私は
とんでもない親不孝の
金食い虫だった。
私は
「お母さんの好きなように
 したらいいから。
 私はお母さんと居るから」
と言って、離婚しても
母に付いていく意思を示した。
母は父にも既にその話を
切り出していたのだろう。


ある日の晩、
父の姉にあたる伯母が
家にやって来た。
伯母が家に来るなんてことは
十年以上無かったことだ。

「離婚なんて、
 せんといたってやぁ。
 あの子が可哀相でや。
 長いこと一緒に
 やってきたんやしよぉ、
 ほれ紗英ちゃんも
 楓ちゃんもおるんやし。
 病気のあの子を
 見捨てるなんちゅう
 酷い仕打ち
 やめたってぇや、なあ?」

私は伯母を終始睨みつけながら、
母が私によく呟いていた言葉を
思い出していた。

「お父さんの親戚は
 誰も見舞いになんて来ないわよ。
 糖尿病になったのも私の食事管理が
 甘かったせいじゃって
 遠回しに言われたわ。
 お父さんの母親も
 糖尿病で失明して
 死んでいったっていうのに、
 忘れちゃったのかしらね。
 お父さんが家に居た時、
 毎食前にお腹の辺りから
 インスリンを注射してたでしょ?
 若いころから打ってるのよ。
 本人はそれでも仕事中の馬鹿食いを
 止められなかったみたいよ。
 いくら言っても
 トラックや車の中にまで
 お菓子や菓子パンを隠し持ってて
 我慢できなくなると
 食べちゃうんだもの。
 家でいくら食事管理しても
 本人がわかってないんだもの。
 親戚はそんなこと、
 なんにも知らないで
 ただ私を責めて終わり」

母が私に呟いた言葉には、
母自身を庇(かば)うための言葉も
含まれていたのかもしれない。
けれどそれを聞いた私は、
伯母達への嫌悪感で一杯になっていた。
私自身、父の看病を
して来なかったのにもかかわらず…。

「あんたたちが…
 お父さんの面倒
 見たくないからでしょうが。
 お母さんにばっかり押し付けて…
 こんな時だけ押しかけて来て!
 …帰ってよ…もう帰って!
 離婚くらい…させてあげてよ…」

気付くと
伯母に向ってそう言い放っていた。
憎々しさの入り混じった
遣る瀬無い気持ちで
泣き出しそうになっていた私の横で、
当時高校生だった楓は
わんわん泣きじゃくりながら、
「お父さんと…離婚なんて
 しないでよ!
 いやだもん、しないでよ…」
と、音量調節の出来ていない
聞き苦しい泣き声を振り絞って
二人の離婚に反対していた。
私はそんな楓を見ても、
可哀相だという気持ちは微塵も起きず、
親の離婚に対する子供の反対という
在り来りな図式を目の前にして
嫌気すら覚えたのだった。

その後も両親が離婚することはなく、
二人は亡くなるまで夫婦だった。
この出来事がきっかけだったのかは
分からないが、
母が父の病院へ
洗濯物などの面倒を見に行く時、
私と楓も
ちょくちょく付いていくようになった。


私は地元に帰って来てからも
懲りずに色んなバイトを経験した。
経験したというより
どれもこれも続かなかったせいで
色々やるしかなかったのだ。
クビになった所も何個かあった。
店頭でのクレカ申込受付係は
初日でクビになった。
やる気なさそうに突っ立ってると
目障りだからだと言われた。
大手運送会社での荷物の受付係も
四日でクビになった。
出勤日の朝、
タイムカードを押そうと
自分のカードを探したが見当たらず
店長に聞くと
「もう来んでええよ」
と、眼も合わさずにそう言われた。
怖くて理由など聞く勇気も無かった。


心底労働することを
嫌厭(けんえん)している自分を
どうにかして仕事場まで
連れ出すのだが、
どうしたってやる気が湧いてこない。
ただでさえ元々
不貞腐れたような顔つきなのに
厭々働いているとなると
どんな動作にも
周囲の反感を買うような倦怠感が
漂ってしまっていたのだろう、
今ならクビにした奴らの気持ちが
多少は理解できる。
泣いたって仕方の無いことだが、
そうやって蹴躓く度に
落ち込み啼泣(ていきゅう)した。
自分としては
今度こそ上手くやれるようにと
必死で目の前の仕事に
挑んでいたことも事実なのだ。
そんなことが起きる度に
母は私を際限なく慰めた。
情けなかった。
もう二十にもなった娘の頭を
どんな思いで撫でていたのだろう。


若いというのは
それだけで大変だった。
あの頃の私は途轍もなく
甘ったれた根性で生きていたのも
事実ではあるが、
若いというだけで
敬意を払う対象から外されることも
多かったように思う。
「未知の無知」と書かれた星が
あちこちに
散らばり返って見えた当時は、
視界不良で日々右往左往し、
戸惑い、
傷付く回数も嵩(かさ)んでいった。
あまり自分の年齢を
若いとは感じてこなかったが、
確かに十九や二十の頃は
世に放たれた大人としては
若さの絶頂期だ。
今以上に世の中のあらゆる出来事に
不慣れで、
人と喋ることさえ怯え怯えに
身構えながらだった。


果たして今の自分は
もう二十代も半ばを過ぎ、
あの頃と何が変わったのかと言えば、
ただちょっと肌の張り具合が
下り坂に入り、
物分かりのよさそうな
「二十代一般女性その①」
を演じることが
幾ばくか上手になったぐらいだ。
宇宙を漂流するかのように
生きていると、
人生未曾有の惑星や箒星が
接近しては過ぎ去って往く。
大人になるというのは、
ひとつひとつの星の違いに
興奮したり
戸惑い合ったりするよりも、
全体の押並べられた
塵という総称の中に
わざと埋もれ均(なら)されて、
その塵ごとに見合うような仮面を
いくつも用意して生きていく
ことなのかもしれない。


【YouTubeで見る】第4回(『ノラら』紗英から見た世界)


【noteで読む】第1回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第3回(『ノラら』紗英から見た世界)

【noteで読む】第5回(『ノラら』紗英から見た世界)

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