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「研ぎ澄ます」「渡る」「崇める」「射る」といった動詞からモノをみると一瞬にして世界の歴史を身体で感じる。

山懸さん

先日、以下の文章を書きましたが、このテーマは考えること多しです。

この文章には以下のようなフィードバックもいただいています。

「言葉」「翻訳」「コンテクスト」「音」などが、ここのところ、ぐるぐると頭のなかを巡っています。その理由には、この往復書簡だけではなく、別のエピソードも絡んでいます。

実は、今月の初めから奥さんが日本に行っています。ぼくにとっては義母の認知症の悪化が加速しており、施設に入っている母親とできるだけ多くの時間、面会するのが目的です。一緒に外に散歩したり、レストランに行ったり、と。既に我が娘とは分からないのです(というか、親子や他人という社会的な構造が把握できていない)。だが、「近しい人」との感覚はあるようです。初めての日、思わずハグしてきたそうですから。

その奥さんが伝えてくるエピソードが、前述のテーマをより考えさせるのです。

例えば、かなり日本語の単語を忘れているわりに、英語の単語や表現を理解し、口にするのです。母親は外国育ちだったわけではなく、ただひたすら生涯学習として、英語が好きで毎日ラジオ講座を聴き、CNNを見て、米国人を講師に英語の本を訳す・・・。これを何十年とやってきたに過ぎません(確かに熱心ですが)。

ぼくは認知症に詳しいわけではないですが、古いことは記憶に残り、新しいことは忘れるとの傾向があるとは聞いています。だから、ぼくなんかは、イタリア語を最初に忘れていくのかと思うととても怖いのですが、義母は後になって勉強した英語がかなり記憶にあるのです。クルマに乗っていても、道路わきの看板のアルファベットを読み、漢字の言葉が分からないとの具合です。

したがって、うちの奥さんも母親に英語でいろいろと話しかけてみると、英語で答えが返ってきます。それもこなれた表現で、奥さんの英語の文法の間違えまで指摘する始末です 苦笑。

そして、さらに驚いたのは、奥さんがピアノを弾き母親に聞いてもらったら、奥さんが上手くいったと思うパートを、「そこ、上手いわね」とも評するのです。でも、母親自身はピアノを習ったことはなく、弾いている人が娘とは知らない・・・。

コンテクストが理解できないけど、断片的に音と英語で母娘が通じ合い、笑顔にはなれる。日本語での会話だと「不足点」ばかりが目につき、淋しい思いをする。だからこそ、それ以外で感じ合えると喜びが増すのです。

ぼくの友人でビジネスパートナーでもある、ミラノ工科大学デザイン学部のアレッサンドロ・ビアモンティは、認知症の患者のための施設をデザイン面からいろいろと研究しています。旅の模擬体験をすると過去の記憶が戻りやすいところから、電車の車内をつくり、改札も設ける。そこで時を過ごしてもらうのです。また、認知症の人は施設でベンチに座っていても、その前を「イイ男」「イイ女」が通ると、腰を浮かすというのですね。

そのアレッサンドロに義母の話をしたら、かなり驚いていました。

いったい、コンテクストが分かるから言葉の意味が分かるとは、どういうシーンにおいて絶対条件であり、どういうシーンにおいてどうでもいいことなのか、考えさせられますよね。

2016年4月、ぼくは以下をブログに書いていました。

さて今年のミラノデザインの目玉はトリエンナーレの復活です。トリエンナーレ美術館だけでなくさまざまな場所で分散して実施されますが、上記の「Stanze」以上に身体にドスンとくるのがトリエンナーレ美術館での「Neo Preistoria」(新先史時代)です。アンドレア・ブランジと原研哉が100の動詞を選んで、それにマッチしたモノを展示しています。まだ人類が服をまとわずに活動していた頃からの動詞ー「殺す」とかーからスタートして「仮想する」「極小化する」という現代まで至ります。他の展示を見なくても、この展示だけは見逃してはいけない。そういうレベルです。
この展示は鏡に囲まれた暗い空間に、一つの動詞がイタリア語、英語、日本語で記載されており、その意味も説明があります。その横に黒い台の上にガラスの展示ケースがあり、その中に展示品があるー小さなモノはーという形式をとり、番号順に1から追っていけばよいようになっています。これを見ながら気づいたのは、遠い昔の石を使った道具の時代にある動詞ー「磨く」-は、イタリア語、英語、日本語、どれをとっても共通の文化要素であることがあまり考えずに理解できます。これらはアンドレア・ブランジも原研哉もけっこうスムーズに言葉のリストアップができていったと思います。 しかし、現代に近づいてくると、2人の協業はどうだったのか?という興味がわいてきます。「拡張する」(expand)とか「極小化する」(minimize)というのは、日本語では一言の動詞ではありません。一方、イタリア語と英語は一つの動詞です。原研哉が最初から英語なりでリストアップしていれば違いますが、どうも日本語の言葉をみていて、そうではない印象をもったのです。
「あっ、近代哲学が日本に輸入された時の苦労そのものが表現されているな」と感じました。欧州近代哲学が日本で定着しづらかったーあるいは結局において定着することはなかったーのは、欧州言語においては日常的な言葉であるにも関わらず、日本語に翻訳するに際して対応する言葉がなく、漢字で熟語を作ったわけです。抽象的な表現は殊にです。この翻訳努力が文明開化を完遂させた一方、思想的なエッセンスは身に着かなかったーいわばコンテクストなしの言葉ではコンセプトを総体的に理解するのは難しい.ーという反省を強いることになりました。その延長線上に(やや無理な)日本文化への固執があるのですが、まったく企画者が意図していなかったであろう日本近代の歪んだ点を、この展覧会で日本語を理解するぼくは確認せざるをえなかったのですね。
コンピューターにせよ、ヴァーチャル世界にせよ、イタリア人も英国人も動詞として掴んでいる。でも日本語の世界では、やや遠回りした硬い漢字で理解しないといけないわけで、「これは極めて不利だなあ」と思わず独り言を言ってしまいました。グローバル化が進んでいるITの分野になればなるほど、かつてあった共通性の高い「動詞という性格」の道具が文化性を帯びてくるというように見えてしまうパラドックスがある。不思議な感覚です。

いずれにせよ、鉄器時代や石器時代という時間や地域のカテゴリーから石や鉄の道具をみていくのではなく、「研ぎ澄ます」「渡る」「崇める」「射る」といった動詞からモノをみると一瞬にして世界の歴史を身体で感じることができる、というのは今後いろいろなモノをみていくときの参考になる見方です。名詞ではなく動詞で世界を掴めとか頭では分かっていても、なかなかできるものでもない。でも、その癖をどうやってつけていくか? そのヒントは十分に得られます。

5年前に「ヒントは十分に得られます」なんて、エラソーなことを書いていました。今、英語が義母の頭のなかで動的な、つまりは映像的な存在になっており、日本語が静止画になっているのかとか、よく分からないことを考えている最中です。


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