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おもひでぽろぽろ、或いは、シン・エヴァンゲリオンの感想


#シン・エヴァンゲリオン劇場版 #ネタバレ


「ってなワケで」

見て参りました。シン・エヴァンゲリオン。以下は、勝手な見解の雑な考察を基にしたシン・エヴァンゲリオンの感想と、思い出ばなしになります。ネタバレ嫌いとか、個人の独自解釈が嫌いな人は無視するかご容赦くだせぇ。念のため、アンチでもないし、今回の映画には大変好意的な解釈をというか、この映画を作ってくれた全ての人に、ただただ、感謝しています。いろいろ書いていますが、要するに、そういう内容です。


1995年のテレビシリーズ、単行本、そして旧劇場版。
謎本、やたら硬い謎素材のリミテッドモデルに、遅れて出たリミテッドハイグレードのプラモデル、ラジオ、鋼鉄のゲーム・・・僕の小学生・中学生時代のある時期までを濃密に彩っていたエヴァンゲリオンは、確かに、今日、2021年3月8日に完結したのだった。

ともあれ、新劇場版がスタートした頃には、恐らく僕だけでは無い、当時、エヴァを見ていた多くのおたくにとって、エヴァは一度終わったコンテンツだった。だから、綺麗な作画で、なんだか明るく前向きになった序を見たとき「ッケ」と思ったし、別にもうどうでもいいやと思っていた。


おや?と感じたのは破の終盤、渚カヲルが覚醒したシーンだった。
あのシーンで、テレビ版・旧劇場版は新劇場版へと継続しており、90年代のエヴァは「前の周回」の世界であったということが確定したからだ。
そして、Qではエヴァのパイロットになった人間は時間が停止してしまうこと、つまり、90年代にエヴァに触れた僕らの物語は、あの時点でまだ続いているのだ、ということが明かされる。
もう放っておいてくれよ。
そう思いながらも、Qの意外なまとまりの良さと、大人はもう全員くたびれきって下の世代に構えない。へし折られた男も、男よりも先に現実に絶望した分、幾分か大人びた女もさっさと異性の手をとって(結婚して)荒野となった現実を生きていけ。といわんばかりのラストシーンに、30代がみえていた僕は妙に納得して「これが最終回でもいいや」と思っていたのだった。
しかして、続編が、完結編があるという。
もう余計なことしなくて良いんじゃないか?そう思いつつ、それでも、2012年から色々あって、結局僕はシン・エヴァンゲリオンを見に行くことにしたのであった。


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繰り返される最終回。
シン・エヴァンゲリオンは序盤から、ヴィレとネルフの抗争と、「生きとったんかいワレぇ」的な再会と唐突な日常編の連続。正直、これはこれで見てみたかったものでもあるので、それなりに面白かった。
同時に、破でシンジが引き起こしたニアリーサードインパクト(ニアサーと略されるのがウザい)が、全ての生き物の生命と意識とを使徒のコアに返還して合一させ、それを物質と精神の関係性や法則が反転した世界へと一度持ち込んで、そこで形を操作して持ち帰ることで世界を作り替えるための現象であったことが判明。で、旧劇場版の最後でシンジが他人がいる世界を選択したことで出現したのが新劇場版の世界であり、ゲンドウはAir/まごころを君に、でシンジが選択しなかった方の世界、つまり、他人が存在する世界であり、すったもんだの末に生み出したのに一番最初に復活させたアスカに「気持ち悪い」と切って落とされて始まった世界ではなく、やはり、他人が存在しない世界、自我とか他我とかがない分、誰も他人に傷ついたりプレッシャーを感じなくなる世界を出現させようとしていた。
まぁこれも、全ての魂が一つの塊に戻ることでどこかへ消えてしまったユイの魂と再開することを願っていたゲンドウにとっては首尾一貫の初志貫徹、なんの矛盾も変節も無い動機である。

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新劇場版の登場人物たちは、テレビシリーズや続く旧劇場版とは少しづつ異なっている。性格や言動に顕著に見られるその差異に、序や破では驚いたり面白く感じたりヤキモキしたりもしたのだけれど、それもこれも、次の周回の世界なのだから仕方が無い。ジョジョではないが、皆少しづつ変化しているのだ。それを前進(advance)と言うべきか、後退と言うべきかは人それぞれだろうけど。
しかし、この間、時間を直接的に継続させていると思しき人物が登場する。破のラストで目覚めた渚カヲルである。
「今度こそ」「幸せになって貰うよ」
これも、シンを見終わった今だからこそ意味が全く違って聞こえてくる台詞だが、カヲルは前の周回の世界から記憶を引き継いでいる。この時点で、新劇場版と旧劇場版が繋がっていることに確信を持ったのは僕だけじゃ無いだろう。ウンザリしたのもねw
ともあれ、明らかに前向きさや他人に対する積極性を向上させているシンジ、世界のあらゆるもの、特に生命や感情に興味を持ちやすくなっているレイ、女子力というのか、他者の関係性への拒絶感が緩和されているアスカなど、流石の強くてNEW GAME状態で、皆、明らかにまともになっている事に違和感や反感を覚えつつ、僕らは新劇場版を見てきたのである。

シンでは、全滅してしまったかと思われた連中が次々に登場し、Qのラストで荒野をさまよっていたシンジ、アスカ、アヤナミはしばしの日常パートを体験する。それはまるで、テレビシリーズの最終話に突如ぶち込まれた学園エヴァの再現のようでもあり、エヴァの後、少しの間だけ続いた小難しいだけで暗くて中途半端な作品が多かったアニメ(セカイ系や絶望系)に失望したというか、アニメで色々考えたって作品中で回収もできなけりゃ自分自身も成長も前進もしないわな、という敗戦体験の後で、まるで敗戦後のサザエさんのような、日常系作品が溢れかえった時期さえ思い出させる。思想的であったり信念の尖ったアニメに散々つきあった後は、どうも、日常系作品に癒やしを求めたくなるのが人情というものらしい。それに飽きた頃に、或いは、ジュブナイルを求める次の世代がまどマギあたりを受け容れられたと思うけど、確かめるには歳を取りすぎたような気がする。
ともあれ、この、束の間の日常パートの中で自律性を回復していくシンジやアヤナミは、特に、田植えやツバメとの接触で変化していったアヤナミの姿は、終盤でこの映画最大のグロ要素となって僕らに、多分、30歳オーバーの観客にロンギヌスの槍となって突き返されてくるのだが。後に譲る。

そして、やや唐突な伏線として登場するミサトと加持の息子リョウジ。シンジとも直ぐに打ち解けた彼もまた、物語全体の人間関係に対する伏線になっている。いや遅すぎるっつの。
ついでに、集落を探して彷徨っていたアスカ達を迎えに来た防護服姿の男、声を聞いて、え?生きてたの?いや、弟とか?と思いきや本人だった相原ケンスケ。いつの間にかアスカからはケンケンと呼ばれて半同棲状態。知らん間に脅威の追い上げでアスカとくっついたお前には「令和の早瀬美沙」の称号を与えよう。
このからみで、綾波タイプの初期ロット、という言葉がアスカから語られる。レイも、そして、アスカも、計画のために人工的に作られたクローン人間のような存在だったのだ。って、アスカもですかい。そして、アスカにしてもレイにしても、シンジに好意を持つように設計され、仕組まれており、アスカはそれを知ったことで自分のシンジへの好意と、自律・自立した独りの人間としての矜持との間で苦しんでいたのである。だったらせめて、人間(アスカが人間をリリンと呼ぶのは、エヴァパイロットとしての矜持だけではなく、クローン人間である事実を知ったことで負い目やコンプレックスを感じているから。事実を知ってしまった以上、人間として生きていく欺瞞にアスカ自身が耐えられなかったのだろう)であるシンジの意思によって自分のみの処し方を考えたかったのだが、破のシンジはそれすら放り出してしまったのでアスカは怒った、というか、人間にとって気に入らなければ棄てられる道具となってしまったことが赦せなかった、というわけだ。
押井守監督の「イノセンス」に、人形がみな人間になりたがっていると思ったら大間違いですよ的な台詞がある(バトーの「人間になりたく無い人形の気持ちを考えたことがあるのか」だったかな)が、人形からしたって良い持ち主、悪い持ち主の区別くらい持ったって良いだろうと。
テレビシリーズで散々人形扱いしてきたレイの初期ロットであるアヤナミにそのことを告げるものの、アヤナミはシンジ(持ち主)がそれで良いと思うなら自分は受け容れる。と答える。この辺は堂に入ったものだが、これもまた、アスカやシンジを通り越して観客に突き刺さる台詞となっている。どう刺さるかについては、後でまとめて。

で、なんやかやあって、ネルフやゲンドウとの戦いに戻ることを決意したシンジは、ヴンダーに乗り込み、最後の戦いへ向かう。
この流れから、シンジの目つきが明確に変化していて、ヴンダーに乗り込むことを決めたシンジの泣きはらした目は、その後の変化への徴候であり、同時に、変化や成長に伴う痛みを受け容れ乗り越えた証拠でもある。
わずかな思い出と共に恨み言ともとれる遺言を言われながら別れた大事なフィギュアを手放したシンジは、この間にとんでもない成長をしていることが終盤で明らかになる。そして、この成長こそ、庵野秀明が26年間エヴァに付き合わせてしまった、エヴァに呪われて時間の停止した子ども達(チルドレン)へ贈った答えだった。


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シンジVSゲンドウ
ところで、あれを見ていた人達は、どの辺からエヴァンゲリオンの葬式、エヴァンゲリオンを見ていた僕たち/私たちの葬式、が始まったと感じていただろうか。
僕は、久しくなりを顰めていたテレビシリーズ終盤でお馴染みの内面・心理描写が始まったり、巨大綾波に槍が突き刺さろうとした瞬間あたりからそう感じていたのだけれど。

エヴァの葬式が始まった。
まとめにかかってきた。まるで旧いファンへのサービスカットのようなわざとらしい心理描写の中には、かつての心理描写には殆ど登場しなかったゲンドウがいた。というか、中心になっていた。唐突に流れ出すゲンドウの想い。それはもう、シンジとゲンドウが似たもの同士とか、そういう次元ではなく、ただの心情の吐露だった。いや、直前からマリがずっと「何をするつもりなの?ゲンドウ君は」と繰り返し呟いているので、その辺から割と自然な流れにはなっているんだけどさ。

テレビシリーズから変わらないユイへの想い。あれ?京都大学の研究室ってこんなに人数少なかったっけ?的な描写の中にやっぱり登場している人間だったころのマリ。マリがずっと懐メロ歌ってるのも伏線だったわけですよ。そして、ゲンドウがシンジと同じように他者の存在感から自分を遮断するために使っていたイヤフォンから流れているであろう音楽と、マリの歌(自分の歌声ではなく、懐メロとしての歌謡曲)。マリの場合は、周囲の時間と自分の中に流れている「正確な時間」とを遮断するためのものなんだけどねー。もう一つの音は、声。これはラストシーンで。

エヴァ初号機とエヴァ13号機の親子喧嘩のシーンでグラップラー刃牙を思い出す人と、アベノ橋魔法商店街を思い出す人とがいただろう。いたよね?え、僕だけ??いやそんなことはない!だろう!多分。
もはやただの親子喧嘩と化した最終決戦は、今まで登場した様々な場所で繰り返されるが、食卓をひっくり返した時にはもう岡田斗司夫が唱えた「最終決戦でひどいことになったピークのところでユイが現れてゲンドウをシバキ倒して終わり」説が一気に現実味を帯びてきて焦ったけどw

これは、あらゆる親子喧嘩がそうであるように、成長していく息子が父を乗り越えるシーン。伝統的な父殺し。と思いきや、ここからが鮮やかだった。

アベノ橋魔法商店街の終盤を思い出そう。
陰陽師の力が明らかになり、あるみが死んだという現実から逃れるために必至でイマジネーションの世界にあるみを連れ込んで逃げ続けていたサッシに、血が噴き出すような凄惨で鮮烈な現実を持ち込んできたのはサッシの父だった。
そう、親子喧嘩の一つの側面とは、子どものイマジネーションと、父親が持ち込んでくる現実との衝突現象である。
この構図は色んなアニメにも当てはまるし、っつーか、おとっつぁん達はそうやって色んな子ども向けコンテンツを作ってきたのよイヤまじで。
途中から親が離脱しがちな日本のアニメだと少しややこしいが、アムロ・レイに対するテム・レイだって、例えば、アムロにとって戦争や軍の都合という現実と共に、アムロにとっては戦争の象徴であり戦争にアムロを結びつけてしまうことになるガンダムを持ち込んでしまう。この辺は、ゲンドウも同じで、シンジに「エヴァに乗れ」と迫るゲンドウは、劇中においてはシンジに現実を押しつける父親そのものだった。ダース・ベイダーとルークも同じ。で、アムロもルークも鉄郎も、親や大人が提示してきた現実に対して、自分の実感やイマジネーションをへし折られたりしながらなんとか貫き通し、思春期の冒険を終えて大人になっていった。
アベノ橋魔法商店街のサッシとサッシの父もその構図であるが、サッシの父の存在感は他のどの作品よりも残酷で鮮烈だった。

しかして、ゲンドウの前に立ったシンジは、目つきが違っていた。
あの目つき、京都大学時代の確信犯としてのゲンドウのような強い信念と確信とをもった人間のそれであった。
最早、シンジから見たゲンドウは、現実を持ち込む父、ではなく、はた迷惑な妄想、イマジネーションを展開して周囲を巻き込む迷惑親父と化していた。
シンジはいつの間にか、ネルフの司令としてのゲンドウも、父としてのゲンドウも追い越して、誰よりも現実(リアル)を直視して付けるべきケジメをつける男の顔に鳴っていた。
痺れた。
今まで、父と対峙する息子、娘たちや、子どもごと世界全体を自分の思想や信念に巻き込もうとする強大な父親や母親はいても、「ポンコツと化した親」はアニメのラストで描かれることは無かったからだ。シンジの急成長によって、もはや「再会、父よ」のテム・レイのようにも見え始めたゲンドウは、シンジに真実と心情とを吐露するが、シンジはそれすらも受け止めてみせる。
他人の悲しみを受け止められるようなった息子シンジと、その姿に追い求めた愛妻ユイの面影を見て、ゲンドウは始めて自分が補完したがっていた欠損が既に、シンジの成長によって埋められていたことに気がつく。
「大人になったな」
は敗北宣言であると同時に、ゲンドウ自身が報われた瞬間でもあった。
シンジの中のユイと再会したゲンドウは電車を降りていく。
あの電車はまるで銀河鉄道のような、現実に耐えられず、或いは死にゆくものたちの魂が乗り合わせる電車だったのだろうか。現実とイマジネーションの狭間を行き来する電車は、ついに終着駅としてのイマジネーションの世界の中枢へいたる。
シンジはそこで、ゲンドウが現実をまるごとイマジネーションの世界へ巻き込むことで起こそうとした改変現象のケリをつけることにした。

様々な作品で繰り返される父と子の、継承や超克による発展や前進、或いはそれが破綻した結末としての悲劇。
シン・エヴァンゲリオンは、
①それまで絶対的な現実を司り、その現実を維持したり改変していた父と、現実に傷つけられ耐えられず逃げだしたり居場所を持たずにイマジネーションの世界から出られなくなった子どもの物語であり、
そして、
②その終盤には、イマジネーションの世界から出る決意をした子どもが父と対峙し、畏怖の対象であった父を直視した結果、その父が司る現実の破綻や、父が持っていたイマジネーションのポンコツっぷりに気づく。
③しかし、成長した子どもとしてのシンジは父のイマジネーションのポンコツさ加減を「悲しみ」として理解し、受け容れて見せた。父の不完全さや果たせなかった願い、解き明かせなかった問いを受け継ぎ、更に前へ進んでいく。その姿に、父ゲンドウは息子シンジが「大人になった」こと、そして、その背後に妻でありシンジの母であるユイの姿を見出す。物語として、ラストシーンへ一気に突き進む。

現実を巻き込みすぎたイマジネーションの世界の中枢で、シンジはエヴァの無かった世界、エヴァが無くても前へ進んでいける世界を新たに創造するため、父のイマジネーションの象徴であったエヴァンゲリオンを殺そうとする。

その途中でアスカは囚われ、初号機の中に囚われていたレイとも再開する。初号機のエントリープラグに癒着した状態で髪もボサボサにのびたレイは、文字通り成れの果て状態。それでも「シンジ君がもうエヴァに乗らなくて良いようにしていた」あたりが健気なのだけれど、シンジは「もういいんだ」と言いつつレイにも助けが来る、助けることを言い残してアスカを解放しに飛び立つ。まるでエウレカセブンのレントンのように、成長し、大人って行くシンジはとにかく飛翔する。飛躍する。
そして、アスカを始め、多くのエヴァに囚われていた人物達をエヴァンゲリオンのイマジネーションから解放していく。その途中に、ツバメ人形を抱えたままエヴァンゲリオンの製作現場に取り残された地縛霊のようになっている綾波レイが現れる。

綾波レイの地縛霊は、恐らく、26年間エヴァに囚われてきた僕たちが犯した尤も大きな罪の一つだろう。気合いの入ったアニメファンなら、このシーンで「うっ」となったと同時に、まどかマギカ「叛逆の物語」のほむらを思い出したであろう。そうだ。綾波レイというキャラクターは、1995年のテレビアニメ放映開始以来、ファンからあらゆるイマジネーションの対象とされ、さまざまな作品で、メディアで、二次創作で、色んな姿や役回りを引き受けてきた。丁度、この映画の前半で「赤ちゃんを可愛がる綾波レイも良いなぁ」と思って早速薄い本の構想を練ったり、欲しがったりしているそこのお前と俺のことだよこんちくしょう!
そうして、エヴァに囚われていた僕らに囚われ続けた挙げ句、畸形化していた綾波レイを華麗に解放、ジェットソンしたシンジは、続いて、渚カヲルを解放することにする。
次々にイマジネーションの世界から他人を現実(リアル)に解放していくシンジに、意外だったよと告げるカヲルの本音は、シンジが傷つけられることのない優しい世界、つまり、他者の存在する苦痛=異質なものと隣接する恐怖や不安が存在しない同質的な、ホモソーシャルな世界でシンジと共に生き続けることだった。しかし、同時に、カヲルはこの時点でシンジが「いつだって現実(リアル)の中で救われることのできる」人間であったことを思い出している。
ここで、渚カヲルの正体が確定する。
綾波レイは、ユイをモデルにつくられた人造人間だった。そして、アスカも誰かをベース?につくられた人造人間であったことがここまでの展開で明らかにされている。では、渚カヲルは?旧劇場版からうっすら示唆されたりファンの間では考察する人がいたんだけど、カヲルのベースは碇ゲンドウである。シンジの息がぴったりのピアノ。ゲンドウのピアノとその調律、ハーモナイズされた軋轢の無い音の心地よさ、そして何より「今度こそ」「幸せになってもらう」という強い意志。渚カヲルはゲンドウの分身というか、半身だった。だから、シンジと直ぐに打ち解けたリョウジの父である加持リョウジとゲンドウは、カヲルは友達になり得るという描写に繋がる。渚司令、と呼ばれたときには一瞬混乱したけど、まぁ、そういうことだよな。なんだよ息子に激甘じゃねぇかよゲンドウ。

で、そんなパパンもジェットソンしたシンジはいよいよ、決死の覚悟で全てのエヴァンゲリオンを殺し、イマジネーションの世界を閉じることにする。

と、その時、ヤットデタマンかお前は的なシチュエーションでユイ降臨。
ゲンドウと共に初号機と13号機の心中によるエヴァのイマジネーション世界の破壊=ネオンジェネシス(NEO=新たな、Genesis=創世。ネオンジェネシスは新世紀エヴァンゲリオンの新世紀の部分の読みとしてテレビ版から登場している)を敢行する。ゲンドウとユイが裸で抱き合うという、誰得なんだそれはというアレな絵ヅラで世界が救われ、そろそろ膀胱が限界を迎える全ての中高年達はこう思っていただろう。
父にありがとう、母にさようなら。
と、
そして、あのラストシーン。
ケンケンの元に返ってきたアスカ。
まるで父母二人が報われたかのように駅で落ち合うレイとカヲル。
そして、声変わりしたシンジを迎えに来たのは、胸の大きい良い女。だった。

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コネメガネの正体
最後にエヴァ皆殺し祭りを半分担当していたマリ。
彼女もまた、エヴァに呪われて時間を停止させていた一人だった。
おや?生き残っちゃったの???
だってマリは「物語の最初からエヴァに関わり、呪われてずっと若い頃のまま魂をしばられた大人」=「30代以上のエヴァファン」でしょ?
なんだよ、あんな葬式やってくれたのに、俺たちは成仏してねぇのかよ。庵野さんよぉ。かみさんの作品までちょい出ししておいて、我々はエヴァで人生損しちゃったってことですか?置き去りですか?

そう思ったのも束の間、「かわいいよ」声変わりをした(つまりシンジの時間はエヴァから解放されて動き出しているということ)シンジは、今度はマリの手を引っ張り返すようにして「連れ出していく」。
その先は、現実(リアル)の世界。
成長し、前へ進んだシンジは、最後にエヴァファンの手を引っ張って現実の世界へ連れて行ったのだ。

まるで、ミスター味っ子のアニメOPでみつ子がマンガの世界から陽一の手を引っ張ってアニメの世界へ連れ出していったような、見事な「連れ出し」。
庵野監督は、最後に、きちんと、エヴァファンを現実に連れ出していったのである。

この映画、正直、前半パートも戦闘パートももう散々見てきた分「あれ・・・なんか微妙かも・・・」と思ってみていたんだけど、終盤、庵野秀明には恐らくもう必要ないのだろうなぁという心理描写や内面描写の復活、往年のロボットアニメがその使命として構造的に抱えている「思春期の冒険の相棒としての主役ロボットを冒険の終わりに破壊する」というシーンのこれでもかという敢行。最早、アニメの作法に則った別れの儀式=お葬式なのではないかと思うような、後半からラストへの流れは、しかし、僕も含めて恐らく多くの中高年の涙腺を決壊させていたのである。それは何故か。
シン・ゴジラを思い出そう。
あの映画は、東日本大震災が重要なファクターになっている。というのも、冒頭からL字テロップや防災服を着込んだ官僚などを通じて、日本で震災を体験した多くの観客が地震のことを想起したからである。どうでもいいけど、震災の影響でシナリオを変えたというQに、本来はあのエヴァ津波が入っていたのかなぁ。まぁいいんだけど。
シン・ゴジラへの批判に、劇中で活躍するのはエリート官僚や専門家と自衛官だけで、一般人が殆ど描かれていないじゃないか、というものがある。しかし、シン・ゴジラにおける一般人の役は、2011年3月11日にあの地震を体験し、テレビやラジオから津波や原発事故の状況を見守っていた記憶を持つ全ての観客がエキストラとして引き受けていたはずである。だから僕らは、自分たちの記憶をコスモのように燃やしながらゴジラを見たし、そうであるからこそ感動したのだ。それだけに記憶を共有しない海外での上映ではイマイチだったんだろうけどね。

シン・エヴァンゲリオンも同じなのである。
僕も含めて、多くの中高年の観客が、それぞれの26年間を心の中で蘇らせながら、シンエヴァを見ていた。そして、後半の別れの儀式、お葬式は、間違いなく、エヴァンゲリオンのお葬式であり、僕らとエヴァンゲリオンのお別れ会になっていた。それが良かったのか悪かったのか。少なくとも僕にとっては素晴らしいものだった。だって、あの後トイレはともかく、前へ向かって進んでいこうと思えたから。

父にありがとう。
母にさようなら。
そして、すべてのチルドレンたちに、おめでとう。

僕らのエヴァンゲリオンは、終わったんだ。

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まるで、おもひでぽろぽろのような体験をさせてくれた映画だった。
シンエヴァの前日、いや、映画が始まる直前まで、僕は小学生の頃の自分を連れて行こうか迷っていた。

結局、彼はついてきたし、僕は僕で、映画が終わったら、映画に連れて行ってくれた叔父と帰りに寄ったラーメン屋や模型を買ってくれたおもちゃ屋に寄ろうと決めていた。
色んな記憶というか、思い出が蘇って、これまでの記憶や体験と混ざり合いながらエヴァと共に弾けていった。

テレビシリーズを見始めたのは決戦第三新東京市くらいから。その前後で、TBSラジオや文化放送の深夜放送のCM枠でエヴァのことを知っていて、塾の帰りに国立駅の本屋で買った単行本を読んでいたら時を失って乗り過ごし、気づいたら終点の府中駅だった。

当時、府中駅は京王線の線路を包む小汚い筒のような状態だったが、この頃、再開発で見違えるほど綺麗になっていた。
この日、始めて改装された府中駅に降りた僕は、まるでどこか知らない場所に来てしまったような錯覚に陥りながら、国立駅行きのバスで引き返した。
美味しんぼか何かで、本当に美味しいものは気づかないうちに平らげてしまう。という描写があったのを思い出して、なるほど、これは凄い作品かもしれない。と思ったのだった。

思えばあの日以来、僕は何かを乗り過ごしてしまったのかも知れない。
映画を見終わって、久しぶりに来た府中駅を散策しようと思ったらおもちゃ屋もラーメン屋も無くなっていた。
ずっと、残酷な天使のテーゼが頭の中でリフレインしていた。
何度か府中には来ていたんだけど、なんだ始めて「時間が流れたんだな」と思った。
あの頃の自分の気配が次第に無くなっていたけれど、それ以上探すつもりにはならなかった。

国立駅生きのバスに乗って帰ろうと思ったけど、雨降ってて超寒かったからタクシーで帰って来ちゃった。
4000円以上かかったけど、大人の財力であの時のガキは振り切ってやったぜ(台無し。

シン・エヴァンゲリオンは、僕たちの26年間を共に燃やしながら見ることの出来る映画だった。
卒業とかお別れ会とか色んな言い方はあると思うけど、個人的にはすごく良いお葬式だったと思っている。
そんなわけで、もう何回かどこかで書いたり喋ったりしているのだけど、もう一度だけ。万感を込めて・・・

ありがとう!!

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