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「母」「妻」というバイアス

女性の「母として」「妻として」
当然に求められるイメージと、自ら適応してしまうこと。
これについて、考えてみたいと思います。


「母」「妻」は四六時中働くもの


前回書いた「垣谷 美雨」さんの「もう別れても良いですか」
こんな場面が出てきます。

娘二人は家を出て、今は夫婦二人暮らしです。
娘たちの帰省がない、大晦日での場面です。

今年一年間、ご苦労様でした。
そういってほしいと夫は思っているに違いない。
誰がご苦労様などと言ってやるものか。夫も同じように労いの言葉を返してくれるならわかるが、そんなことはありえない。
こっちだって働いている。腰を痛めても辛抱して働いている。給料は少ないがフルタイムだ。そのうえ家事すべてを受け持っていて休日がない。どう考えたって夫より長時間働いている。実際の労働だけでなく、家庭を運営するためのあらゆることー家計管理をはじめとして、近所づきあいや町内会の当番などーの段取りを四六時中考えている。


パンツさえ自分で出さない父


私が実家で暮らしていた頃の場面を、思い出しました。

父が風呂に入ろうとすると、
母は寝室へ行き、タンスから着替えの下着などを用意し
父に渡していました。

母は昔は編み物教室の先生、
私が小学生の頃からは、裁縫工場でフルタイムで働いていました。

当時は週休二日ではなく、「週休一日」でした。
食事はもちろん、掃除、洗濯、風呂掃除、畑。。

そんな母に、母より先に帰宅した父は、
毎日寝そべってテレビをつけ新聞を広げながら、
「お茶をくれ」
と言っていました。

母は、私に「家事を手伝って」と言いました。
父と兄には、言いませんでした。
当時の私は「母が大変だ」という感覚はありませんでした。
そういうもの、と思っていたのです。

当時私は、勉強もあったし本や音楽も好きだったし、
やりたいことはたくさんあったので、
「ヒマなお父さんに言えばいいのに」と、とても不満でした。

「なんでお兄ちゃんやお父さんには言わないの」
「あなたは女の子でしょ」

私の反発心は、母に向かいました。

「毎日ご飯作りたくない」と母がこぼした時
「あなたの仕事でしょ」
と言ったことがありました。

「女だから」やらないといけないと言うなら、
これはあなたの仕事でしょ。

「あんな父」に従属している母を、軽蔑していました。
「同じ女」として、こうなりたくないという反発。
「あなたにそんなことを言う資格はない」
と、断罪していたのです。


なぜこんなにも「当たり前」になるのだろう


作品の中で、夫は暴力をふるうわけではない。
なのに、いつも主人公の女性は夫の顔色ばかりを窺っています。

私の父も決して「封建的」な人ではなかったです。
パンツを出さないからと言って怒りはしなかったと思います。
それでもパンツを出す母
夫婦という力関係の下に、過剰適応する母。
それを当たり前とした「想像力を欠いた」父。

母親も同じ人間です。
なぜこうも、母親はロボットのように
何でもするのが「当たり前」になるのでしょう。

そして母親自身、なぜそんな状態に、
自ら陥ってしまうのでしょう。

それが「良妻賢母」というものだったのでしょうか?
しかし、誰も有り難いと思わず「当たり前」と思われたら


なぜこんなにも適応してしまうのだろう


父がタンスからパンツを出さないことについて、
随分と、本当にもう40年くらいも経ってから
母は「知らんふり」をするようにしたようでした。

「自分の着替えくらい、自分で出せばいいのにね。」
出掛ける時の着替えも、
「ヘンな服を出すのよ。」
と母は笑っていました。

なぜ最初に、タンスからパンツを出してあげたんでしょう
なぜ最初に、寝そべっている人にお茶を出してあげたんでしょう

これは、今の私にも言えます。

なぜ大の大人になった娘の洗濯ものまで、畳んでしまうのでしょう
なぜ娘の食べた後のお菓子の袋を、片付けてしまうのでしょう

なぜこんなにも女性は「母として」「妻として」
過剰適応してしまうのでしょう?


「一人の人間として」がないままに人生を終えるとしたら


20年前に離婚した元夫の父親は、酒乱でDV夫でした。
当時は「DV」という言葉はありませんでしたが。

義父はコンプレックスの塊でした。
精神的に幼い、究極の「寂しがり屋」でした。
気が小さく、執着心が強く、
何かを理由に自分が優位に立つことで
何とか自分のプライドを保っていたのだと思います。

在日韓国人のことを蔑んだり、
「女のくせに」
「嫁のくせに」
「田舎者のくせに」

理由は何でもよかったのでした。

義母は常に夫の機嫌を損ねないように、気を使っていました。
義父は、常に妻を監視していました。
義母だけで友人に会うとか出掛けたことは、
私の記憶では一度もなかったと思います。
仕事帰りのスーパーの立ち寄りさえ「遅い」と言われていました。

義母は誰からも慕われる、とても優しい人でした。
しかし、あまりにも「過剰適応」していました。

DV騒ぎがあったときに、私と夫は離婚を勧めましたが、
最後まで離婚はしませんでした
驚くことに、義母は会社勤めで、義父は名ばかりの自営業。
家計の主だったところは義母の収入だったのに、です。

義母は、50代後半で脳腫瘍になり、
闘病生活の末に50代のうちに亡くなりました

義父は「余命」を妻に伝えませんでした。
何事も「自分のコントロール下」に置きたかっただけだと思います。

3年もの入退院、辛い治療、自分がどうなるんだろうという不安。
段々とまともに思考することが出来なくなる中でも
夫の支配下で、本音を言えない生活。

義母は、「自分の人生」をどう思っていたのでしょう。
「あと3年しか命がない」と伝えていたら、何をしたかったでしょう。
聞いてみたかったです。

義母の最後は、皮肉にも私の離婚の決意につながりました。

「母として」「妻として」ではなく
あなたという「一人の人間として」、生きていますか?

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