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第15回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~蝶が蛹を認識する日~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第十五回



その日も僕は入れ替え忘れたままの
昨日と同じカセットテープを聞きながら、
定刻どおりに電車とバスを乗り継いで出社し、
飼育ポットの品質基準をこなしたあと、
紗英さん達と卓球で汗をかき、
午後からは実験の合間にロボさんと
蝶のデジタル図面の校正をし終えて、
定時に退社した。


夜にはトキさん宅で夕飯を戴き、
茶を飲んだ。
田所さんが
「今日が満月なんじゃない?
 なんか大きく見える」と
縁側の外を見上げて言った。
もしかしたら、
田所さんは昨日の夢を
知ってるのかもしれないと思った。
夢の話をしてみようかしらと思ったが、
あの興奮を
微塵も伝えられそうになかったからやめた。
そもそも夢の話なのだ。
田所さんは
ズレかけた眼鏡をぐいと持ち上げると、
いつものように
ごくごくと音を立てて冷茶を飲み干した。
僕はトキさんに
明日の晩御飯は要らないことを
前にも伝えていたが、
念のため
自室への帰り際に再度伝えておいた。


なんてことはない一日が今日も終わった。

自室に戻り間接照明を灯した。

いつもの部屋がやけにだだっ広く見えた。


開け放したままの窓からは、
七月の暮れとは思えないほど
清涼な風が吹き込んでいた。
ベランダの窓から
トキさんの庭を眺めながら、
明日仕事が終わった後のことを考えていた。
紗英さんと一緒にライブ会場に向かうため、
明日はフレックスじゃなく
皆と同じ時刻に出社する。


ピールのライブは
いつも新曲で溢れている。
新曲が詰まったニューアルバムは
全国ツアーの真っ最中か、
それが全て終わった後に発売されるため、
前もって新曲を聴いておく術はない。
この胸の違和感はそのせいなのだろうか。
確かにライブというRAWな状況で
新曲にありつける歓びは大きいし、
それが明日叶うのだから
心が高揚しないはずがなかった。
それにしても、
そんな遠足前の子供が抱くような
真っ新な興奮状態から
この違和感が生じているとも思えなかった。
まだ夢から
醒め切れていないだけなのかもしれない。

今日一日、
僕は羽化直前の蛹のようだった。
殻と身の間に隙間が出来て、
そこに空気が入り込む。
突如始まった変化に、
寸刻身動きをとれず戸惑っている蛹だ。

これが自分だと思っていたものは殻だった。

出来た隙間が、僕にそれを教えた。

次の日の朝、
僕は普段より一時間程遅く家を出た。
一時間遅れに見た太陽は、
眩しい空から過度なほど
絶好調に熱いエネルギーを降り注いでいた。

会社の更衣室に着くと、
すでに冷房が効いていて快適だった。
着替え終えて廊下に出たところで
吉岡さんと鉢合わせた。
喫煙ルームで一服していたらしく、
ぼんやりと煙草の残り香を纏っていた。
「早いんですね」と声を掛けると
「おう、おはよう。
 朝から工場の方で立会いがあってん」
と返事があった。
それから「そうや」と
何か思い出したような口ぶりに続いて
「今日の晩、飯行こうや」と付け足した。

「今日は——」
「知ってるがな、ライブやろ?
 ほんまええなあ、俺も行きたかったわ。
 ライブが終わるころにビオンホールまで
 車で迎えに行くわな」

吉岡さんは
僕の言葉を遮るようにしてそう言った後、
親指を立ててグッドポーズをし、
そのまま事務所に入っていった。

昼食後の卓球タイムは、
吉岡さんのペースに乗せられて
卓球そっちのけとなり、
ライブ後は何を食べに行くか
という話で持ち切りだった。


終業のチャイムが鳴り、
定時上がりで帰れる従業員が
一斉に事務所から立ち去っていく。
僕も実験室の机を片づけて更衣室に向かう。

着替え終わって廊下に出たが、
紗英さんの姿はなかった。
なので、更衣室の向かいにある
ガラス張りの休憩室に入って
待つことにした。

休憩室には自販機が二台と
大型テレビが一台設置されていて、
その前を陣取るように
テーブル一台と椅子が三脚配置されている。
部屋の隅の方にも
小さなテーブルと椅子が置いてあり、
その前には
カラーボックス二つ分の本棚がある。
そこに並べられた本や雑誌は
借りることができる仕組みになっている。
今まで休憩室は、
マネージャとの個人面談時にしか
利用したことがなかった。
僕は部屋の隅にあった椅子に
ぎこちなく腰掛け、
目の前にある本棚の中の背表紙を
何とはなしに見ていた。
部品関連の本や
デザイン系統の本に混ざって、
小説や自己啓発の本も沢山並んでいた。

その中に『関係と性』と名付けられた
比較的薄目の背表紙が目に留まった。
この前見た僕の夢——
アカシアと何かとの関係性関連の本が
書棚で増殖していくシーンが脳裏を掠めた。
そろりと手を伸ばし、
本棚からその本を抜き出した。
カバーのない白一色の装幀の表紙には
卵のような楕円形のフォルムをした
球体が描かれていた。
そのつるんとした素材の球体は透けていて、
中には航海時代の
船舶のようなものが浮かんでいる。
帆柱はない。
写真なのかCGなのかよくわからないほど、
鮮明でリアルな表紙だ。

「堀ドンごめん、待ったよね」

突然の声に振り返ると、
開けっ放しだった休憩室の入口から
紗英さんがこちらを覗き込んでいた。

「ううん。行こっか」

僕は席を立ちながら
手に持っていた本を
リュックの中へ滑り込ませると、
そそくさと休憩室を後にした。


【YouTubeで見る】第15回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


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【noteで読む】第16回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

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