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パニック時における自己の再発見について~武術の起源~

はじめに

これから、パニック時における自己の再発見という体験について論じていく。はじめに、その論旨の全体の流れを説明する。

まず①では、「パニック時に自分がたった一つの技を出せるかどうかという観点において、自己を再発見する」という手法について述べている。
続いて②では、自己の再発見を体験することで得られる効果を詳述した。
また③では、自己の再発見によって、「虚しさの中で動き続ける心」を捉えることを試みている。
最後に④において、②の中で触れた「より内側に深く己を秘めていく」ことについて、補足している。


①対複数のエスケープゲーム

ここでは、パニック時に自分がたった一つの技を出せるかどうかという観点において、自己を再発見することを目論む。 
そのためのルールとして、 襲い手レベル1を、手に何ももたずに、興奮状態で、右パンチと組みつき(タックルも可)とを打ってくる複数の相手であると設定する。
 
逃げ手は、一方の襲い手に押さえられ、もう一方に打撃を喰らい続けることのないように、足を止めず動き続け、相手の動きに乗じてすぐに崩したり投げたりする。
 まずパニックを経験し、パニックの中でも一つ技を出す。この出力を重ねていく中で、相手に通用し得るとなった体験を基に自分の核となる技を作る。

②敵を前にした個の発見

敵を前にして、対応できなければ、はじめから自分はそこに存在していなかったのと同じことだ。しかし、それでもなお、今そこにいる自分を発見したとき、自分の確たる存在が証明される。また、無意識に出る技を1個、体で覚えておくと、何もかもなくなってもそれだけは自分の中に残るものになる。

自己の再発見という体験が心身に起こす変化は、周囲の人との相対などのように自分の外に向かっていくものではなく、より内側に深く己を秘めていくというものになる。これによって消費エネルギーを制限することができる。
自己の再発見という体験を理解するには、考え方を勉強するだけでいいので、すぐ終わる。そして一度理解したなら、あとは何かをする前に思い出して心を整えるという準備をするだけであり、それもまたわずか数分で済む。

これらは、鬱病と武道武術の両立につながる。
うつ病もしくは無気力感のぬぐえない人は、何かを熱心にやり続けることが難しい。最後までやりとげたり、技術体系の一系をすべてものにするに当たって、さりげなくその世界に身を浸けつづけたりするということをしづらい。
そんな人びとは、道場に入って1ヶ月もたずにやめてしまうとしても、やはり自分にない何かを知ろうとして道場に来るのだ。結果的に彼らは一つの技術だけを学び、持ち帰ってそれを一人で考え続ける。
こうした人びとにも、パニック時における自己の再発見の体験を伝えることができる。ワンタッチで済むからだ。

武術を「今そこにいる自分を発見する」というようにとらえることは、武術の起こり(起源)と呼べるものについての理解である。
もしも、そこからさらにその技術体系を網羅しようとするのであれば、それはその武術の完全な理解を目指すということである。

③今それを私がする意味を考えていても始まらない

修行の意味とは何か、達人とは何か。例えば、変わりのない日常的な勤労生活を送っていて、人混みの中、自分ならびに他人が刺され殴られかけるという、一生に一度、二度あるかないかのそんな状況で、襲い手を押さえ、周りの人が逃げる時間を稼ぎ、自分もまた逃げることができたならば、その一事を以て達人と言ってやれる。

しかし、私自身に意味がないとするなら、修行にもまた意味はない。また、武術は意味のある動きだが、意味のある動きを身につけたからといって、だから自分にも意味があると言えるのだろうか? 下らない虚無主義ではあるが、一度この考えに至った人が、その虚無感から目をそらし続けようとするのは難しい。この虚無感からどうして目をそらすことができようか。

上記の虚無感については、未来過去現在の三点を分断することにより発見されるものだということができる。
この分断というのはどういう視点かというと、例えば、「健康になることが、自分に多くの時間と空間とを約束する」という言葉を未来と現在とを分断する視点から批判してみようとすると、
・そのような時間と空間とは結局「今」にはない
・より多くの時間と空間との前で、自分はうつろにならずにいられるのか
という2点のことを指摘できる。このようにして、未来と現在との混同を否定する視点である。

未来過去現在の三点を分断することにより発見された虚無感から脱却するには、三点のつながりを示すか、三点分断各点独立の視点から新たな概念を提示するかという2つの方法を挙げられる。前者の方法は、批判者に対して再度未来と現在との連続性を示すものであり、これは論点のズレとも見ることができる。よって、同じ三点独立の視点に立って、新たな概念を提示することが、批判者から見て歪曲を排除した説明につながると考えられる。

僕はその新たな概念として、「ただ、意味もなく競争もないのであっても、そうした空しさの中、動き続ける心がある」ということを提示する。
この概念において、意味があってそのことをやっているわけではないというのは、そのことについて後から、「こういうことに役立ったのでやっといてよかったなぁ」と思うことはあっても、始めに「目の前の動きを自分のものとしなければ気がすまない」と思った理由を言葉で説明することができないというように、理由となるものが理由にならない理由であるということによる。

しかし、やる理由を他人に訊かれたときは何かしら言葉を添えねばならない。
動きを身につけるための理由を「動きを身につけるためです」と答えるとワケわかんないので、「動きと自分の体とを一体化させる」と言い換えて格好をよくする。

ところで、正しいとされる動き(方法)に自らを合わせにいくという心の用い方自体には、抽象的な意味合いがある。この行動は学校や仕事の中でも同じであるから。
また、強くありたいと言う思いも、説明のできないものである。
他には、目の前の人間をより深く理解しようとするようにその武術を理解しようと励むこともまた、一つの意味を持っている。

④心のエネルギーを内側に向けるために

修行が中途半端にならないようにするためには、個人的なことと集団的なこととを、分けて考えるべきだ。
「意味」「過去」「動機」は私個人に属し、「言葉」「未来」「結果」は自らとその周囲を含めた集団に属する。
「過去」は、己だけのものである。出会った人とのつながりは、会わなくなれば風化する。そして己の中に残し得たものは、己にしか扱えないものだ。
しかし「未来」は、己にはない技量や経験を持つ人物とのつながりをもたらす。そうした人物との協力によって、一人ではできないことが可能になる。
未来における協力は、過去で経験値を積まなければ十分になりえない。つまり、ただひとりでの熟練、経験の咀嚼を成しつつ、成し得た後に協力者を求めることになる。
一人で時間をかけて経験をそしゃくすることは、その一方協力者を得ようとするとなおさら難しくなる。内に向ける意識を外向きにとられるからだ。

MBTIの利用法で、自分と正反対のタイプの偉人の名言から学び、自分の考え方を補うというものがある。これを昨年から実施し、老子(ENTP)の無為自然と言われる本を手に取ってきた。 ISFJである僕は、誰かの支えになりたい、社会に役立つ人間になりたいと少なからず以前より考えていた。
それは今、別に自分がいなくても今まで通りに知らないところで人々はうまくやっているんだというように変わり、自分一人なにもしなくたって別にいいやという考えが頭の隅を占めているというように変わった。
これは心のエネルギーを内向的に向けるのには良い方便だ。いつか外向に向くことはもはや考えの外にある。
自分とは正反対のタイプの偉人の言葉について、どんな突拍子なことを言うのかと気構えて読んでみれば、実は己にやけにしっくりくるものであった。
まるで、己の見えていない部分、すなわち早々に答えが出てしまっていて自分の中では当たり前であったために灯台もと暗しとなっている箇所に、光を当てられたかのようだった。

⑤おわりに

②では、『敵を前にして、対応できなければ、はじめから自分はそこに存在していなかったのと同じことだ』という思考実験を用いた。しかし、アメリカ等諸外国の銃社会では、銃を所持するための法律を学び、扱うスキルを身につける。よって、銃社会に身を置く人びとは、このような思考実験によらずとも、事実として敵の前に己は存在していることを、もともと感覚的に理解している。上で述べたような虚無感に囚われるのは、平和である我が国ならではである。


さて、ここまで形にしてきたが、手ごたえとしてはギリギリのところで理解できているかできていないかくらいであり、非常に不安である。いまだにとんでもない思い違いをしているという危うさを感じ、一人で最低限の時間を使って考えうる範囲の外に考えが及んでいないことを実感している。
こうしてまとめてみて分かったのは、ここで時間の話をする以上、どうしても『存在と時間』を読むことを避けられないということだ。他の人の時間論についても精読することが必要だろう。
次はこれらの本を読み込み、自分の論旨をブラッシュアップすることに繋げていこうと思う。

そして、僕の論旨が間違っていると思ったのなら、どの文に不満を感じたのか、僕に直接教えてください。僕は確実に何かを間違えています。そしてそれを指摘されたとき、その指摘がいかに不躾であれ、その文体を簡明なものに並列したり、時間を置いてみたりすることによって、冷静に考える方法を知っています。
そのために、noteに論旨を一度まとめて置いておきました。 別に、お前はその考えのままでいいし、自分はそれとは違った考えを持ち続けていて、それを個人的なグループの中で共有させてもらおうというのはまず当然の反応です。 しかしどうか、 僕に改善する機会を与えてくださることを願います。
「どうして間違いなのか」まで具体的に教えてもらえなくとも、「どこ(どの文のこの箇所)がおかしいと思う」だけ教えてくださるのでも構いません。そうした指摘は、非常に参考になります。説明が十分でなかったり、よくわからないといった箇所についても、適宜注釈を入れて補足し、より確かな説明に努めるようにします。

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