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第23回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~相対性に寄り掛かることでしか 僕らは思考できないのかもしれない~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二十三回



ベーカリーショップに入ってからも、
彼らの異国情緒な音楽が聞こえ続けていた。
僕も紗英さんも
アイスコーヒーと塩パンを頼むと、
窓際のカウンター席に
横並びになって座った。

外は少し雨が降り出して来たらしく、
高架の外を歩く人々の中には、
傘を差している人が増え始めていた。

道行く人々の中には、
パントマイムの方を
一瞥していく人もいたが、
立ち止まって彼らの演奏を聴いていく人は
ひとりもいなかった。

紗英さんは、
演奏している彼らの様子が気になるらしく、
窓に額をくっつけて、左の方を覗いていた。
一瞬彼女の横顔が
小学生の頃なかよし学級でよく見かけた
女の子の横顔に見えた。
その一心に見詰める横顔の無防備さに
懐かしさを感じ、思わず笑ってしまった。

彼女は僕が笑う気配に気づいたのか、
こちらを振り返ると、
「どうかした?」と言いたげに
首を傾げながら両眉を上げて見せた。

「ごめんごめん、まずは乾杯しなきゃね」

紗英さんは、
僕が笑った意味を勘違いしたらしく、
アイスコーヒーを右手で持ち上げて
僕にも乾杯を促した。

「ピールの最先端ライブ脱落記念に、
 かんぱーい」

屈託のない笑顔とともにそう言い終えると、
冷えて汗を掻いたグラスの角を合わせて
コツリと鳴らした。
一緒に買った塩パンが
思いのほか美味しくて、
ふたりでやたらと感心した。

紗英さんは、
一口サイズに千切った塩パンを
口の中へ放り込みながら、
遠い目つきで
窓ガラスの向こう側を見遣ったまま
小さく呟いた。

「自分にとって実体を伴うもの——
 いや、伴わなかったもの」

彼女は口の中の塩パンを
ごくりと飲み込むと、
こちらを振り返って続きを話し始めた。

「昔、大学行ってたときの体育の先生が
 そう言ってたんだよね。
 なんで離婚しちゃったの?っていう
 ストレートな私からの質問に、
 表情ひとつ変えず、
 彼女そう答えたんだよね。
 彼女にとって、彼との結婚は
 実体を伴わなかった——
 そもそも実体ってなんなんだろうね。
 多分、自分ありきのものなんだろうね、
 実体って。
 この世界自体そういうものなんだろうけど。
 実体は私に観察されて
 初めて実体と名付けられる——」

「・・・実感は、自分ありきだろうけど。
 実体は、どうだろ。自分はいなくても
 存在してそうな雰囲気だけどね。
 急に難しいこと言うね」

「なるほどね。
 さっきのピールのライブは、
 私には実体を伴わなかった。
 で、逆に
 今ここのお店の隣で演奏してる彼らは、
 私にとって実体を伴っている——
 結局主観でしかないんだけど。
 でも実感って言うのとは違うくて、
 もっとこう認識然とした
 実体っていう言葉のほうがしっくりくるな」

「エンティティはただの入れ物だ、
 って芳武さんが言ってた。
 それ単体だけで
 なんの関係性も保持していないものは
 なんの意味もなさないって」

「・・・何それエンティティって」

「実体って意味だって。
 僕も同じこと芳武さんに
 質問したことあるから。
 実体って何なんですかって
 続けて質問したら、
 知るかボケって怒られたけど」

「ふーん、エンティティねえ」

エンティティはただの入れ物——
個々の特定の入れ物にとって必要なものは、
最初から決まっている——
それを入れておくために存在する。
じゃあなんで入れ物が存在する必要が
あるのだろうか。


その時僕は、
この間見た夢のことを思い出していた。
果てしなく並んだ
アカシアと何かとの関係性について
記された謎の蔵書群。
無論、それは所詮夢の中の出来事だから、
そこから何かを導き出したとしても、
隣に居る紗英さんをさえ、
力強く説得させられるだけの
材料にはならない気がした。

そもそも風変りな演奏者たちが
この高架下に居なかったら、
実体云々の思考回路すら
生まれなかっただろう。

相対性に基づいた何かと何かの関係性に
寄り掛かることでしか
僕らは思考できないのかもしれない。

「なんか人増えて来たね、
 ライブ終わったのかも」

紗英さんの言葉と視線に促されるように
僕も窓の外を見遣った。
コンビニの隣にある駅の改札口前は、
さっきとは比べ物にならない量の人混みで
ごった返していた。
頭にタオルを被って
雨を凌いできたらしい人も
ちらほら見受けられた。
こんなに大勢の人が居るにもかかわらず、
高架下で
パフォーマンスを繰り広げている老人たちに
意識を向ける人は
ひとりもいないように見えた。

「そろそろ行く?」
「そだね。ああでも、ちょっと待ってて」

紗英さんは僕の問いかけにそう言い残して、
売れ残ったパンの並ぶ棚の方へと
立ち去っていった。
しばらくしてから彼女は、
紙袋を片手に戻ってきたかと思うと、

「あの人たちにあげよっかなと思って」

と言って、
僕にわざわざ袋の中身を見せてくれた。
さっき食べた塩パンが五つほど入っている。
僕はくすりと笑ってから
「じゃあ行こっか」と言って席を立ち、
彼女と店を後にした。


店を出ると、雨の匂いがした。
昼の間、
灼熱の陽に照り付けられたコンクリートは、
通り雨ごときでは冷め切ることができず、
その熱気を持て余しているようだった。

高架下の五人組は、
すでに演奏を止めて
楽器類を片づけ始めていた。
身支度をする老人たちを
呆然と眺める紗英さんの背中に向って、
僕は「帰っちゃうよ」と催促したが、
彼女は「やっぱりいいや」と言って、
僕を振り返りながら笑った。


老人たちは、雨の上がった空の下、
街灯の光りで艶めく路上を、
ゆっくりと下って行った。

吉岡さんとの待ち合わせ場所に指定した
一号出口脇の駐車スペースには、
既に彼の車が停車していた。
遠くからだと
車内には誰も乗っていないように見えたが、
近づいてみると、
運転席を倒して横になっている
吉岡さんの姿が見えた。

紗英さんが助手席のサイドガラスを
コンコンと鳴らすと、
吉岡さんはすぐに目を開けて体を起こした。
どうやら
眠っていたわけではなかったらしく、
満面の笑みとともに
僕らを車内へと迎え入れてくれた。

「渋滞に巻き込まれたらあかんと思って
 早めに出たんやけど、
 逆に早く着き過ぎてもて」

吉岡さんは車を出しながら、
バックミラー越しに僕らの方を見て
照れ笑いをした。
それから紗英さんに目を合わせると

「久しぶりにデネブに行かへん?」

と問いかけた。
僕の隣で彼女が「それいいね」と言って
快く笑う。

「俺の高校のときの同級生がやってる
 多国籍料理の店やねん」

彼は十字路を右折しながら、
今度はデネブに行ったことのない
僕に向ってそう説明してくれた。



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