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十読は一写に如かず、「読書のちから」若松英輔さんより

本を読む事は本当に大好きなのだけれど、では「書く」となると本当に難しい。
noteを始めて3か月、毎日何かを書いてみてはいるのだけれど、結局何を書きたかったのか分からないまま記事をアップするような事もあった。

書く行為は思い出す行為でもあると思う。
過去の記憶でも想像の世界の事であっても、自分の感性が反応した事柄があってそれを書いておきたいと思ったら、まずはその反応地点まで戻らなければならない。そして無事たどり着けたら、情景をよく観察して余韻のように漂っている感情をたよりに当てはまる言葉を探していく。
これが思ったより体力を必要とする作業だったのだと、書くようになってから初めて気がついた。

noteで沢山の素晴らしい記事を読ませてもらって感動を味わうのと同時に、稚拙な自分の文章がとても情けなくなる。でもこの思いを経なければ、書くことへの努力も勉強も進んでいかないんだと、自分になんとか言い聞かせて踏ん張っている。

先日読んだ若松英輔さんの本の中に、とても励まされるような言葉が綴られていたので少し抜粋。

「読む」と「書く」はまさに、呼吸のような関係にある。「読む」は言葉を吸うこと、そして「書く」は吐くことに似ている。「読む」あるいは「書く」という営みは、世に言われているよりもずっと身体を使う。「あたま」だけでなく、心身の両面を含んだ「からだ」の仕事なのである。

『読書のちから』という本の中の、「十読は一写に如かず」というエッセイ
の文章だった。図書館で借りて読んだのでもう手元には無いので、もしかしたら正確な引用ではないかもしれないけれど、とても大切な事のように思えてノートに書き写しておいたのだった。

沢山本を読んでいる割に、自分が書く文章にはその経験が何にも反映できていない気がして、勝手に落ち込んでいる時に読んだものだった。書ける人というのはやっぱり秀でた才能を持っていて、自分程度の表現力、文章力ではお話にならない世界なのだと。

そんな時、この若松さんの文章はとても力強く心に響いた。続けて引用。

さらに言えば、深く読むために多く本を読んでもあまりうまくいかない。
それでは吸ってばかりいることになる。
書くことにおいても同じで、深く書きたいと思って、多く書いてもあまり功を奏さない。深く「読む」ためには深く「書く」必要がある。
「読む」を鍛錬するのは「書く」で、「書く」を鍛えるのは「読む」なのである。「読む」と「書く」を有機的につなぐことができれば、言葉の経験はまったく変わる。
それを実現する、もっとも簡単な行為は、心動かされた文書を書き写すことなのである。
本に線を引くだけでなく、その一節をノートなどに書き記す。じつに素朴な行為だが手応えは驚くほど確かだ。
「十読は一写に如かず」ということわざもある。一度書き写す、それは十回の読書に勝る経験になる、というのである。

なんとなしに本から抜いて文章を書き留めていたノートがある。
今年の春以降、読むばかりでなくてこれからは書いてみたいと始めたnoteだったのに早々に行き詰まった。文章能力の低さを何とかしたいと思って、本や新聞で自分が惹かれた文章を書き写す事で、「勉強」してみようと始めた試みだった。
それでもやはり、日々書いていると自信を無くす。ため息をついていたときにこの文章に出会ったのだった。

まだまだこれからなのだけれど、自分なりの地道な努力がいつか知らずに手応えと感じられるよう、どんどん読んでどんどん写していこう。
若松さんの本に背中を押してもらった気持ちでいる。

そして、ためらわずに書いていこう。

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