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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その8):成長・発達の階層モデル

■誰もが成長の「タネ」を生まれ持っている

ここまで、人は社会的ルールや規範をいかに学習し、自家薬籠中のものとして自分の内部に統合(内在化)するか、というテーマを見てきました。その過程において、統制的な方法が用いられるなら、そうした統合のプロセスが阻害され、自ら考えて判断し、行動するのではなく、ルールをただ単に鵜呑みにする「取り入れ」が起きてしまう、ということです。そして、この「取り入れ」によって、様々な不適応行動も起きてしまうのです。
そうではなく、あくまで自律性を支援するかたちで指導されるなら、人は順調に統合のプロセスを歩む(=成長する)ということになります。しかし、これは不思議なことではないでしょうか。
つまり、誰かから教えられなくても人はどこかから(何かの体験から)社会的なルールや規範の「断片」を拾い集めては内在化させていき、自ら成長するということです。まるで、日本に生活していたら、そのうち自然に日本語を覚えて話すようになるのと同じように・・・。
だとしたら、人間の成長には、環境要因ではないものも大いにかかわっているということです。言い換えるなら、人は自ら成長する「タネ」のようなものを生まれ持っているということです。そう、誰もが言語習得能力を持っているようにです。これは、チンパンジーにもゴリラにもない人間特有の能力です。チンパンジーもゴリラも群れで生活するうえでのルールを覚える「タネ」がないわけではないでしょうが、人間ほど複雑で広範囲にわたる社会的適応能力を示すことはないようです。
オオカミに育てられた人間の子どもを見ても明らかですが、オオカミの群れの中では、言葉を話さず、四足歩行で、生肉をくらう生活でも、人間社会で生活し始めると、言語を覚え、二足歩行になり、ちゃんと人間社会に適応するようになります。オオカミやチンパンジーやゴリラを人間社会で生活させても、二足歩行で歩き、言語を話し、肉を焼いて食べ、地域のボランティア活動に出かけるようになるわけではありません。

「環境要因こそがその人の運命を決める」とする行動主義心理学や環境因果論は、先天的な「タネ」の部分と後天的な環境の部分で言えば、環境しか見ていないという意味で、いわば人間の物語全体の半分しか語っていない、ということが言えます。
カシの木のドングリの中には、将来カシの木になるべきすべての要素が含まれています。それと同じように、一人ひとりの人間の中にも、将来何者かになるべき要素がすべて含まれている、と言えるでしょう。もちろん、カシの木のドングリがカシの木の成育に適した環境に根づかない限りカシの木にはならないように、人間の「タネ」もしかるべき環境で育たない限り、「何者か」にはならないでしょう。言い換えるなら、十分に成長できた人間とは、与えられた環境を十分に活かしたか、あるいは自分に適した環境を自ら作り上げた人間、ということになるでしょう。
ただし、お断りしておきますが、ここで焦点を当てているのは、「遺伝か環境か」という二元論ではありません。また、人間一人ひとりの「個性」がどのように育ち、発揮されるのか、という話でもありません。もっと普遍的な話です。人間が黙っていても(ある程度)自然に成長するなら、人類共通の成長の「タネ」があるはずであり、そのタネにプログラムされているもの、プリントされている青写真に従って、人は子どもから大人へと成長するだろう、という話です。

■成長・発達の共通モデル

近年のめざましい発達心理学の研究成果により、人間の普遍的な成長・発達のプロセスがかなり明らかになってきました。ピアジェ、マズロー、エリクソン、グレイブス、ノイマン、レーヴィンジャー、グロイター、コールバーグ、ギリガン、キーガン、ベック、ボールドウィン、オファロンなど、その名を数え挙げればキリがありません。こうした研究者たちは、それぞれの発達モデルを提示していますが、ここではそのいちいちについて検討することはしません。
重要なのは、すべての発達モデルに共通する次のような部分です。

○人間の意識は階層構造になっていて、人はその階層構造を地層のように下から順番に積み上げるかたちで段階を踏んで成長・発達する。
○その階層構造は、上位構造が下位構造をすべて内側に含みつつ、なおかつ下位構造の「総和」を超える新しい構造(要素)が追加される、というかたちで進化する。
○階層構造は、順番がはっきり決まっていて、その順番をはしょったり入れ替えたりはできない。
○人間の意識の成長・発達の動きは、決して直線的なものではなく、螺旋を描いたり、波のように揺れたり、ジグザグを描いたりしながら、徐々に上位階層へと進んでいく。
○成長・発達の方向は、大まかに言うと、横方向の細かい動きと、縦方向の大きな動きに分かれる。横方向の動きは同一階層内の動きで、縦方向の動きはひとつ上の階層への動きである。そのどちらもだいたい弁証法(下記参照)の動きになる。つまり、ある段階において、横方向の小さな弁証法の動きをくり返すことにより、やがてひとつ上の階層への縦方向の大きな弁証法の動きが起こる。そしてこの横と縦の動きをくり返すことにより、徐々に上位階層に向かう。

このように列挙するだけでも、人間の成長・発達は、かなり複雑な動きであることがわかるでしょう。
ちなみに、人間は生きている間にどこまで成長・発達するのか、ということですが、実のところまだよくわかっていません。ウィルバーに言わせれば、上限はない、ということです。誤解を恐れずに言うなら、その気になれば神の領域(いわゆる「悟り」の境地)にまでいけないことはない、ということです。人は、子どもから大人になるだけで終わりではなく、大人から「超・大人」になる可能性を秘めている、ということです。

この成長・発達のモデルは、様々なメタファーやイメージで表すことができます。たとえば、階層構造が下から上へと順番に地層のように積み重なるという意味では、高層ビルに喩えることができるでしょう。あるいは、螺旋を描きながら徐々に上位へと進んでいくという意味では、巻貝のような構造として表現できるでしょう。また、上位構造が下位構造を「含んで超えている」という意味では、マトリョーシカ人形のような「入れ子」構造としてイメージすることもできます。また、直線的な動きではなく、螺旋を描いたりジグザグに進むという意味では、登山に喩えることもできるでしょう。成長・発達の「高度」が上がることによって、見える景色や範囲が広がるという事情も登山と同じです。さらに、辿るルートが人によって違うという点も、まさに登山です。

意識成長のモデル

■サナギがチョウになるメタファー

階層がひとつ上に上がる縦方向の動きを、私はよく「サナギからチョウになる」という喩えを用いて説明します。サナギからチョウへ生まれ変わる(変態・変容=トランスフォーメーション)現象と、人間の意識が上位構造へと縦方向へ成長する現象とでは、次のような大きな共通点があるからです。

○サナギはチョウの何たるかを知らない。サナギはチョウの視点には立てない。一方、チョウはサナギのことがよく見える。これと同じで、成長段階の下位構造は上位構造の何たるかを、そこへたどり着くまでは知らない。おそらく、そんな上位の構造があることにすら気づかない(予感のようなものだけはある)。そして、上位になればなるほど、高い視点を獲得する。
○チョウにとっての誕生は、サナギにとっては死を意味する。これと同じように、人間が意識の階層を一段階上がるときには、下位階層においていったん疑似的な自己の死を体験する。
○イモムシが一気にチョウになることはできない。サナギの段階は、イモムシがいったん動きを止め、殻に閉じこもる現象を言う。同じように、人間が意識の階層を一段階上がるときには、いったん立ち止まり、内省状態に入ったりする。自分がそれまで信じていた行動規範や信念体系に疑問が生じ、より上位のものにバージョンアップする必要性を感じ、そのために動きがとれなくなるからだ。
○イモムシからサナギを経てチョウになるというプロセスは、イモムシの遺伝子の中にすでに組み込まれている。それと同じように、人間の意識が段階を踏んで成長するプロセスは、一種の「地図」ないし「青写真」として、無意識の中にすでに組み込まれている。
○サナギが殻を破って外へ出て、チョウになって羽根を広げて飛び立つときには、大きな解放感を味わうだろう。チョウはサナギよりはるかに自由である。それと同じ解放感が、意識の上位構造に上がったときに得られ、その解放感の数だけ人は自由になる。

■成長・発達の共通モデルは「隠れた地図」

人間が生まれ持っている成長の「地図(青写真)」のことを、ウィルバーは「隠れた地図」と呼んでいます。私たちは、まさに自然に言語を覚えるように、この地図を無意識的に利用しながら成長しているからです。しかし、同時にウィルバーはこの地図の存在を意識することの重要性も繰り返し説いています。なぜなら、そういう「隠れた地図」の存在を知り、そのメカニズムを理解することによって、成長に加速度をつけることができるからです。地図なしで人生を旅するのと、地図を片手に人生を旅する、ということの違いです。ただしこれは、階層構造の「飛び級」を意味しません。あくまでスピードアップです。では、なぜ成長をスピードアップする必要があるのか、それはこれからじっくり語ろうと思う部分ですが、一言で言うと、戦争、貧困や飢餓、環境破壊といった地球規模の問題を抱えるこの21世紀前半の世界で、それが人類共通の究極的な課題でもあるからです。私たちはすでに、今までなかったこの有り難い地図を手にしているのです。その存在を知らないで済ますのはもったいない話です。

ところで、上記のような、サナギからチョウへの変態(変容)と人間の縦方向の成長の共通点を見ましたが、相違点もあります。サナギからチョウへの変態(変容)は一回限りですが、人間は何度も「変容(トランスフォーメーション)」する、ということです。一人の人間が一生の間に何回「変容」を遂げるかは個人差があり、また、回数を含む全体のプロセスには研究者によって諸説ありますが、それらの説を比較検討したウィルバーに言わせると、人が一生の間に無理なく成長できる段階の数としては7段階から8段階だろう、ということです。

■「弁証法」とは「正→反→合」の動き

さてここで、「弁証法」とは何かを簡単にご説明しておきましょう。
弁証法の動きを簡単に言うと「正→反→合」あるいは「作用→反作用→統合」となります。
ごく一般的な例を出しましょう。
たいていの人が、いわゆる「ホンネ」と「タテマエ」に分裂しています。人と対するときはもちろん「タテマエ」を前面に出していて、「ホンネ」の部分は隠しています。この場合、「タテマエ」が「正」、「ホンネ」が「反」と言い換えることができます。しかし、このような分裂状態のままでは、いずれ様々な不具合が生じます。不適応行動もそのひとつです。この状態から人が一歩成長するには、ホンネとタテマエの「統合」が起きる必要があります。この場合の「統合」とは、ホンネとタテマエのどちらか一方を選択するということではなく、両方を同時に可能にする(両方を含んで超える)「第三の選択肢」を創出することを意味します。これが弁証法のプロセスです。

ここで「取り入れ」の話に戻ります。社会的なルールや規範を「取り入れ」ている状態とは、そうしたルールや規範に対して何ら疑問を抱かず、そのままを受け入れている状態ということです。ホンネとタテマエで言えば、タテマエ(社会に見せている自分の顔)が自分のすべてである、と思い込んでいる状態ということです。「仮面」こそが自分の「素顔」である、と信じ込んでいる状態と言ってもいいでしょう。この状態はいわば弁証法の「正(作用)」だけが意識され、「反(反作用)」は無意識の状態ということです。「仮面」の反対は「影」です。つまり「影」が弁証法の「反」になります。「影」は基本的には無意識です。しかし、自分の「影」の部分が意識されない限り、弁証法的な成長は起きません。それでも本人は心のどこかでは、自分が統制を受けていること、自発的な自由意思でルールを守っているのではないことを感じているでしょう。そこで、症状としてアレルギーや中毒などの不適応反応が起きるわけです。そうした症状がきっかけとなり、そういう自分の状態に疑問を抱き始め、自分の「影」の部分を意識するようになり、そこから治療(矯正)あるいは自己変革・自己成長が始まるわけです。
したがって、成長の第一歩は、症状の裏に隠れた自分の無意識の中の「ホンネ」(弁証法の「反」の部分)に気づく、ということです。弁証法の「反」の部分に気づくと、「合」はやがて必然的に起きると言ってもいいぐらいです。
このシリーズその4でご紹介しましたが、拒食症の女性が、すでに痩せ細っている自分を醜く太っていると思い込み続けていることを、母親の家出や父親からの統制と結びつけて考えられるようになったときに、回復へと向かったことを思い出してください。

弁証法

■サナギからチョウへの「変容」の例

しかし、この「サナギからチョウへの変容」「成長の階層構造をひとつ上の階層に上がること」は、そう簡単なことではありません。上記にも示した通り、それは今いる階層において、いったん疑似的に自己の死を体験するようなものです。
たとえば、「取り入れ」を起こしていた社会的ルールや規範を「統合」するプロセスひとつを考えてみても、それが言えます。このプロセスは、生涯をかけた人間の成長物語からすれば、そのひとつのエピソードにすぎません。それでも大変なことです。
それがどれだけ大変なことか、極端な例を出すなら、「ジハード(聖戦)」に参加しているイスラム原理主義のテロリストが、先輩から聞かされてすっかり信じ込んでいた「殉死すれば、天国で72人の処女の花嫁と幸せに過ごせる」といった教えに疑問を抱き、宗教的回心を遂げ、ジハードから抜ける、というぐらい困難なことです。もちろん、そこに至るまでには、細かい葛藤をいくつも乗り越える必要もあるでしょう。これがいわば横方向の細かい成長となり、それが知らず知らずのうちに最終的な宗教的回心(縦方向の成長)に至らしめる、ということが言えるでしょう。ちなみに、同一階層におけるこの横方向の細かい成長の動きを、ウィルバーはひとつのフロア内での家具や道具の移動のようなものだと説明しています。人は誰しも、家の模様替えを何度も繰り返した挙句に、1ランク上の家に引っ越しする、といったところでしょうか。

もっと身近な例を出しましょう。想像してみてください。
あなたは家族を愛し、地域社会に貢献し、職場での役割に忠実で、この国の「良き市民」であり、そしてある宗教の敬虔な信者だとします。人生にこれ以上望むべきことがあるでしょうか。そう、あなたは自分の人生に充分満足しています。ところが、その揺らがないはずの人生の「基盤」が、ある日突然揺らぎ始めます。そのきっかけは些細なことかもしれません。しかし、いったん揺らぎ始めると、もう止めようがありません。やがてあなたは、今まで必死に築き上げてきたはずの生きる基盤が根底から瓦解するような感覚に見舞われます。もはや昨日の自分はいっさい通用しなくなります。今まで「Yes」と言ってきたすべてのものに、今日は「No」と言っている自分がいます。こうした内面的な変化は、具体的な症状にも出始めます。たとえば鬱状態、食欲不振、不眠、不安感、原因不明の動悸や眩暈、パニック発作など・・・。
あなたはいったん歩みを止めざるを得ません。そして今までとはまったく異なる歩み方を強いられます。あなたは必死でそれを探します。
やがてあなたは、今まで信じてきた規範とは比べものにならないほどの(今まで自分が出会ってきたあらゆる考え方をすべて足し合わせたものを遥かに超えた)、より上位の価値体系と出会うのです。そこであなたは、ある意味(宗教的なものに限らず)マインドコントロールから解放されるのです。
これは、まったく別の人間に生まれ変わるぐらいの大きな自己変革でしょう。宗教的原理主義者がその信仰から脱却してみせるのと、構造的には変わりありません。周りから見ても、明らかに生き方を180度変えたように映るに違いありません。まさにサナギがチョウになったようなイメージでしょう。そう、あなたはチョウに変容して初めて、サナギがいかに拘束されていて、窮屈で不自由だったかに気づくのです。

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