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ウィルバー理論と向き合ったここ二年間の「流れ」

■ウィルバー理論の概説をまとめる作業

2021年も終わりに近づいている今、ちょうど二年前、2019年の今頃から始まった一連の流れを振り返ってみた。
二年前の今頃、当時すでに92歳を迎えていた母が、まだ80代のときに書いた自伝の原稿を出版すべく、編集作業をしていた。出版社との相談で、私の解説文も加え、共著というかたちにすることになっていたため、自分の原稿の執筆にも追われていた。
母の自伝を私との共著というかたちでまとめるにあたり、私は母が経験した事柄をケン・ウィルバー理論で読み解くという目論見を抱いていた。
その関係で、2019年の後半から2020年の初頭にかけ、集中的にウィルバーの著作を読み、原稿を書くという作業を続けていた。
結局のところ、この作業で私は、採用される・されないは別にして、「いじめ・虐待・ハラスメント」というテーマ(問題の発生原因とその対処法)をウィルバー理論で読み解くとどうなるか、というテーマで、書けるだけのことを書いたことになる。したがって、第一稿として書き上がった原稿は、ウィルバー理論の全体像を示す「概説」の意味合いも兼ね備える結果となった。
その中には、凶悪犯罪者の精神鑑定と更生プログラムをめぐる問題点とその改善方法といった、かなり専門的なテーマまで含まれている。結論から先に言うと、ウィルバーのインテグラル理論を真っ先に導入してもいいはずの犯罪者更生の現場に、(日本の事情に限ってもいいのだが)そうした発想すら見受けられないのが現状だ。この分野の様々な文献をあたってみると、ハッキリ言って、この閉鎖された特殊な現場自体が「ハラスメント」の温床になってしまっている様子さえうかがえる。そこで採用されているノウハウは、相変わらず19世紀レベルである。このテーマに関しても、いずれ別のかたちでまとめるつもりだ。
当然と言えば当然なのだが、出来上がりの本の紙幅の関係上、実際に活字になったのは書いたボリュームの半分ほどだ。「いじめ・虐待・ハラスメント」という問題をインテグラル理論で読み解く、というテーマで言えば、そのほんの「さわり」の部分である。

2020年の前半は、この母との共著の編集作業に追われた。ちょうどコロナの自粛期間とも重なったため、集中できたと言えばできた。そして、結局この本は2020年の夏に上梓された。せっかくなので、出版記念の集まりでも開きたいところだったが、コロナ禍で足止めを食らっていた。
来年、2022年2月に、ようやく出版記念講演会が実現できそうな運びになっている。

この編集作業と並行して、2020年4月から、Noteにおいて新型コロナウイルスに関する記事をシリーズで書き始めた。そのシリーズは今年の2月まで50回継続した。実はこのシリーズも、コロナのような新型ウイルスによる感染症の蔓延といった社会問題への対処にウィルバー理論を応用するとどうなるか、という試みだった。

■突然訪れた「アイデンティティ・クライシス」

そして、今年の5月、突然私に、生涯忘れることのできない瞬間が訪れた。ある出来事をきっかけに、すべてのことが「不可能」になったのだ。ある瞬間を境に、それ以前の「私」が一切合切通用しなくなってしまったのだ。その瞬間、私は目に映るもの、耳に聞こえるもののすべてに、心の中で「ノー」と言っていた。普段は好ましく感じているはずの人々の和やかな会話や笑顔、テーブルに並べられた美味しそうな料理、子どもたちのはしゃぐ姿・・・そうしたものすべてに、「違う、違う、これではない。私が見たい・聞きたいものは、これではない」と心の中で叫んでいる自分がいた。
それはまさしく「アイデンティティ・クライシス(自己同一性の危機)」と呼ぶべき事態だった。私の目の前で「世界」が変わったわけではない。表面的な一連の出来事の中に、こうした瞬間に至る具体的なプロセスがあったわけでもない。それは、ある日突然訪れた。もちろん、純粋に私の内面で起きていることだ。私は明らかに、自分の人生のステージを一段上げる必要性に駆られていた。そうでなければ、もはや私は一瞬たりとも「自分」を保つことができず、世界のどこにも自分の居場所がない状態に陥ったのだ。
これは私にとってまさしく、ウィルバーが「アートマン・プロジェクト」で言っている「タナトス」の瞬間だった。

■旧い「自分」の「死」を受け入れる必要性

ウィルバーは、「アートマン・プロジェクト」の中で、人を意識の成長へと促す力を、大きく4つに分けて説明している。そのうち、意識を垂直方向に一段高いレベルに引き上げる力——人間の意識の成長・発達の諸相を高層ビルにたとえるなら、今自分がいるフロアからひとつ上のフロアに上がるための力——を「アガペー(神の愛)」ないし「アートマン・テロス」とし、それと反対方向(下方)へ引き下げる力を「収縮」あるいは「アートマン拘束」としている。
一方ウィルバーは、水平方向に働く力(高層ビルのひとつのフロア内での成長の動き)として「エロス」と「タナトス」を挙げている。
「エロス」とは、みずからの存在を永続化しようとする衝動のことで、探求、執着、願望、欲求、永続化、愛、生、意志といったことの根底で働く力である。
「タナトス」とは、みずからの消滅を匂わせるすべてのものを回避しようとする衝動のことで、いわば部分的ではあれ、「自己の死」に対する恐怖心と言っていいだろう。
さらにウィルバーは、垂直方向の成長を「変容」、水平方向の成長を「変換」と呼んでいる。「変容」は主にアガペーが担い、「変換」は主にエロスが担っているが、実は「変換」が積み重なると、しまいに水平方向の成長が限界に達し、高層ビルの今自分がいるフロアにはとどまれなくなる時がくる。そのとき、タナトスの力によって「変容」が促されるという。つまり、エロスだけでは残念ながら垂直方向の成長は起きない。ある時点で、人は自分の「死」を——部分的な、あるいは象徴的な意味においてでも何でも——受け入れない限り、一段上の段階に上がれない、というわけだ。
言い換えるなら、それまで「エロス」の力によって継続していたことが不可能になる瞬間があり、そのとき人は「タナトス」を受け入れ、それまでの自分をいったん葬り去らなければ一歩も前へ進めない、ということを経験するのだ。これは、誰の身にも起きうることであり、また起きるべきことでもある。

アートマン・プロジェクトの4方向tr


■そして「インテグラル夢学」に至った

そうした「タナトス」を受け入れなければならない瞬間が、明らかにそのとき私に訪れたのだ。私は昨日までの自分を葬り去り、新しい(バージョンアップされた)自分に生まれ変わる必要性に迫られた。つまり、家財道具を一切合切携えたうえでの、ひとつ上のフロアへの「引っ越し」作業である。もちろん、ひとつ上のフロアに引っ越した後では、同じ家財道具に対しても、それらの見方、扱い方、価値の持ち方などには違いが出てくる。
私は、それまで継続していたすべての「営み」をいったんリセットし、まったく異なる(一段階レベルアップした)「営み」を新たにスタートさせる準備を始めた。同じことに取り組むにも、取り組み方をまったく変える、ということでもある。
そうした矢先に、私の目の前に現れたのが、「夢学」に関する理論体系を、ウィルバーのインテグラル理論にてらして再構築する、というテーマだった。おそらく、それまでの私だったら、このような試みの発想すら湧かなかっただろうし、湧いたとしても、自分にできるとは思わなかっただろう。しかし、そのときの私は「今、まさにこれに取り組む時だ」と思い、実際にやってみると、不思議なほどすんなり筆が運んだ。
そういうわけで、私は今年の5月から11月ぐらいまでの約半年間、「夢の王国建国宣言」(「夢の王国憲法全12条」を含む)に始まり、「インテグラル夢学概論編」「インテグラル夢学各論編」という具合に論考を積み重ねてきた。この「各論編」はまだ完結しておらず、これからも書き続けるつもりだが、この論考にあまりに集中していたために疎かになっていたその他の「営み」を少しは前進させておかなければならない都合上、「インテグラル夢学」の探究は一段落させているのが現状だ。

こんなふうに、この2年間を振り返るなら、総じてウィルバーのインテグラル理論と格闘してきた日々だったと言えるだろう。
その結果、何の因果か、その途中経過において、私自身にも「変容」の瞬間が訪れたわけだ。ウィルバー理論を地で行った、といったところだろうか。

■夢のみ方にも大きな変化が・・・

それと同時に、今年の9月あたり、ちょうど「インテグラル夢学」が概論編から各論編に突入したのとシンクロするように、私の夢のみ方のパターンに劇的な変化が現れた。特に、いわゆる一般的には「悪夢」に分類されるようなタイプの夢に対する私の態度(夢の中での態度)が、一貫して「恐怖を伴う突然の状況にも決然とし、屈しない」という態度になったのだ。もちろんこれはあくまで「夢の中での態度」であって、現実のあらゆる場面で、私が夢の中でと同じように振る舞えるとは限らない。
「いや、振る舞える」と主張すると、必ず「夢と現実を混同するな!」という反論が返ってくるだろう。
しかし、これは夢と現実がどのようにシンクロするかを知らない人間の言い草である。夢学の専門家としては、「夢の中での態度の変化は、やがて現実にも現れるだろう」と言っておこう。

■人はなぜ意識を成長させる必要があるのか?

たとえばウィルバーは、25年間の瞑想の実践によって、覚醒状態、夢をみている浅い眠りの状態(REM睡眠)、夢をみない深い眠りの状態(ノンREM睡眠)の、三つの異なる状態を通して、一貫した意識状態を保つことができるようになったと述べている。
なぜわざわざそのような長期間の「修行」を経て、そのような特殊な意識状態を手に入れなければならないのか、とあなたは思うかもしれない。わざわざ「悟り」に至る修行を積まなくても、人は充分幸せで満足できる一生を送ることができるのではないか・・・?

もちろん、人にはどのような人生を歩む自由もある。
それを認めたうえで、最後に次のようなブッダのエピソードを二つ紹介しておこう。
この二つのエピソードが示す状況は、誰の身にもかたちを換えて起こり得る状況である。そんなとき、自分ならどのような態度を取るだろうかと想像しながら読んでいただきたい。

<エピソード1>

誰かれ構わず出会ったものを殺すと言われる極悪人のアングリマーラが、すでに999人を殺し、1000人目にブッダと出会った。
アングリマーラは、ブッダを殺そうとナイフを振りかざすが、ブッダに指一本触れることができない。しまいにアングリマーラはブッダにこう叫ぶ。
「動くな! 止まれ!」
すると、ブッダ曰く。

「私はさっきからずっと止まっている。ジタバタしているのはお前の方だ」

それを聞いた途端、アングリマーラは膝をつき、観念したという。

<エピソード2>

ブッダが「覚者」「悟った御方」であるという評判を聞きつけ、嫉妬した宗教家がブッダのもとを訪れ、誹謗中傷・悪口雑言の限りを浴びせかけた。
するとブッダは、まったく動じず、次のように言った。

「あなたが家で客人にもてなしの食事を出したとしよう。もしその客人がそれを食べなければ、その食事は結局あなたのものになる。私はあなたが差し出した悪口を受け取らない。その悪口は、差し出したあなたのものだ。そのまま持って帰りなさい」

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