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死ぬこと、覚悟して生きてますか?(自己紹介)

わたしは終末期医療と医学研究に携わる「兼業医師」です。

わたしが診る患者さんの多くは、いかなる病気であれ、自分の命の終わりを他者に指摘されてはじめて、自らの死というものを意識し、残された時間の短さにもがき苦しむか、もしくは諦めが勝って無気力になるか、そのどちらかがとても多いと感じます。そしてその苦しみは家族にも伝播し、途方に暮れる本人と、死後に自責の念が残ることを恐れる家族、そしてその板挟みにあう医療者の三つ巴の人間関係は往々にして修羅の様相を呈します…

そうした患者さんたちの葛藤を目の当たりにするにつけ、本当は病気を抱える前から、もっと長い時間をかけて死と向き合いながら生きることで、自分の生と死をセットにしてコーディネートしておくことが理想だと感じます。当たり前のことですが、人は生まれた瞬間から死を運命づけられているわけです。生の有限性こそが逆に生の活力の源に他なりません。あと10000年生きられるのなら、今のうちになにかをしなければという活力も使命感も湧いては来ないのではないでしょうか?人は死を意識してこそより良い生が得られると信じて疑いません。

しかしその生の中で、病気との付き合いは不可避のものです。医療とはその病気の苦しみを軽減してより良い生を支えるものであって、決して死から目を背けさせるものであってはならないと思います。医療があまりに高度化し、現代人の科学に対する依存度がどんどんと高まっている中で、いつか医療がこの世から病気を根絶し不老不死を実現できると人々が信じ、我々医療者もそれを良かれと考え目指すのは、人間の傲慢以外のなにものでもないと思います。

人が死ぬことはもちろん短期的には寂しいことですが、しかし悲しむべきことではないのです。

人はより良く生きるためにも、死ななければならないのです。
より良く生きるために、人はみな平等に死ぬことが許されているのです。

誤解を避けるために念のため断っておきますが、ここでの「死」に自殺は含みません。もちろん不治の病に侵され上での安楽死や尊厳死といった死の形に関しては難しい議論がつきまといますが(私個人はこれも元気なうちからきちんと向き合い意思が固まっているならば躊躇するべきではないと考えています)、健康なうちから自分の意思で自分の身体に傷をつけて命を終わらせる行為は決して許されないと考えています。

医者の仕事では、もうすでにかなり人生の終わりにさしかかっている方々と向き合います。短い時間ではありますが、それでもその方々の人生を集約したよりよいフィナーレを実現する手助けができるようにと考えていますが、その一方で、もっと早くから、より若くより元気な段階から、きちんと死と向き合いながら生きることの大切さをもっと伝えられたらとも思っています。

そのために、医学研究を通じて今の寿命延長至上主義の医療の哲学を根本から覆すようなパラダイムシフトを起こせないかを模索するとともに、様々な宗教も学び自分なりの死生観を堅持しそれを発信することで、人の生と死の両方に寄り添うような医療の形を模索していきたいと思っています。

noteでは、日々の診療や研究の傍らで思ったこと、宗教的なこと、医学的なこと、もろもろ記して自分の考えの整理にもつなげられたらと思っています。


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