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まず、まるごとaestheticに受けとめる。意味のイノベーション再訪。

安西さん、こんにちは。ちょっとご心配をおかけしましたが、幸い明らかに以前よりも当該箇所はすっきりしています。ギリギリだったのかもしれませんが、ほんとにいいタイミングだったように思います。

さて、このnote、すごく興味深く拝読しました。

このnoteから1か月たってしまいましたが、ここでの論点はもちろん私も共有しています。ちょっと雑駁で、しかも冗長ですが、昨日(2021年9月8日にいったん脱稿)こんな論文調のnoteを書きました。

クリッペンドルフからベルガンティへとつながるデザイン・ディスコースの議論は、ほぼ必然的にエコシステムが視野に入ってくるように思います。クリッペンドルフはともかく、ベルガンティが構想しているのではないかと思しい〈リーダーシップ〉(何度でも言いますが、私はベルガンティがリーダーシップとして考えている問題領域をentrepreneurshipと呼びたいですw)は、もちろん企業をはじめとする協働システムを率いていくということを念頭に置いているわけですが、そこでいわゆる経済的&技術的な側面としての実質性ないし機能性だけでなく、審美性や倫理性といった側面も包括しているのではないかとみています。もっと踏み込んで言えば、「人間とは何者か」「人間がよりよく生きるうえで、どうしていくことが大事なのか」を実質性・審美性・機能性を統合した判断基準に立脚した“経営”の可能性を問おうとしているのではないか、と。

だからこそ、それぞれに判断基準を持つアクターたちがディスコースを通じて、その止揚をめざしていくことが重要になるのであり、それによってもたらされるのが〈意味のイノベーション〉である、と、こう捉えることができるように思うのです。

その点で、これはほんとに印象論的直観でしかないのですが、ベルガンティの提唱する〈意味のイノベーション〉って、『突破するデザイン』などで描かれている以上に、aestheticであるように私は感じていたのです。これは、表層的な美しさという意味ではなく、さまざまに起こる事象を、まさに感性によって捉えるという意味合いです。それがあったうえでの、解釈学の参照(リクールやガダマー)ではないかと思うわけです。

こんなことを思ったのは、先週末に「とあるところ」でおとなしくしていたときに持っていったスーザン・ソンタグの『反解釈』という本に接したからでした。

ソンタグという人に今までほとんど関心を持つこともなく、なぜ最近になって興味を惹かれたのか、それすらはっきり記憶していません。しかも、これ以外についてはまだ読んでいないので、ソンタグの議論の全体像をつかめているわけでもありません。

この本の冒頭の論考「反解釈」において、解釈学の代わりに、芸術作品の“官能美学  erotic”を必要としている、と述べているところに接したとき、「おや、これは意味の解釈ということを述べるベルガンティと、表面的には逆のことを言っているようであるけれども、どうも通底するところがあるのではないか」と感じたのです。

これには、特に根拠はありません(笑)ただ、ある対象を、可能な限り「まるごとaestheticに受けとめる」という点は、ベルガンティの議論の前提として存在しているのではないかと思ったのです。

実際、意味というのは解釈によって導きだされるわけです。となると、基本的には体験のあとにやってきます。体験そのものはaestheticです。その体験を析出していくと、機能的ないし実質的な側面や、倫理的な側面、そして審美的な側面が浮かび上がり、意味というものが現れ出てくる。

こういった論理というか、議論の骨格があるのではないかと、ここ最近、濃厚に思うようになりました。

もちろん、こういった議論をするからといって、たとえば価値の流れ、あるいは価値の循環という経営経済的な視点や議論を軽視していいなどとは全く思っていません。むしろ事態は逆で、こういったaestheticな、あるいはeroticな感覚を持続的なものとするためには、経営経済的な側面を十分に練り上げなければいけません。もっと言うと、経営経済的にエコシステムを構築していく際の選択基準として、審美性や倫理性が織り込まれなければならないわけです。このあたりは、ひじょうに難儀な議論ですが、時間をかけてでも考えてみたいところです。

このnote、aestheticという言葉をやたら使ったために、冒頭にシェアした安西さんのnoteでの人権や尊厳といった側面から離れてしまっているように思われるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、人権や尊厳といった「一人ひとりを、その人として、かけがえのない存在として大事にする」というのは、機能性ないし実質性、倫理性、審美性が糾合された判断基準であり、それはまずもってaesthetic(感性的)に捉えられるということが言いたかったのです。

こういった展開で考えると、「一人で考える」とかいうのは、意味のイノベーションの議論のなかでは、ほんとに些末なことだなと思ってしまいます。むしろ、考えようとするその人が、環境(直接的な環境だけでなく、間接的に見聞して想い描かれる環境も含む)をどう認識し、描き出し、自らと関係づけていくのかこそが、重要なのであって。

その点でも、これはもうちょっと私には荷が重すぎるのですが、マルクスの人間観(社会的関係の総体としての人間)や、ルーマンの社会システム理論、そしてそこにおける人間の位置づけなども辿っておいていいのかもしれないと思ったりもしています。

往復書簡として、ちゃんと「往復」になっているかどうか、心許ないところはありますが、ちょっと最近考えたところを書いてみました。また議論させてもらえたら嬉しいです。

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