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黎明の眩しさという至福。

不意に、汽車の壁がきらりと金襖のようにひらめきました。それは瞬きのようでしたが、たしかに金鶏が羽ばたいた時のようなきらめきがあったのでした。ルラと二人の少女は驚いて外の方を見ました。そこは、上品な白露をまとったイワグルマの羽がいちめんに靡く裾野でした。むこうの空では、柔らかい絨毯のようにいくえにも折りかさなって広がる白い雲がだんだんと朱鷺色に染められています。
「黎明だ。」
ルラは少年のような眸をかかげて、黎明の淡い炎に燃やされゆく向こうの朱華色を見つめました。よく聞いてみると、風の囃しに合わせてインディオたちの歌と躍りがとおくの方から響いてきます。
「あの歌は何ですか?」
ルラは少女にたずねました。
「あれはディンカの人々です。彼らは黎明が来るたびにああして躍り、歌うのです。彼らにとっては朝がめぐり来ることは一つの奇跡のようなものです。あれはアポロンの神話の、ほんとうにはじまりの躍りのようなものだと思います。」
左に座っている少女がそう言いました。それはほんとうでした。彼らは黎明のひとときに欣び、一声ごとに、一呼吸ごとに力をみなぎらせて瞬時の推敲を行うのでした。そしてそれは、ルラの故郷のあのはるかなる神楽の響きのようでもありました。彼らの歌は次第にリズムをかえながらだんだん大きくなっていって、そしていよいよ黎明の炎が裾野へ燃えうつろうとするその時にこれまでになく響きわたりました。そしてまた、それは次の瞬間でした。竈の中で燃やされた硝子のように柔らかく撓う金烏が、いっそう鮮やかになった朱鷺色の雲を燃やし尽くす眩い炎をまとって不死鳥のごとく裾野の向こうからすがたを顕したのです。その不死鳥の炎は、イワグルマの羽にびっしりとついている上品な雫たちをいっせいにすきとおった白金色で貫き、きらめかせ、かぎりなく広がっている裾野を一瞬にしてそのプリズムで一杯にしました。それまでねむっていた鸙たちもその目眩く金色や朱色の黎明に驚いていっせいに飛び立ちます。それは、至高の朝の一幕でした。大気は蜃気楼のように淡くゆらめいていて、その中に一分のすきもなくとけ込んだ光の粒子たちは裾野に吹く螺旋状の風に抱き上げられて黎明の空へと立ち上っていくのでした。そして、インディオたちはその神々しい朝の一幕にみじかい喝采をおくったのでした。汽車の壁や天井に彫られた模様の意匠たちはそのすきとおったきらめきの中で精緻に切り出され、ルラと二人の少女はいっそう明るくなった眸をりんとさせてただただ見入っているばかりでした。そんな黎明の中を、三人をのせた汽車はものすごい早さでかけぬけて行きました。

日比野京『鷺』/ Key Hibino『Heron』

白馬の裾野で見た朝日のドラマチックな眩しさときらめきが瞼の裏からいつになっても消えないものだから、それを文学に昇華せずにはいられなくなって書いた短文。日比野京という名義で書いた『鷺』という小説の第一章の一セクションにあたる。

「黎明の眩しさ」というもの以上の至福を僕は知らない。壮大なオーケストラの音楽に象徴されるような響きの奢侈も、ビートルズやディランなどが聴かれたあの微熱と昂奮であふれた70年代のコミューンの目紛しさも、美術史の高峰と言われるような芸術家たちが革命的な力作を次々と織りなしていったメトロポリタン的なきらめきの日々の驕奢も、黎明の眩しさという至福にはとうてい敵わない。氷河時代 ── 地質学で言うところのThe Cenozoic era Quaternary Pleistoceneの無慈悲な夜のこごえをしのぐ術を持たなかった太古の人々は、黎明とともにふたたび地表を優しく包み込んで温める朝日の眩しさに一切の希望と欣びと命の躍動とを見出していただろうと僕は思ったりもする。誰よりも華やかな暮らしを好んだ哲学者であるジョルジュ・バタイユは、著書『至高性』の中で至福についてこのように書いている。

例えばそれは、ごく単純にある春の朝、貧相な町の通りの光景を不自然に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならない……

ジョルジュ・バタイユ『至高性』

バタイユはここで、黎明の眩しさというシンプルな至福のうちにあらゆる奢侈の極限のかたちを、量化され消費されることのないかたちで、ほかの誰も抑圧することのないかたちで見出している。黎明の眩しさという至福。大気に満ちる光の粒子がゆっくりと動きはじめる黎明の中を歩くとき、僕はつねづねこのことを思わずにはいない。

サムネイル:菅かおる『浮遊』


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