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[書評]火の意志と水の認識。原始仏教「スッタニパータ」「ダンマパダ」

読むと心が静まる。

怒りや焦り、恐れなど、ネガティブな気持ちに振り回されてる時ほど、落ち着く本。

火傷を水で冷やすと、痛みが引くようにー。

ある瞑想に、水の変化が使われる。水が固体、液体、気体に変わるイメージは、世の中の空性を悟るには有効。

海、雲、雨、雪、また暑さから出る汗…。世界は水のように、目まぐるしく変化する。万物流転。

とは言え、この水の認識を元に生きるのは楽じゃない。

それは強い意志、火のような情熱と勇敢を必要とする。そうして、繰り返し沸いて出るエゴに、勝たなければならない。

水の中にあって、水に流されないよう生きるには、内なる火を持つ必要があるー。


パーリ語から直接日本語に訳された、最古の仏教経典、「スッタニパータ」・「ダンマパダ」。

岩波文庫で「ダンマパダ」は、「真理のことば 感興のことば」というタイトルである。「ダンマパダ」の和訳が「真理のことば」のため。

「感興のことば」は、「真理のことば」と内容ほぼ同じ。

著者は、仏教学者・中村元。


「スッタニパータ」にあるブッタの言葉は、修行上級者向けであり、「ダンマパダ」は初心者向けである。

当時、修行者に課せられたタブーは、300近く。

東南アジアで広まった上座部仏教は、修行中心の教えで、日本では伝わらなかった仏教だ。

ブッタは、煩悩を克服した凄い人、慈悲深い人、というイメージがある。

神もまあ、古今東西そういうイメージだろう。原始仏教では、そうではない人間・ブッタの姿も見られるのだ。

たとえば、以下。

みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄(きよ)まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。

人は他人を浄めることができないー。

自分の行いが人生を決める、自分しか自分を救えない、とは現代的な発言。

「神々との対話」(著・中村元)にも、そういうのがあった。

神「子供より可愛いものはない」
ブッタ「自分より可愛いものはない」

妻子や国を捨てて、修行を選んだブッタ。自分の子供の名前を、ラーフラ(意味・邪魔者)にするくらいの人だからなぁ…。

御者が馬をよく馴らしたように,おのが感官 を静め,高ぶりをすて,汚れのなくなった人 ――このような境地にある人を神々でさえも羨む。
神々も人間も、ものを欲しがり、執著にとらわれている。この執著を超えよ。わずかの時を空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごしたひとは地獄に堕ちて悲しむからである。

修行者が神よりも上、というのも面白い。

当時は口伝だったためか、詩のような表現が多い。その時代の感性も楽しめる。

骨で城がつくられ、それに肉と血とが塗ってあり、老いと死と高ぶりとごまかしとがおさめられている。                                  
音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。


洞察

原始仏教の思想は、社会や人を深く洞察する事から生まれた。厭世主義とも言える仏教。その開祖・ブッタは、世の中をどう見たのか。

殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。
水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。
世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。
(生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。
ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

以下、人間の洞察。

人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。
(かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

ちょっと笑える名言。

(師(ブッダ)は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪(けんお)と貪欲(とんよく)(という三人の魔女)を見ても、かれらと淫欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたこの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触(ふ)れたくないのだ。」

糞尿!

単純に女性蔑視では無いと思う。何故なら、当時から女性の修行者(尼さん)も受け入れているからだ。

「人間なんか糞袋だから」という認識は性欲に関する戒律の一つなんだろう。

…とは言え異性を「糞尿まみれ」呼ばわりするブッタの冷酷に、笑いが込み上げる。


知恵

変化して止まない世の中で、どう生きるべきなのか。ブッタなりの解釈。

心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。
たとえば王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

自業自得。

貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。

慎む。

もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である。愚者でありながら、しかもみずから賢者だと思う者こそ、「愚者」だと言われる。
怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。分かち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。
人よ。このように知れ、慎みがないには悪いことである。貪りと不正 とのゆえに汝がながく苦しみを受けることのないように。

精進。

怠りは塵垢である。怠りによって塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。

ブッタの最期の言葉も「精進せよ(怠けるな)」だった。


戦い

何が正しく、何が間違ってるかは、ほとんどの人は大体分かってる。正しい事をするが難しいのだ。正義を貫くなら、人生は戦いである。

「努力して、報われなければ虚しい」

戦いには、この不安もある。それに対し、ブッタは自身の考えを示してる。

まだ悟りを開く前の頃。

以下、スッタニパータ「第3 大いなる章 2、つとめはげむこと」の一部。

ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、
(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、「あなたは痩(や)せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。
あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。
あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物(そなえもの)をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。
つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」
この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。
かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──
「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、
わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。
わたしには信念があり、努力があり、また知慧がある。
このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。

結果がどうあろうと、自分は絶対諦めないー。

この宣戦布告で、ブッタは悪魔を退けた。

この悪魔は、ブッタ自身の煩悩の比喩なのかもしれない。


慈しみ

冷酷。意志強固。リアリスト。

「全世界に打ち勝った人」という異名に相応しい、超人さを感じるブッタ。

悟るとこうなるのだろうか?

実はブッタは悟った時、命を断とうとした。この教えを誰も理解しないだろう。言っても疲れるだけだと思って。

その時、神々が「あなたが教えを広めなければ世界は滅びる」と嘆いた。ブッタは世の中には理解してくれる人もいるだろうと思い直し、生きる事にしたらしい。

ブッタからすれば悟った時点で人生の目的を果たしてるから、教えを広めるのはボランティア。語ることこそ、慈悲だったに違いない。

これが正しい!と言い切れば、必ずアンチが湧く。当時も色んな宗派があった。仏教に人気が出れば、非難・邪魔する人も増えるし、命まで狙われる。

※実際、モッガラーナというブッタの弟子の一人が、異教徒に撲殺された。

語るのはリスクだが、それを「恐れてはならない」のが修行者である。なおかつ、「慈しみ」を持つように、と説かれた。

その一つが「慈経」。「慈経」は、上座仏教徒が唱えるポピュラーなお経である。

以下、スッタニパータ「第1  蛇の章 8、慈しみ」の一部。

他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯(おび)えているものでも強剛なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。


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