見出し画像

全体像を感覚的に捉えるとは、どういうことなんでしょう?

山懸さん

山懸さんが書いた以下を読み、すぐ思ったことがあります。

「まるごとaestheticに受けとめる」とあえて言わないといけない日本、あえて言わなくても共通の感覚・認識になっているイタリア、この差があるなあと思いました。ベルガンティはセンスや感度の話をします。だが、審美性に触れることは公の場では意図的に避けている印象があります(「デザインはセンスに頼る」という言説があまりに強かったことに抵抗するとの動機があったため、その態度が保存されているのでしょう)。

ただ、二人で話したとき、「何かを美しいと感じるのは、自らの創意に確信をもつ動機になる」という点で意見が合いました。因みに、彼はファッションでもかなり細かい気をつかい、審美眼を重視するタイプだと思います。

(そう、そう、10月14日に産総研デザインスクール主催のオンラインシンポジウムにおいて、ベルガンティとぼくが話すので、そのイベントページのリンクもはっておきましょう。山懸さんは申し込みされたのを知っていますが、この往復書簡を読んだどなたかが関心あれば、と)

https://www.facebook.com/events/443182940358166/

日本では「アート思考」の乱入(?笑)で、デザインの議論がずいぶんと乱暴になったところがあると感じます。先日、ロンドンの大学のラグジュリーマネジメントの先生と話していたとき、「アート思考という言葉は、ある米系戦略コンサルタント企業で使っているのを聞いただけで、ちょっと変。だいたい、こういうのはアングロサクソン資本主義のアイデアの枯渇から生まれる需要」なので、ヨーロッパすべての人がまともにつきあうべき話題でもないと言っていて、そうだよなあ、とぼくは思いました。全体の文脈の掴み方をしくじると、「アート思考」の見方がおかしくなるのですね。

それも、これも、いろいろな背景というか要因を感じますね。全体の文脈を掴めていない日本の人たちのことは、デザインを総合的に捉えるのが苦手ということを起点にして書いた以下のトピックにもあります。

とはいえ、デザインの話なら、ちょっとした嘆きですむこともあるのですが、これがもっと大きなレベルの話で難局にあるとすると深刻です。それが今週、日経新聞ロンドンにいる赤川省吾編集委員のウェビナーで聞いたことです。テーマは今月後半のドイツの総選挙を予測し、その後のヨーロッパの動向がどうなるか?です。

7月にも赤川さんの話で、環境問題に続き、植民地主義の清算などを含む人権問題が今後のビッグイッシューだと指摘がありました。そして、その際、ヨーロッパの官僚や政治家から「日本はこういうテーマに消極的」と見られており、かつ日本の人たちも苦手意識があるとのエピソードを披露していました。

今回、その不得意ぶりの背景として、日本のしかるべき人たちがヨーロッパの左翼政党とあまり付き合いがない、EUへのロビー活動が限定的との2つの理由を赤川さんは挙げていました。しかも、英国がEUから脱退したため、ロンドンを拠点にEU情報の取得に励んでいた企業の足が掬われたというのです。ロンドンを頼りにしたのは、英語の国だから。

もちろんブラッセルでも情報収集はしてきたはずですが、大学の第二外国語としてのフランス語の地位が低下した今、ブラッセルで英語以外で情報をとれる人が少ないのでしょう。あるいは英語以外の言語空間があることを意識している人が少ないので、EUの動向に鈍感になりますね。

ぼくが大きく嘆息をついたのは、左翼的な考え方への土地勘のなさ、です。かつてインテリたるもの左翼であるべきという伝統が日本にはあり、このあたりの歴史は立花隆『日本共産党の研究』にも詳しいですが、肉体派や労働階級へのコンプレックスが日本のインテリに強かった。

そういうコンプレックスから最終的に脱却できたのは1989年の冷戦終結になるのでしょうが、これは同時に新自由主義や米国資本主義信仰に向かわせ、「左翼的なるもの」の思想を「安心して」断ち切った。なにせ、ヨーロッパと米国の大きな違いは、共産主義思想がメインストリームに到達した経験があるかどうかです。日本の思想はそれ以降、比喩的にいえば「つるっ」としたものになったのですね。

環境問題や人権問題に熱心な人たちは左の人たちであり、それは「力のない人たち」の声に過ぎないという認識が闊歩する契機でもあったのです。今世紀にはいり、というか、この10年くらいでサステナビリティが大きなテーマになって、やっと左右の問題ではないと考える人が増えてきたのでしょう。赤川さんも、いまやドイツの右翼政党といえども環境問題をカバーするようになったと話しています。

とすると人権問題ですね。これに対する態度は左翼側においていっそう寛容な方向を探ります。だから、このポジションにいる人たちとの交流がないと、世界の動向が見えてこないというわけです。ぼくはデザイナーや大学の先生とつきあうのが多く、必然的にというべきか、左翼インテリとソーシャルイノベーションについて話す機会も多いです。これはね、もう、山懸さんの表現を借りれば、「まるごとaestheticに受けとめる」の一つなんです。人権問題に敏感である、というのは。

そういう土壌のうえでのデザインであり、意味のイノベーションである、ということですね。

さて日本の人は、左翼思想をフォローしていなかった、だからおさえるべき視野が狭かった、と気づいているのでしょうか?

これ、来週火曜日の読書会で話すネタにします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?