見出し画像

夜を駆ける

朝顔の観察日記(140)

 小学生のとき、たしかにそんな事をした覚えがある。誰しもそうだろう。日本人なら。それはそれで恐ろしい話だ。毎年日本中で小学生たちが何輪の朝顔の花を観察しているのだろう。観察されているのは小学生の方ではないか。それはそれとして、子供の頃のそんなかすかな記憶が僕たちにはある。にもかかわらず、朝顔について何を知っているというのだろう。何を覚えている? どんなふうに芽をだして、どんなふうに育って、どんなふうに花を咲かす。種はどんな形をしている? みんな忘れてしまった。ほとんど覚えていない。思い出すこともない。少しさみしいと感じてしまう。せっかく観察したのに、せっかく学んだのに。知識は何も残っていない。でも思い出は残っている。それでいいのかな。立ち止まって過去を振り返る必要などなく忘れてしまったほうがいいのかもしれない。

ある愛の詩(147)

 自分の好きな映画、に限った話じゃないんだけれど、好きなものについて話せることって素敵だと思う。そしてそれを聞いてくれることも。真剣に聞いてくれても、適当に聞いてくれても、それを話せる間柄なことは嬉しいことである。もちろん真剣に聞いてくれたら心が安らぐ。でもそれに甘えて独りよがりに話し続けるのもいかがなものか。
 しかも固有名詞をつかって誰それいう俳優がどうたらこうたらと、詳しく話しても相手には何も伝わらないかもしれない。相手がついてこれない話題を続けるのはお互いに心苦しい。話したいけど話せない。それではすっきりしない。言いたいことを正確に伝えることは困難かもしれないけれど、正しく理解してくるかわからないけれど、伝えたいと思う、伝えようという気持ちになれる距離感がほしい。

来世みたいなもの(243)

 また来世、と気安く言うけれど、僕はそんなものを信じたくはない。どうせろくでもない人生なんてものは今度限りでごめんだ。そして死後は無だ。生まれる前が無だったから。前世の記憶はないなら来世に記憶もない。来世があったとしてもそれは別の誰かなのだ。そして来世でもまた死ぬのだ。どうせ死ぬのに生まれてくるなんて哀れな奴らだ。だからこそ来世なんてものに期待を寄せるのか? 科学の進歩に期待して来世では肉体が滅びるのを阻止したり、精神だけを別の器に移したりして生き延びたいのか? そして前世の記憶を引き出したり。
 死が怖いのはわかるようでわからない。死んだことがないもの。だから怖いのか? でもただ肉体が滅びるだけだよって僕なんかは思う。たとえ肉体が滅んでも永遠に呪い続けることはできる。平将門の首塚がどうのこうのとかいうニュースが先日あったけれど、21世紀になっても彼の呪いは人々の中で生きる。そうありたい。だから肉体の死を恐れることはないんよ。
 僕は10代の後半から20代の半ばぐらいまでは、一年のうち360日ぐらいは死にたいと思っていたけれど、最近は生きたいも死にたいも思わない。進歩している。改善している。誰もそんなことを褒めてくれないけれど。そんなことはどうでもいい。ただ生きる。それでいいんだ。ただ生きているだけ、死んでいないだけ。積極的に生きたいも積極的に死にたいもない。

記憶を燃料にして生きていく(250)

 孤独だった10代。孤独だった20代。信じられた人間。僕を救ってくれた神のごときあの人。僕は勝手に永久に好きだし世界で一番尊敬している。男の人はきっとそうだけど、好きな人のことはずっと好きだし幸せな人生を送ってほしいと思う。女の子はすぐキライとか言い出すからよくわからない。僕はこんな体たらくだけど、君が心のなかにいるからまだ生きている。うまく笑えているかわからないけれど、君に出会わなかったら今でも笑うこともできない人間だっただろう。
 過ぎ去った時代は帰ってこないし、僕はいろんなことを全然憶えていない。それが正常なのか? それはわからない。子供の頃は、一年一年、具体的に何があったか憶えていた。今でも思い出せることも多い。でも、最近は全然何も思い出せないことが多い。去年何があった? じっくり考えないとわからない。特に日常のことは。具体的なエピソードがないから、印象に残っていないのだろう。それもあるだろう。でもそれだけな気はしない。逆に言えば、現在に適応する能力が高いのかもしれない。刻一刻と過ぎる現在に置いていかれないように。去年住んでいた部屋のことを思い出すことはほとんどない。今の部屋にあまりに馴染みすぎていてまだ引っ越して1年経っていないとは思えない。でもそれでいいのだ。僕は前に進めているのだ。きっと。もうあの人には二度と会うことはないかもしれないけれど。


 以上が、村上春樹の『アフターダーク』を読んで抱いた思いです。
 以下が、村上春樹の『アフターダーク』を読んだ感想です。


眠れぬ夜

 この小説で面白かったのは、マリと高橋の会話のシーンで、むしろそこだけの短編小説でも良かったように思う。ビフォア・サンライズという映画のように、会話が面白い作品だと思った。村上春樹の小説なのに。彼の小説では小説的というか現実感の少ない会話が多いような気がする。それに対してこの小説の会話のシーンは自然な会話に見える会話が多くて心地よかった。
 俯瞰視点で描く必要性とか、姉の話とか、物語的には必要なことかもしれないけれど、果たして小説という概念に必ずしも物語が必要だろうかと僕は思った。ただ、若い二人の会話だけがある。それでもいいのではないか。もちろんその背景には深い物語があって、主人公たちが歩く夜の街にもさまざまな物語があるはずで、でもそれは闇の中でもいい。人間誰しもそうである。昨日街ですれ違った見知らぬ誰かには人生があって、そこには様々な信念や思想や主義や価値観というものがあって、それらを形作ってきたのは人生で、見知らぬ無数の世界がこの世界を形作っている。見知らぬ誰かにとっては自分が見知らぬ誰かであって、全てを知ることは不可能なのだ。もちろんそこに触れたいという思いが小説の中の会話には描かれていて、どこか興奮しつつも心が安らぐひとときを感じている。夜が終わらなければいいのに、二人に別れが来なければいいのに……と思った瞬間、この小説を好きだと気づく。

 眠れぬ夜に読みたい本だと思った。


 終

※括弧内は文庫本のページ数です。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,766件

もっと本が読みたい。