見出し画像

世界法身仏巡礼

日本仏教を、大乗仏教からさらに発展した「法身仏教」と定義し葬式仏教からの脱却を主張し続けてきているが、今でこそ法身仏教は日本にしか息づいていないと確信するが、もとはシルクロードを経て広くアジア全体に浸透していた世界観である。

毘盧遮那仏の残る以下の遺跡を巡って、日本にこの「法身仏教」の世界観、具体的には華厳経の思想ならびに密教の修法を伝えたシルクロードの交流に思いをはせるのはいかがだろうか。


第一番:バーミヤン(551年、ササーン朝)

仏教の偶像崇拝を生んだペルシャ美術の影響を伝えるが、2001年タリバンにより爆破

第一番にバーミヤン峡谷の大仏を選んだが、第一番からいきなり、すでにもう毘盧遮那仏は残されていない。この無残な姿を見るだけでも、法身仏教が大陸において受けた弾圧の歴史を窺い知ることができるであろう。大陸ではあくまで「遺跡」であり、もはや「生きた信仰」を集めてはいないのだ。

ササーン朝はゾロアスター教を国教に据えていたが多様な文化・宗教を容認し東西の交流の活性化に寄与した。東ではガンダーラ美術の花開いたクシャーナ朝を併合して仏教文化が流入し、西では東ローマ帝国がキリスト教を国教とし異教の排除を進めたことでギリシャの学者たちが大量に亡命しヘレニズム文化も流入した。東西の文化・思想の融合の結果、大乗仏教の世界観にゾロアスター教の最高神の世界観が包摂され、法身仏の概念が確立されていったものと推測される。

このバーミヤン大仏の造立からわずか100年足らずの後に、ササーン朝はイスラム勢力によって滅ぼされ、これを以て古代ペルシア文化は終焉を迎える。以後現在に至るまでイスラムの支配に屈し破壊の限りを尽くされているのである。


第二番:龍門石窟(675年、唐朝)

唐の三代皇帝高宗の発願により造立された、中国仏教絶頂期の象徴

第二番には中国の龍門石窟を挙げた。敦煌の莫高窟(4世紀以降)、雲崗石窟(5世紀)とこの龍門石窟が、「中国三大石窟」として挙げられるが、中央に本尊として毘盧遮那仏を据える龍門石窟を、法身仏教の思想を最も色濃く伝える遺跡と捉えここに選んだ。中国仏教は隋唐代に絶頂期を迎え、8世紀には密教も大成し鎮護国家の根本に据えられたが、9世紀の「会昌の廃仏」を契機として急速に衰退し、儒教思想の中に埋没していくこことなる。


第三番:東大寺(752年、日本)

2度の焼失を経てもその都度再建され「生きた信仰」を集め続けている

そして第三番に「結願」の聖地として、もちろん東大寺を挙げる。中央アジアではイスラムに弾圧され、そして東アジアでは儒教に弾圧された法身仏教は、海を渡りようやく東の島国で安住の地を得たのである。東大寺の毘盧遮那仏は1180年と1567年、いずれも戦火に巻き込まれて焼失の憂き目にあっているが、その都度再建を果たしている。よって遺産としての歴史価値は減退しているかもしれないが、むしろこの不死鳥の歴史こそが、日本でだけは法身仏教の信仰が千年以上の長きにわたり生き続けていることの何よりの証なのである。


番外:ボロブドゥール(792年、シャイレーンドラ朝)

中央塔には仏像は置かず空洞とし、大乗仏教の「空」の世界観を象徴する

インドネシアのボロブドゥールは、ミャンマーのバガン、カンボジアのアンコールワットと共に「世界三大仏教遺跡」のひとつとして挙げられる世界遺産である。ただしバガンは上座部仏教寺院、そしてアンコールワットは当初はヒンドゥー教寺院として建立されたものであるのに対して、ボロブドゥール寺院は当初より明確に大乗仏教寺院として建立されたものである。上記の三つのように毘盧遮那仏の仏像が強調されているわけではないので「番外」としたが、全体で立体曼荼羅を表現しているとされ、回廊の東側に阿閦如来、南側に宝生如来、西側に阿弥陀如来、そして北側に不空成就如来が配置されている点からは金剛界曼荼羅が想起され、中心の大きなストゥーパにはあえて仏像は据えず中を空洞にしている点は大乗仏教の「空」の世界観を象徴していると言われる。さらに回廊には華厳経入法界品の善財童子の旅もレリーフとして描かれるなど、大乗仏教、華厳経、密教の教義を凝縮させた世界観が具現化されているのだ。

大乗仏教を信奉したシャイレーンドラ朝も、古マタラム王国やインドのチョーラ朝といったヒンドゥー教勢力に屈し、11世紀までには歴史から姿を消すこととなる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?