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第16回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~僕のこころは、君の横顔にもリフレクトしている~

『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第十六回



紗英さんと駅前行のバスに乗車し、
電車に乗り換えて
シエナビオンホール前の駅へと向かった。
車内は満員で、
ふたりとも吊革に掴まりながら
今日の出来事について
つらつらと会話していたその時、
ふとリュックの中の本の存在が気になった。
本棚の上に図書貸出ノートが
乗っけてあったことを思い出したのだ。
そこに名前も記入しないまま、
この本を
持ち出してきてしまったことに気付いて
「しまったな」と思った。

「ちょっと、聞いてた?」

不服そうに
僕の顔を覗き込む紗英さんに対して、
慌てて「はい聞いてます」と即答すると、

「堀ドンでも嘘つくことあるんだね」

と言って、
肩を震わせてクククッと笑い始めた。
休憩室の本棚前に
取り残しかけた僕の脳は、
隣で揺れる紗英さんの
小さな笑い声で目を覚ますと、
今度は、
機嫌よく喋る紗英さんの話の方へと
取り紛れていった。

僕らは開場時刻を回ったぐらいに
ビオンホールに着いた。
本当はもう少し早く着く予定だったが、
到着した駅前で
クッキーの缶で代用した
マーチングドラムに合わせて
パントマイムを演じる道化師に
紗英さんが見入ってしまい、
二十分ほど足止めさせられたのだった。


ビオンホールのエントランスを抜け、
クロークに荷物を預けると、
そのまま薄明るい会場内へと歩を進めた。
場内は空調が効いていてとても涼しく、
湿った肌が一気にさらさらになっていく。

会場内に入って
まず初めに目に付いたのは、
中央の丸いステージ上に置かれた
大きな白い球体だ。
そこから花道のような細いステージが
メインステージまで伸びている。
まさかアイドルの常套ライブみたいに、
ピールが中央の球体のある
ステージまで出てきて
パフォーマンスするつもりなのだろうか。

「なんじゃ、あの白い玉」

紗英さんは、
不自然に目立つ白い球体に
視線を合わせたままそう呟いた。
さっきから彼女は、
肌寒いといったふうに
半袖から出た両腕を摩って
首を竦(すく)めている。

僕らの指定されたブロックは
前から二ブロック目で、
メインステージを右斜め前方に
拝むことのできる優秀な場所だ。
その場所からは、
大きな白い球体が
ぽかんと宙に浮いたように見える。

僕らの回りにいる観客は、
そんな白球のことなど気にも留めず、
今か今かと開演前の高鳴る気持ちを、
一緒に来た友達やら恋人と
分かち合うように笑顔を零し合っている。

服装の趣向が似通った観客達の中心で、
紗英さんは会場の雰囲気に馴染む前の
自分の存在を確認するかのように、
ゆっくりと辺りを見渡している。

徐々に彼女の周りだけが、
雑音を通さない
柔い泡に包まれ守られていく。

普段会社にいるときにも、
彼女は時々こんなふうに
泡を作って自分を隔離する。

産卵期のモリアオガエルが
樹上に拵(こしら)える泡巣のように、
一瞬で自分の躰を丸い泡で囲んでしまう。

憫(あわ)れみに満ちた彼女の横顔に、
僕はいつも呼吸をし忘れ見入ってしまう。
自身の死期でも悟ったかのように
諦観(ていかん)しきった眼差しで
泡の外を見詰めた途端、
彼女以外の時間が止まる。

こんなふうに口幅ったく
形容してみたところで、
彼女は僕にそう形容されたというだけで、
以上の言葉が
彼女を表しているわけではない。
ただそう形容したいと感じる僕の中に
そう形容された彼女がいるだけだ。


彼女の輪郭上で
ふるふる揺れるあどけない泡は、
もうあと数秒もすれば
消えてなくなるだろう。
周囲の騒響(ざわめき)が、
上気する微細な泡に絡まりながら、
スモークの効いた空宙へと
昇華されていく。
会場の片隅で消え入りかけている
儚い泡へ手を伸ばせば、
彼女の廓寥(かくりょう)とした安穏に、
感じ入ることができるだろうか。

廓寥とした安穏だなんて、
これも専ら僕の紗英さんに対する
個人的推察でしかなくて、
そう推察したということ自体が、
僕の中に
「廓寥とした安穏」という
空間があるのかもしれないということを
知り得ただけのことで、
実際に紗英さんが
やさしい泡の真ん中で
何を感じていたのかなど、
知る術はない。

誰にも誰かの心の真実を
同定することも
客観視することもできないのだ。
いや、できないと断定してしまうことすら
僕には決断できないが、
少なくとも僕から見える世界においては、
混沌も同定も、主観も客観も、
同じコインの裏表でしかない。

「戻って来てよ」

僕は紗英さんの横顔に向って
唐突に声を発していた。
それは僕じゃない他の誰かに
言わされたような感覚だった。
自分の声に驚いている自分が居た。

もちろん紗英さんは僕の声に気付き、
はっとした表情でこちらを振りむいた。
そのため僕達は至近距離で
驚いた顔を突き合わせるという
間抜けな構図を作り上げることになった。
真顔のまま静止状態だった紗英さんが
「ふふっ」と、短く息を漏らした途端、
彼女の顔は
含羞(はにか)んだような笑顔に変わった。

笑いながら「気持ち悪っ」っと言って
肩を竦めると、
今度は眉を顰(ひそ)めて
クスクスと笑った。

会場の室温も相まってだろうか、
さらには竦めた肩を
両腕で摩る素振りをして、
「サブいこと言うなよ」とでも言いたげに、
僕の顔を覗き込みながら、
埋(うず)めていた顔を上げて
より一層ニタニタと笑った。

なんと声を掛けるべきか
彷徨っている僕の様子に
気付いた紗英さんは、
覗かせていた白い歯を隠すと、
僕の顔へ
ぐいっと両目を近づけてこう言った。

「戻るもなにもずっとここに居るよ。
 意識が天井まで巨人化しちゃってただけ」

天井まで巨人化していたらしい意識について
突っ込もうとしたら、
彼女が急に僕の肩を
左腕で強引に引き寄せた。
「堀ドンかわいいとこあるよね」と
透き通った声が耳元でしたかと思うと、
今度は酔っ払いみたいにわさわさと
僕の肩を揺すって笑い出した。

無邪気な彼女の腕に揉まれながら、
何処かで嗅いだことのある
匂いがするなと思った。
彼女の鼻に抜ける笑い声の中で

「ああ、これは銀木犀の匂いだ」

と、僕は何故か深くそう思った。
何年も前の十二月の初めに
トキさん宅の玄関先で見つけた
銀木犀のことを思い出した。

季節外れの白い小花が一房、
生垣の隙間で健気に咲いていた。
その花がそこに在ることに気付けたのは、
その花の発する匂いのおかげだった。

金木犀のような強烈な香りはないものの、
冷えた秋空のように爽やかな微香は、
帰宅した僕の鼻腔の奥を
やさしく通り抜けていったのだった。



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