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【名作 朗読】『夢十夜』第九夜 夏目漱石

漱石の『夢十夜』を朗読中です。

YouTubeに第一夜から順次アップしてます。

ご興味のある方は是非YouTubeチャンネル『ノラらTUNE』の方に遊びに来てください。



第九夜 (ここクリックすると動画に飛べます)



夢十夜全体に表現されている
「信じていたい事を信じ続けずには
 生きていけない人間の機能」を
もっとも判り易く表したものが
第九夜だと感じました。

母は我が子に
父が今に帰るということを
繰り返し言って聞かせます。
夜の目も寝ずに
子を連れて
度参りまでしています。

しかしその父は
とくの昔に殺されていた。

最後には、母から聞いたその話を
「悲しい話」だと言い切って終わります。

この話を夢の中で聞かせた「母」と
実際に父を待ち続けていた「母」は
同じ人物だったのでしょうか。

違う人物であったと捉えることもできるように
漱石が仕込んだのかもしれない、と感じました。

もしくは、
夫を待ち続けていた「母」が
自分の人生を終えた後ようやく
夫はすでに死んでいたという事実を知り
それで母は、我が子の夢の中に出てきて
父が死んでいたという事実を話して聞かせたというロマンチックな捉え方もできます。


違う人物だったと捉えた場合
最後の文面で、突然一人称的文章が登場することによって、
最初は三人称形態の小説だと思って読んでいた読者を
少し裏切ることができます。


「物事のゆらぎには敵わない、信じることの儚さ」

信じることで
見聞きしている物事が
一瞬は望み通りに固定されますが
別の「信実」によって直ちに崩壊させることもできる。


地球の持つ不思議な構造。


また、別角度からは
第三夜と第九夜を対比して鑑賞することもできます。
我が子の父と母に対する態度の
対照的表現も見て取ることができ、
第三夜と第九夜を対比して鑑賞したときに
生まれている魅力のひとつでもあります。


第三夜に登場する「父」は
自分が殺人者だったことに
我が子によって気付かされ
思い込んでいた事実が違っていたという「事実」によって
裏切られています。

第九夜では対照的に
夫がいつか帰ってくるという事を
思い込みたい「母」が
我が子にまで同じことを信じさせようと
「今にお帰り」という言葉を教えます。
しかし我が子に「お父様は」と訊いても
子は「今に」とだけ答えて
「帰る」とは一度も言ってくれなかった。
更には、箱庭的手法によって
最後の段落で
夫は既に殺されていたという
ある意味別の事実が明かされます。
ただ、この明かされた事実を
夫を待ち続けていた「子の母」は
知らないまま生きた可能性も残しています。

「信実」を語る人の数だけ
事実も生まれ出てしまうのかもしれません。


最後にこの事実を「悲しい話」だと言い切ったのは
本当はこの事実に向けられたものではなく
「信じていたい事を信じ続けずには
 生きていけない人間の機能」
に対して放った一言なのかもしれません。



みなさんはどう感じられましたでしょうか。




追伸

「信じていたい事を信じ続けずには
 生きていけない人間の機能」というものは

身近なところで常に発揮されています。

「これを食べると体にいい、ことを信じている」

「マスクをしないなんて最低だ、と信じている」

「マスクする必要などない、と信じている」

「キリストを信じている」

「宗教など必要がないことを信じている」

「宇宙人はいる」

「宇宙人などいない」


「どっちでもいい、ことを信じている」


結局、何かを信じていると言えてしまう。




あーあ。漱石に会いたいな。

多分最高の親友になれると思う

(と、勝手に信じさせてもらってる)。

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