見出し画像

木が熟す(4)

平成三十一年四月十七日(水)

 アントニオさんとの会議後、今週の仕事を六月に行われる展示会の準備に決めた。

 通常、展示会の準備は、展示会主催者にブースの大きさと場所を予約、ブースのデザインを専門企業と打ち合わせ、本番必要な照明・机・椅子などの予約、展示品の準備、と進めていく。しかし、今回は薩摩屋さんのブースに製品を置いてもらうだけなので、会場のブースのことは考えず、製品選定と輸入業務だけで良かった。

 「エレナ、打ち合わせどおり、日本にはベニヤピーリングナイフ150cmを二枚、鉋用のナイフ三枚、ボード切断用丸鋸の直径30cmと35cmを一枚ずつ準備してもらうわよ。あと、製品カタログやパンフレットを輸入しなきゃいけないんだけど、日本語のパンフレットしかないの。日本にスペイン語に翻訳したカタログとパンフレットを合計百部準備してもらうように連絡をお願いね」

「分かりました。出荷方法はどのようにしますか?前回船便で輸入した際は到着までに二ヶ月かかりましが…」

「そうね、今回はお金がかかっちゃうけど、航空便で輸入しましょう。展示会当日に荷物がないなんてことになったら、それこそ困っちゃうから。」

 エレナと展示会用の製品を輸入準備をしながら、打ち合わせ中にこぼれたアントニオさんの言葉が繰り返し頭にこだまする。

「千代刃物の品質は先日納品したお客さんの反応から見ても上々だけど、知名度がないのが厳しいな… 兎に角広報活動に注力しないと…」

 アントニオさんの言葉の通り、新規市場に参入する際に一番のネックとなるのは知名度の無さだ。これが車のメーカーであれば、世界的に名前が知れ渡っているため、新しい地域に新車を投入するとしても、さほど大きな問題は無い。しかし、千代刃物のようなローカルメーカーでは、世界どころか日本でも名前が知られていない。チリ市場では知っている人はまずいないだろう。

 名前が知られていないということは、試しに使ってもらうことも難しいと予想できる。私も、日本のデパートで全く聞いたことの無い化粧品ブランドがセール中だったとしても、買おうとは思わない。

 だからこそ、六月の展示会出展は、本当に重要な目標で、チリ市場に千代刃物の名前を売り込む最大のチャンスだ。ここで多くの企業に名前を覚えてもらうことが今後の営業活動の成否を左右するだろう。

 昨日のミーティングで、アントニオさんからチリの木材市場についてもレクチャーを受けていた。 

 チリの木材市場は巨大で、日本への木材輸出も盛んに行っている。中でも現在ターゲットとしているパスクア社と、その競合のマデサ社は群を抜いている。

 パスクア社だけを見ても、チリに製材工場八工場、合板工場二工場、ボード工場五工場を持つ巨大グループで、さら紙の原料となるパルプ工場も四工場持っているというから驚いた。

 さらに、パスクア社は世界中に事業を展開しており、チリ以外にもウルグアイ、アルゼンチン、ブラジル、メキシコ、スペイン、アメリカ、カナダなどに工場を持っており、全世界の従業員数はなんと約七万人。日本で言えば四菱商会、住戸商会、京プラなど名立たる企業と同じ規模だ。

 アントニオさんの話を聞いたとき、従業員数の多さに一瞬立ち眩みがした。私が働いている千代刃物は日本に従業員が百五十人、世界の従業員を足すとしても、私とエレナの二人が足されるだけだ。つまり百五十二人。規模感として途方も無い差があることを、改めて痛感する。

-本当にパスクア社は千代刃物に興味があるのかな… 私、受注取れる自信ない…-

 だめだめ、ここで私が弱気になったらチーム全体の士気が下がってしまう。私は自分の頭に現れた悲観的な考えを直ぐに打ち消す。

「エレナ、アントニオさんの話では、パスクア社の一つ一つの工場は高度に機械化されていて、全自動のラインもあるのよね。日本でイメージする林業とは全然違う世界だな。早く工場訪問して実際に見てみたい。」

 農学部で木材関係の研究室にいた頃の血が騒ぐ。

「そうですよね! 私もチリに住んでいて名前は知っていたのですが、どんな企業なのかはよく知らないんです。チリの経済を支える会社なので、早く見てみたいです!」

 目を輝かせて話すエレナの素直な好奇心が嬉しい。

 -チリの木工関係の仕事は、林業というよりも、日本で言う自動車工場のようなイメージなのかもしれない。ネット情報では合板、パルプの生産量はそれぞれ世界第二位ということだし、世界の木材産業を牽引している企業なのね。すごいな-

 こんな世界的な企業から千代刃物のような小さな企業に声がかかるというのは奇跡的なことだ。その営業の最前線に自分がいると思うとなんだか不思議な気持ちがしてきた。ただ、パスクア社の入札は十月なのでまだまだ時間がある。まずはチリの中でも比較的規模の小さな企業に向けた営業活動と、展示会でのプロモーションに全力を注ごう。

「エレナ、今週は展示会の準備をしっかり整えて、来週はいよいよ営業に出ましょう!」

「はい! 私も半年間で勉強した知識を、実際に体感できるのがとても楽しみです!」

 木材に縁もゆかりもなかった彼女が、仕事を面白いな、と思えるくらい、ワクワクする仕事に取り組まないと。

 エレナの一生懸命な姿を見て、心が引き締まっていくのを感じた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?