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サン=レミ療養院の庭の妄想

この絵が惹きつけるものは何だろう。
何が私をここで立ち止まらせるんだろう。

額装された絵までは1メートルほどの距離でしょうか。
その絵の前に立ったとき、興奮した画家の荒い息が鮮明に聞こえてくるようでした。

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先日、上野の東京都美術館で開かれている「ゴッホ展 響き合う魂へレーネとフィンセント」を訪れました。

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朝いちばんの枠を予約したのですが、この日は制限解除後ということもあって館内はとても混み合っていました。それでも私は気楽な一人の鑑賞なので、間近にみるのが難しい展示は少し離れて眺めたり、空いた所に戻ったりして自分のペースをつかむようにゆっくり進んでいきました。

途中、私が勝手に信頼をよせているLe yuséeさんの記事を読んだり、ガイドの音声解説にじっくり耳を傾けたりしながら、1枚1枚の絵を眺めていきます。(こんな時間を自分が持てている事にも感謝しつつ...)
今回はヘレーネが収集したゴッホ以外の画家の展示も多くあり、個人的にはスーラやシニャックに感激。視点が違うかもしれませんが、これらの額縁もアールデコ調でとっても恰好良かったのです。額も含めて受ける印象ってあると思うのですが皆さんはどうでしょうか。もっとよく見ておけば、そしてスケッチでも描いておけばよかったなぁ、と思う作品でした。後ほど求めた図録には(当たり前だけれど)このフレームがなくて残念…!

ゴッホについての私の知識はごく一般的なものでしかありません。
ひまわり、耳を切り落とした肖像画、星月夜に糸杉などの有名な作品群を知っていて、原田マハさんの「たゆたえども沈まず」からゴッホの人物像(またテオや家族との関係性など)を物語性を持って感じるようになったというう程度です。

私は識者ではないのであまり難しい事は考えず、好き勝手に絵を眺めます。
すると鑑賞時に時々自分勝手な妄想が働いてくる場合があります。そんなとき、その解釈がたとえ「合って」いなくてもその絵は自分の中で意味があるものに変化するのです。

その妄想が「サン=レミ療養院の庭」と題された絵を前にして、むくむくと立ち上がってきたのです。

目はキャンバスとその後ろの景色を追うのに忙しい。
白く垂れる花はニセアカシア?。風がさっきから芳香を運んでくる。
これが春だ。私が描きたい春に間に合ったのだ。
さっきから鳥がさかんに枝の上で囀っている。
鳥はみている。
私がキャンバスに前のめりになって描きつける姿を。

私は目の前に咲きこぼれる花々を、むせるほどの春の香りと喜びを。
このキャンバスに写し取るんだ。

どうだいテオ、この絵を見てくれないか。
筆が走るんだ。
俺は大丈夫だ、まだ描けるんだよ。
描くことは…生きることなんだ。俺は生きてまた描いていくのだ。

その絵に至るまでに見てきたゴッホの作品は、私にはどこかに苦しみがあるように思えていました。土地を移りながら作風を変え、様々な技法を試し、友人の批判にも惑わされる。(それを結局は受け入れるのですが)
これしかないと描き続けながら、迷う苦しみが現れているように思えて、見ていて少し息がつまるような感じもしたのです。

ところが、この「サン=レミ療養院の庭」には、一見してそういったものが取り払われているような印象を持ちました。

この光が差している間に、この色を捉えるんだ。
見つけたこの喜びを、ここに描き出すんだ!

腕や袖口、足元の芝生にまで絵具が飛び散るような、画家の勢いあふれる映像をひとりでに想像します。

私は一枚の絵が完成するまでにどれぐらいの時間を必要とするのか、分かりません。でもこの絵に関しては、それまで彼を覆っていた「脆さと危うさ」のようなものが、ひと時画家から離れていた気がするのです。

この絵の完成から1年と少し後にゴッホがたどる哀しい結末を、私たちは知っています。それでも、この絵に向かっている間はゴッホの心は満たされていたのだと、なんだか思いたい気持ちなのです。

全く個人的な想像なのですが、「絵を観て感じる」とはこういうことなのかもしれないと思ったのでした。そして画家だけに限らず、こういう芸術の世界に生きる人達の心理に少しタッチできたような、そんな手応えを持ったのでした。心に残る良い1枚となりました。

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下の絵ハガキは「夜のプロヴァンスの田舎道」、とても美しい作品でした。
上のサン=レミの絵からちょうど1年後ぐらいに描かれたものです。これを描いてから約3か月後に、ゴッホはその生涯を閉じるのです。
この絵からはゴッホが「何か」に心を捕らわれ、それに向かって加速している最中のような様を感じました。
…本当の事は分かりません。


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