理性と感覚のはざまで,石橋を叩き割る。
同じ時間,同じ場所で,同じことをしているときこそ,考えの違いが浮き彫りになる。
私は思考が飛びすぎる傾向にある。あるかどうかもわからない裏を読んでいたり,その行動の意味を考えたり。そこにあるものをそのままに,ただそのままに受け取ることは,なかなかない。必要以上に,何かを考えている。そこにある事実を理性で解釈しようとする。
台風一過の気持ちのいい日に,木影でモルックという北欧の遊びに興じていた。
2人でチームを組んで,2チームで対抗戦。4人の誰もが初めて取り組むモルックという遊びである。正直,適切なルールで取り組めていたのかはわからないが,楽しかったからよいのだと思う。
それぞれのチームの戦術は違っていた。
私がいるチームは,理性的に取り組もうとする。先々を読みながら,だからココを狙おうとか,こういう結果になれば次はこうするとか。
相手チームは,感覚的に取り組もうとする。とりあえず,やってみようとか,決して可能性は高くはないけれど,うまくいけば大逆転を狙ってみようとか。初心者には難しすぎる狙いに,全然うまくいかないのだけれど。
5戦する中で,最初は私のチームが勝つのである。初心者なりに,身の丈にあった戦術なので,着実に堅実に勝利に向かっていく。3戦目には相手チームが初めての勝利を収めた。3戦目になって,相手チームの無謀とも思えた狙いが当たるようになってきたのである。
さて,私は面白くない。多分,私とチームを組んでいた人も。
感覚的で無謀とも思える戦術をしていたチームに,負けることにプライドが許さないのである。計画的に着実に積み上げてきたものを,どうして感覚に頼っているチームに崩されなければならないのか,と。
たかだか遊びである。
しかし,普段の考え方があらわになったようで,なんだか一人,自分の考え方と正面から向き合ったかのような感覚になったのである。
私は計画性のある方である。というよりも,計画にこだわりすぎるあまりに,石橋を叩き割るタイプである。慎重を期すあまり,石橋を叩き過ぎた結果,渡れなくなってしまうのだ。感覚的に過ごせる人が正直うらやましい。とりあえず実行してみる,うまくいったらそれでいいし,うまくいかなかったら改善していけばいい。兎にも角にも一度試してみて,自分に合う方法を探していく。自分に合う方法はどれだけ検索しても出てこない。自分で試してみて,自分に合う方法を探していくしかない。
計画は自分の想像の及ぶ範囲でしか立てることができない。成長のためには,えいやと思い切って感覚的に進む場面が必要なのだと思う。そうすることで,自分の想像していなかった長所が見つかったり,人に出会えたり。今まで停滞していたものが進むとき,それは自分の想像を超えた感覚的な何かに依存しているとすら思うのである。えいやとする勇気を持てないと,いつまで経っても停滞したままではないだろうか。自分の手の届く範囲だけで過ごし,結果,大成しないのではないだろうか。
たかだか遊びなのだけれど。
気持ちのいい木影で遊びながら,理性と感覚のはざまに思いを馳せたのである。
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