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香りのよい嘘


嘘はついてはいけない、と無意識のうちに思っているが、大人は毎日生きているだけで嘘をつかなきゃいけない場面が出てくる。

私も、自分の中にある、どこかまだ子供な正義感が、ちくっと痛んだりすることもあった。

でも、そんな風に自分を痛めてつく嘘は、精いっぱいに「良い香りのする嘘」でなくてはならない、と自分で勝手に思ってきた。


誰かのための嘘


人は誰もが、「黒いものを白い」と言った経験はあるはず。

自分がそうは思わなくても、「相手を喜ばせたい」という気持ちが言わせる場合などだ。

例えば、余計な心配をかけずに、親を安心させるために。

例えば、彼が嬉しくなるだろうな~というフレーズを、言ってみたり。

例えば、クライアントが今欲しい言葉を投げかけたり。

誰もが、耳障りの良い言葉だけを求めている訳ではないけれど、そこを知ろうとする癖が付くと、そういった言葉がどんどんあふれてくる。

そして、そんなことを繰り返しているうちに、本当の自分を見失ってしまったりもする危険性もある。

時には、自分の本当の気持ちに蓋をしている気分になる。

・・・若い頃はそれを辛く感じていた時期もあったからだ。

なぜなら、イケていると思っている世界では「自分のままに」発言することが素晴らしいこととして言われているからかもしれない。

嘘をついたりおべっかを言うようなことは、格好良くないことだと。

自分は嘘をついている…という、後ろめたさをどこか自分で勝手に感じていた時期もあった。


嘘に愛を込める意味


でも、今は不思議なくらい、それも自然に感じられるようになった。

年齢なんだろうか?今までの踏襲から慣れてきたんだろうか?

でも理由として考えられるのは、相手の気持ちを思い遣って出した言葉は、例え嘘でも私自身を殺すものではなかったからだ。

もちろん、重篤な嘘は犯罪だ。(そしてそんな嘘は、私はつかない。)

でも、日常の「生活をする上でのコツ」としての嘘は、アリだ!と経験から納得してきた。

そしてその線引きは、自分の良心に従っている。

絶対誰も害さず、誰も傷つけず、という信念のもとについてきた嘘だから、これまで私のついてきた嘘は、相手にも世間にも許されるものだった、という自信もあるのだ。


・・・ここまで言うと、嘘をつくけれど、まるで私は聖人君子、仏様のような慈愛に満ちた感じにも思えるが、はっきり言って、まったくもってそうじゃないから笑える。(笑)

家族や友人達は、私のことを「好きなことを言って生きている」「何でも言えていいよね」「素直過ぎる」と、実は思ってたりするのだ。

そして私の主張が何かと通るのは、「許されるキャラクターだから」だと思っているようだ。

そう、私の心の中で繰り広げられているものすごい量の葛藤を、誰も知らない。

後天的に、なるべくしてなった「許されるキャラクター」は、本当は私の様々な葛藤からなりえた嘘の産物だ。

まあ、そうみられているということは、ある意味私のたくらみは成功しているとも言えるのかもしれない。

私が嘘をついている、と思われていないのだから。

でも、本当に譲れないことには「嫌なものは嫌」と言い、間違いを指摘し、そして「好きなものを好き」だと言ってきているこの意見が許されてきたのも、それ以外で葛藤して精一杯思い遣って来たからだと思う。

我ながら、許せないラインは頑固だ。

通したいものを通すために、それ以外は正直繕って譲ってばかり。

私は、ついてきた嘘には葛藤の末に精いっぱいの愛をこめてきた。

私のつく嘘は、私の良心でフィルターをかけられた後、様々な心の葛藤の末に「これは嘘がいい」と決めたものだ。


だから、たまに私の真似をして「自由に自分の気持ちを発言」して失敗している人を見ると、「押さえるべきところを押さえないで言っても…」とぬるく見守るしかない。

そのことはその人には告げない。だって私のがバレてしまうから。(笑)

私はこれからも「天然で、許されるキャラクター」の面を被っていく。


きっかけ


実は、こんなことを考え実行するようになったのは、以前働いていた職場の元上司と働いたことがきっかけだった。

彼女はものすごく仕事のデキる人で、自分の意見をしっかりと通す人だった。時には社内では力任せで傍若無人にみられることもあり、社内・社外の敵がとにかく多かった。

その頃の私自身は、彼女の私に望んだパフォーマンスができず悶々としていたし、上司である彼女から度々叱責されることも多かった。

「私は、彼女の様には仕事ができない…。絶対無理だ。そんなキャラじゃないし。」と本当に落ち込んでいた。

でもある時、彼女の強引さの裏の、細やかな気遣いや様々な葛藤を、私は何かの拍子に偶然知ってしまったのだ。そして、本音と建て前、そして、嘘の使い方が本当に秀逸だった。

その時初めて、私は彼女の真似をしても通らなかったことを理解した。(そう、私は彼女の真似をしていたがダメだったのだ。)

そして、その彼女の裏の細やかさをひたすらに探り、自分でも実行するようにしたのだった。

私が彼女と働いていたころ、彼女の社内での敵はかなり減っていた。なぜなら、彼女の裏の顔を少しバラしながら、私が火消しをしたり根回ししていたからだ。(彼女にも知られないようにして。)

それが功を奏して、彼女のパフォーマンスはどんどん上がり、彼女は社内のNo,2にまで上り詰めた頃、私は個人的な事情でその会社を辞めた。

私の辞めた半年後ぐらいに、人づてに彼女も辞めたことを聞いた。


それから数年がたった頃、突然その彼女から連絡が来た。

「ちょっとお茶飲まない?」

彼女は新しい職場でバリバリと働き、また出世していた。

「実はね、あなたが辞めた後、あなたの力を思い知ったのよ。(笑)」

彼女の中で、私と一緒に働いていた時期が楽しかったこと、私がいなくなったことで私の”裏回し”があったことに気付いたこと、などを感謝された。

一緒に働いていた時には衝突や軋轢も多く、彼女が本当に怖くて、正直人として嫌いになったこともあった。

が、彼女がわざわざ私に感謝を伝えにきてくれたことに、ちょっと感動した。そして、やっぱり彼女には永遠にかなわないな…と思った。


今、彼女は私の大事な友人の一人だ。もう既にかなりの長い付き合いだ。

時には私の家族よりも、心配してくれて力になってくれている存在だし、いろんなことを真っ先に相談する一人でもある。

私は彼女の中で「No.1の部下」だった。ちなみに今でもそうらしい。(笑)

でも、彼女から学んだ私もアップデートはされているが、彼女の前では多分全部見破られているんだと思う。(笑)

そして今も、私を理解した上で、具体的にいろんなアドバイスもくれる貴重な存在だ。


私は「香りのよい嘘」をこれからもつく


「黒いものを白いと言う」ことは、迎合している、自分を殺している、と思いがちだが、その場を丸く収めることでさらに多くの利益を生む可能性もあることを、今の私は知っている。

青臭い中途半端な正義感で、ひたすらに否定をした昔と違って、今はかなり気持ちも穏やかに泳ぎ回れるようになった。

これが年を取ったことで、良かったなと思うひとつだ。

そして今も、「香りのよい嘘」がつけるように、日々葛藤し心掛けている。

友人にも、家族にも、夫にも、仕事でも、それとなく無邪気でいい香りの嘘をつきながら、私は私の幸せを享受して謳歌している。


世の中を「生きづらい」と感じている人もいると聞く。

そんな時は、自分の良心というフィルターを通した「香りのよい嘘」をついてみることをお勧めしたい。

相手を思い遣り、傷つけないことは、時には自分も楽になる。

「自分の素直な気持ち」と称して攻撃的に外に垂れ流すことは、その場は楽になっても自分を汚していくような気がするからだ。

ヘイトやモンスターになる前に、早く自分の良心と向き合って、「香りのよい嘘」を使って、幸せになってほしい。


で、「香りのよい嘘って、具体的に何?」

・・・それは自分自身の良心で考えてみてほしい。(みんな、同じじゃないのよ。笑)



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