朝井リョウ『正欲』読後メモ
買う前からずっと、タイトルが気になっていた。
多様性の話。
衝撃的。
読む前の私には戻れない。
などなど。
いささか扇動的なキャッチコピーだな、と思いつつも、多様性を大いに謳う大学に通う身として、手に取った。
正欲。
正しくありたい、正しくさせたい、という欲求なのだろうか。
それなら、マジョリティ側の言い分として何となくテーマが分かる。
正欲 感想メモ
受け入れる、とか理解するとか、
どうして多様性を語る時にはそういう
どちらかが、どちらかに対して施す、
といったパワーバランスが起こるのだろうか。
昔、アフリカや貧困支援について調べていた時にも思った。
私たちはどうしたって、私の目で、耳で、頭でしか世界を感じ取れない。
それなのに、何が困るって、
みんなが同じ世界を見ているのだ
という共通認識のもと、社会は進んでいることだろう。
私は、私たちは分かり合えないと思っている。
私たちが分かり合えてると思っているその家族や友人は、果たして本当に、ピッタリと輪郭が重なるように、分かり合えているのだろうか。
私はあなたの目線にはなれないのだから。
だから、その同一の感情や思考が目の前にある、ということを諦めるのだ。同じになれるということを、分かり合えるという希望を、諦めるのだ。
そういう意識がないと、
私は常に何かの被害者で、
その裏側、
常に誰かの加害者である、
という視点が抜け落ちてしまうように感じた。
分かり合えない、
その言葉は、それだけである種のネガティブな感情や、拒絶感を持ち合わせてしまう言葉かもしれない。
しかし、分かり合えないということは、そんなに悪いことだろうか。
分かり合えない人とは分かち合えないのだろうか。
ただ、隣にいる人の話を聞き、私の思いを伝え、間違えた時には謝り、目が合ったら微笑み、嬉しかったら感謝し、受け取り、与える。
遠くの誰かよりも先ずは、必要なのは、今、目の前にいる人だろう。
私たちは分かり合えないという前提に立つ。
いや、私たちは分かり合えるだろう、
と言った甘えを諦めた先に、
分かり合えないまま、
一緒に存在する方法を探せないのだろうか。
それが今の時代に、いや、今の私に、必要なのではないだろうか。
なのに私は、人は何故か、それがとてつもなく難しい。世界に対して大義を語ることは簡単な世の中だと言うのに、目の前にいるあなた、家族や友人、に対して本当に真摯に向き合うというのは、何故かどうしても難しい。
今日から、私は、どうするべきなのだろうか。
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