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月刊読んだ本【2024.02】


不安障害がよくわかる本

 福西勇夫 監修 (主婦と生活社)

 よくわかる話だった。そういうわかるじゃないか。
 僕は特に他人の視線が気になる。他人に見られるの怖いし、他人の目を見れない。なに見とんねん、て言われると思っている。他人の目が怖くて、他人が後ろにいるとポケットに手を入れるのにすら躊躇してしまう。最近はそこまででもないけれど。そしてそれが病気なのかどうかは正直良くわからない。あと、人前で話すもの怖い。それは吃音症だからというのもある。大いにある。そのせいなのか、それとは関係なく怖いのかはわからない。そしてそういう性格のせいなのかの鑑別がつかない。そういう性格の人はこういう病気になりやすい傾向があるとか言われてもどうしたらええねんとなる。なんの感情もなく生活したい。一番怖いのは、こういう自分を誰も助けてくれなかったことで、それがトラウマで誰も助けてはくれないと思っているし誰も助けてやらないし俺は助からない。存在していてごめんなさい。

押絵の奇蹟

 夢野久作 (角川文庫)

 夢久好き。大好き。この独特の文体。このリズム。ホホホホホホ。とかいう笑い声の表現も好き。一度読んだものは彼の文章の虜になるでショウ。うふふ。そして探偵小説じみているのも面白い。大正から昭和初期の雰囲気もたまらなく好き。僕の大好きな芥川龍之介と同時代の作家で、その時代に文学よりもエンタメ寄りの作風で書いていたのが興奮する。世の主流からはずれたアウトローな感じというか、イケナイものを読んでいるような背徳感というか。とにかくすべてが僕の感性に突き刺さる。アナタの感性に突き刺さる。夢キューバンザイ。ハア――。好き。
 という感じだ。僕の夢野久作に対する感情は。今年は積んでいる夢野久作作品を読もうと思っているのでその第一弾がこれだった。
 1作目「氷の涯」は、満州を舞台にとある事件が描かれる。その濡れ衣を着せられた主人公とニーナの逃避行。状況証拠からこうに違いないと主人公が推理するのが魅力。主人公の運命が気になって読み進めてしまう。
 2作目は表題作。語り手が自身の出生の秘密を独白する話。過去の文献にこういう出来事が載っているから自分も同じように生まれたのだと思い、ヨロコンデいいのやらカナシンデいいのやら。でもそれ主人公が勝手に思い込んでいるだけではと思うし、そう思わせる話かもしれない。
 個人的には3作目の「あやかしの鼓」が読みやすいし面白い。あやかしの鼓を巡る人々の物語。その鼓の呪いで人は死ぬ。過去の怨念を子孫はその身に宿し、主人公に襲いかかる。ホラーとして読み応えがあるし、登場人物の正体が実は――というミステリ的面白さもある。

82年生まれ、キム・ジヨン

 チョ・ナムジュ/斎藤真理子 訳 (ちくま文庫)

 全人類読んだ方がいい。
 これは限りなくノンフィクションに近いフィクションで、ここに書かれているのはありふれた出来事なのだ。ありふれているのだ。こんなことが。主人公は女性だからという理由で様々に苦しんできた。理不尽に。これは82年生まれの主人公の物語で、まだまだそういう時代だった、かもしれない。82年が今から40年ほど前だということは、少なくとも40歳以上の人間が経験してきたことで、40歳以上の人口のほうが多い時代だということは多くの人間が同じような経験を持っている。時代は変わって少しずつ良くなっている、かもしれない。でもおそらく、まだ、良くなっていっている段階にあるのだろう。
 本書のテーマとは少し外れるかもしれないが、世の中には理不尽で不平等なできごとが多くある。主人公が出席番号は女子が後ろだから給食の順番が不公平だというシーンがある。それは男の僕でもわかる。日本の学校は50音順に出席番号をつけるから、一文字目が「わ」の僕はいつも男子の最後だった。いつも待たされた。たまたまその名字の家に生まれただけなのに。理不尽に思った。ひとクラス40人で、僕は21番の出席番号のことが多かった。そして前から5人ずつ順番に区切られていって、僕だけが男1人女4人のグループに入れられた。小学生や中学生には恥ずかしかった。苦痛だった。なんで他の男子と同じに扱ってもらえないんだろうと。そしてそれを配慮しない教師に信頼などない。その名字の家に生まれたことも、男に生まれたことも、日本語の50音順で「わ」が最後なことも自分のせいではなく、どうしようもないことだから許せなかった。耐えられなかった。世の中は理不尽だった。本書ではそれが、女性であるという点に焦点が当てられている。
 正直、21世紀にもなって人類は何をやっているんだと思う。男だからとか女だからとか関係ないやろと思う場面はある。よくある。男女間の賃金格差とかいうのは正直意味不明だ。女性は妊娠するからとかウンタラカンタラ。ちゃうやん、労働の対価として給料が発生しているなら、仕事の成果に見合った報酬を払えよと思う。資本主義者なら。それとも労働力という資本が劣っているといいたいのか? 全くそうは思わないけど、もしそうなら資本主義は滅んだほうがいい。生物学的に男のほうが力があるとかいうのはわかるけど、人によるやろとしか思わないし、たいていのスポーツでは別々に競技をしている。でもデスクワークにそんなことはおそらく関係ないはずだ。
 家父長制的な価値観が未だに韓国は強い、というのも本書のテーマのひとつだろう(それに対する批判と)。一体いつの時代に生きているんだと思わざるを得ないし、それは日本においてもある程度そうだろう。他の国はどうだろう? 未開の部族はそれでいいかもしれない。人類はそういう生活スタイルで何万年も生きてきたかもしれない。でも現代社会はそうじゃないよね。
 そもそも「男女」なんていう日本語は男が前である。「女男」ではなく。もちろん語感の問題でその方が言いやすいというのはあるけれども。英語圏では「Ladies & Gentlemen」と言ったりするのに。そういうところに文化や価値観の違いがあるよなと思ったりする。だからといって、英語圏にも女性差別はある。かつてアメリカの大統領選ではバラク・オバマが勝ってヒラリー・クリントンが負けた。そこに黒人差別より女性差別のほうが根強いのが見て取れるよねという意見をどこかで聴いた。そういう問題なのか(純粋に能力で選んだ結果なのか)はわからないけれど、そういうことを言われてしまうということが問題なんだろうなと思う。
 あと、日本語の問題としては男性的な一人称と女性的な一人称があって、そういう言葉を使ううちに/聞くうちに、子供の頃から性の違いを意識させるようにすりこまれているのかもしれない。今どきの小学校では誰に対しても「~さん」と呼ぶとか、ランドセルの色も自由だとかいうのを聴いて、みんな「私」とか言うのだろうかと思ったりする(知らんけど)。それはそれで生きづらそうと感じてしまうけどそれが多様性というやつだし、そう感じてしまう社会で育ってしまったのだ我々はすでに。
 昔の日本は「普通選挙」が始まったとか言っても選挙権は男性にしかなかった。普通ってなんだよ。と中学か高校の歴史の授業で先生が言っていた。そんな時代があった。世の中は変わっていき、女性の社会進出がどうとかいう言葉を目にしたり、かっこいい女性を描くハリウッド映画がヒットしたりする。それはわかるけど、本当はそんな言葉は存在せず、そんな当たり前のことに何言ってんの? になればいい。
 韓国の問題に関してだが、この国は儒教の影響が大きいのでそのせいだとアンチ儒教(?)の僕は思ったりする。家を大事にすることや年上を敬えということも(韓国では1歳でも年上なら基本的に敬語を使うと本書に書いてあった)。韓国の俳優が親の介護疲れで自殺してしまうとか(親の面倒は子供が見ないといけない)、親の決めた相手と結婚しなければならない(なにかの映画でそんなシーンを観た気がする)とか、が発生している。いまだに。「孝」とか「悌」とかいう儒教の価値観のせいだと過激派の僕は思っている。そんなものは滅ぼした方がいい。時代にそぐわない。ていうか家族とかいう概念がもう時代にあっていない気がする。日本も終わっている国なので、夫婦別姓がどうとか女系天皇がどうとかアホらしい議論をいまだにしている。いっそのこと結婚したら新しい名字を作るとかにしてしまえばいい(いいのか?)。イギリスにはずっと女王が君臨していたことを知らないのか? ここはイギリスじゃないって? サムライの国だからな。でももうサムライの時代じゃないんだぜ。知ってた?

 ここまでは僕が本書を読んで思ったことで、ここからは本の中身の感想を書く。

 この小説に描かれているのは主人公の人生で、ドラマチックな運命じゃない。解説に書いてあったけど、ひとりの人間の人生をただ紡いでいるだけ。でもそれが問題提起になっていることが社会の問題なんだろうな。
 この本に共感できる、私のことだと思う女性はきっと多いし、だからベストセラーなのだろう。そして同時に男性が読むべき物語で、自分はそんなんじゃないと思っている人もそうでない人も本書を読んで考えた方がいい。世の中がそうなっているから、当たり前だからと思考停止しているやつが何より終わっている。21世紀はそんな時代じゃないぜ。
 本書には男性の固有名詞が一人を除いて出てこないとか、注釈をつけてデータの引用元を示す(ことによって予め批判を牽制する)というテクニックが用いられていて緻密に計算されて書かれていると、解説に書いてあってシビレる。すごい。フィクションだけれど、データの引用は現実のもので、だからこそリアリティがあってノンフィクションだと言われても納得してしまう。いつの日かそれが逆転して、こんなのフィクションだよとあり得ないよという世の中になったらいいのにと思う。そしてそう思うだけではなく、それに対して何ができるか考え議論して行動するのが21世紀人の生き方なのだ。僕には本の感想文のような謎の文章を書き続けることしかできないとしても。

無伴奏ソナタ

 オースン・スコット・カード/金子浩・金子司・山田和子 訳 (ハヤカワ文庫)

 あの『エンダーのゲーム』の作者の短編集。『エンダーのゲーム』はまだ読んでいないけど、その原型となった短編版が収録されている。強すぎる少年エンダーはゲームで無敗の快進撃を続ける。少年漫画チックでおもしろい。でも彼らはまだ10代あるいはそれ以下の少年たちなのだ。いずれ戦争に駆り立てられる兵士として彼らは育てられている。遊びたい年頃なのに。才能があったばかりに、エンダーは戦いをさせられる。主人公の戦いはおもしろいけれど、単にそれだけの小説じゃない。エンダーは疲れ果て眠らせてくれと思っている。だんだん心が壊れていく。自分たちの国(星?)を守るためとはいえ、少年たちに訓練を強いるのは、児童労働はいけないというメッセージのように感じ取れる。子供の人権を侵害している。自分たちが何と戦っているのかも知られず大人のいいように利用されている。考える力もなく疲れていく彼らは日本のサラリーマンのようだ。死んだ目で働いている。やるせない話だった。
 全体的にホラーやファンタジー寄りの作品が多い。過去に行って死を経験したり、地球人が死ぬことに美しさを見るエイリアンがいたりする。命とはなにか、人生とはなにか、そんなことを考えさせる物語たち。
 表題作は、サガ・フロンティアの技として出てくる。だから前からこの作品が僕は読みたかった。音楽の才能を持って生まれた主人公は作曲家の仕事を与えられる。自然の中で、他の人工的な音を遮って。彼が作る音楽に影響が出てはいけないから、他人の音楽を聴くことは法律で禁止されている。でもそれを破ってバッハの音楽を聴いてしまう。それが見つかって追放される。違う仕事を与えられるが、バーでピアノを弾いてしまう。また見つかって今度は指を切り落とされる。そして……というお話。才能があると数値が示して作曲家の仕事を与えられるという管理された社会。だとしても彼にとって音楽は人生そのものだった。解説とかにもこの作品は人生のことだと書いてある。音楽を禁じられているのに、無意識に体が求めている。麻薬中毒患者がやめられないように。あるいは音が聴こえなくなっても作曲を続けたベートーヴェンを彷彿とさせる。もし、読書を奪われたら僕は正気ではいられないだろう。やがて本がなくても頭にある物語を読み始めるのだろうか?

本の雑誌 2024年3月号

 (本の雑誌社)

 メフィスト賞特集だけ読んだ。
 全作品レビュー興奮した。まだ読んでいないのもポツポツあるのでこれを機会に読もうかな。

ゴドーを待ちながら

 サミュエル・ベケット/安堂信也 高橋康也 訳 (白水Uブックス)

 動いている人間を観たいとはあまり思わないけれど、戯曲を読むの好きだな。それまで一言しかセリフがなかったキャラがいきなり狂ったように喋りだすのおもしろい。絶対そんなセリフ覚えられない。
 第2幕が第1幕の次の日なのか? とか、わざとはっきりと描いていない部分があって、そこは観覧者読者の想像に任せるというスタイルで、様々な解釈の余地を残す。ゴドーが誰なのか、本当に存在するのか、そんなことを考えてしまう。そう思わせるためにこの戯曲は書かれたのかもしれない。
 注釈が細かくて読書のテンポは崩れるけど、作品の理解が深まるという点ではよかった。

グラスホッパー

 伊坂幸太郎 (角川文庫)

 仙台に行くから仙台の作家の本がいいと思って読んだけど千葉出身だった。知らなかった。殺し屋たちの話。おもしろい。それぞれのキャラクタの書き分けがよい。続編? があるらしいことをさっき知った。ブラッド・ピットが出た映画で話題のあれだ。ジャック・クリスピンの正体は続編で明かされるのだろうか。
 3つの視点で展開されていく。それぞれがどう交わるのだろうかと考えながら読んでしまう。同じシーンでも少し時間を遡って別視点で描くという手法(が得意らしい)が小説というより映像的だと思った。

ひとこと

 花粉つらい。読書向きの季節じゃない。
 そして長い感想文は独立した記事として書けばいいのにめんどくさい。

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