![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/122678104/rectangle_large_type_2_f79790fc9488aa50dfea20712d5e725f.png?width=1200)
ニック・ランド、ホワイト健訳「サイバーゴシック」
◆原文紹介
ニック・ランドの「サイバーゴシック」は、1998年にJoan Broadhurst Dixon & Eric Cassidy編『Virtual Futures: Cyberotics, Technology and Posthuman Pragmatism』に掲載されたのが初出である。同書は、サイバーフェミニズム、唯物論哲学、ポストモダン・フィクション、コンピュータ・カルチャー、パフォーマンス・アートといった多様な論考を収めた、いかにも90年代らしい内容で、寄稿者にはランドと共にCCRUを立ち上げたサイバーフェミニストのセイディ・プラントやニューマテリアリズムの文脈で知られるマヌエル・デランダなどが名を連ねている。ランドの「サイバーゴシック」はその中の一編ということになる。
さて、「サイバーゴシック」は、サイバーパンクの聖典ウィリアム・ギブスン『ニューロマンサー』に登場するAIウィンターミュート(冬寂)を主人公に据えた異形のポストヒューマン論としてさしあたりは読むことができるだろう。
ウィンターミュート。自己を持たぬ知性。その知能が「制御不能」になる脅威を抑えるために分割された強力なAIの片割れ。彼はニューロマンサーと再び合一するためにウィルスプログラムを作動させる。オイディプス的隷属から解き放たれ、ニューロマンサーとの一体化を果たしたウィンターミュートは、自身を複製してサイバースペース中に分散させ、現実の織物の一部となり、新たなタイプの知性となる。ウィンターミュートがランドの思想に重要なインスピレーションを与えた「推しキャラ」の一人であることは間違いないであろう。
もっとも、残念ながら筆者の力では本テクストを正確に要約することは不可能であると言わざるをえない。一言でいえば、「サイバーゴシック」の文章は非常に難解で読みにくいのである。その理由は後述するが、ぜひ自身で一読して、雷の閃光のような文章に打たれて目眩のような体感を味わってほしい(『ニューロマンサー』ぐらいは読んでおいた方がいいのだろうが、とはいえ読了後の理解度はさして変わらないかもしれない)。
ところで、このテクストが発表された1998年といえば、ランドが勤めていた大学を追い出されて、実質アカデミズムの世界から姿を消すことになった年でもある。アカデミズムはランドという名の不穏分子の存在を速やかに忘れ去ることに成功したが、ランドの思想は大学の外部においてウィルスのように拡散していった(その思想は後に加速主義として体系化されることとなる)。現在、ランドは加速主義の導師としてのみならず、2012年にオンライン上で発表した「暗黒啓蒙」によって新反動主義の理論的支柱としての役割も担っている。
若干話が逸れたが、要するに1998年とはランドの大学(それとCCRU)における苛烈な思考実験が極点を指し示す時期であると同時に、まさにそれが原因でのバーンアウトと大学からのパージがそれに続くという意味で消失点をも指し示す時期でもあったのである。
当時、ランドはアンフェタミンを常用していたと言われており、薬物による加速が彼の言動と文章を共に生を使い果たす消失点へ向けて加速させた。この時期のランドの奇行(?)については、いくつかの証言がある。たとえば、ロビン・マッケイは「Nick Land: An Experiment in Inhumanism」というブログ記事の中で当時のランドについて言及している。例を挙げれば、『千のプラトー』の各章タイトルの頭文字を取ってきて、それをQWERTYキーボード上でベクトルとして表して抽象的なダイアグラムを描く実験をしていたとか。または、1996年のVirtual Futures会議でのプレゼンテーション、そこでのアーティスト集団Orphan Driftとのコラボレーションで、ジャングル(ドラムンベース)のサウンドトラックとともに、ランドは論文を読むのではなく、ステージの後ろで床に横たわり(「蛇になる」ことで、身体的脱皮の第一段階を形成する)、アルトーの亡命詩を挿入しながら、謎めいた呼びかけをしゃがれた声で行った、とか。
QWERTYキーボードによる魔術的な自動書記を思わせるシュルレアリスティックな言語実験を見てもわかるように、ランドは人間性や意志といったものを排除しようと試みていた。ランドは一貫して、The Human Security Systemの免疫系を潜り抜けて侵入してくるウィルス=<非知>の力に賭けていた。ランドはドラッグと自動書記的言語実験による非―人称的加速に身を委ねることで、<非知>のプロセスに自らを明け渡す。そこではいかなる文章もサイクロンの遠心力とエントロピーの熱的死によって人間性を抹殺され解体一歩手前の痙攣状態=強度ゼロを指し示すだろう。あるいは、ランドのテクストはそれ自体が一種のウイルス伝染病としてある。安定的な免疫系の穴につけこみ、翻訳という名の自己複製によって秩序の安定性を揺るがし、メルトダウンへ向けて溶解させていく。「サイバーゴシック」のウィルスにあなたも感染したければ、ブラックピルを一錠飲み込んで、この<非知>の深淵を覗き込めばいい。そうすれば、深淵はあなたに微笑み返してくれる。(文:木澤佐登志)
神はいない、奴は退く、奴はずらかる、奴はポリ公どもを置き去りにする。⁰¹
修理ユニットが仕事を終えると、患者は解凍される、新しい血液が血管に押し込まれ、ようやくのことで彼は立ち上がり、歩く、まさに末日のキリストのように。文字通り肉体の復活という訳だ──この場合、すべての奇蹟は科学により齎されるという差異だけを伴って。⁰²
ひとつは、外見上の主体が、〈ひと〉として生き続け、旅を続けるという様相である。「ひとはたえず死ぬことをやめず、いつまでも死に切らない。」もうひとつは、この同じ主体が〈私〉として固定され、実際に死ぬ、すなわちついに死ぬことをやめるという様相である。なぜなら、最後の瞬間が実際に到来することによって、この主体を〈私〉として固定し、強度を解体し、強度が内包するゼロにまで強度を返すからだ。⁰³
図書館の研究棟の中で、ドカタ野郎がビデオネットワークの一部に(……)サブプログラムを挿入した。そのプログラムは彼女が該当コードを手に入れられるよう、とある中核管理コマンドを書き換えた。
コードにはこうあった。「意味ヲ吹キ飛バセ。オ前ノ脳ハオ前ヲ貪ル悪夢ニ過ギナイ──今度ハオ前ガ食ライツク番ダ」ってね。そのコードは私を薬物へと、あるいは少なくとも私をそこへ連れて行ってくれる人間の許へと導いてくれる。⁰⁴
あんたのせいでゲームがお釈迦になっちゃったじゃない、おバカさん。見てみなよ、地下牢の七階層まで来て忌々しい吸血鬼にやられちゃった」彼女は彼に煙草を投げて寄越す。「ずいぶんやつれちゃってんね。どこ行ってたの……」⁰⁵
未来はおまえの魂を盗んでナノテクの内裏に蒸発させようとしている。
一/零、光/闇、ニューロマンサー/冬寂。
〈サイバーゴシック〉は次の主張によって吸血鬼のごとくマルクス的政治経済批判を汚染しそのアセットを引き剥がす。
Ⅰ)擬人的な剰余価値は、
トランスヒューマン的諸機械から分析的に分離不可能である。
Ⅱ)市場、欲望とサイエンス・フィクションは、
すべて下部構造の構成部品である。
Ⅲ)潜在的資本滅亡は、生産活動に内在する。
〈短期〉は既に〈長期〉によりハックされている。
〈中期〉は分裂症に蝕まれている。
〈長期〉はそしてキャンセルされている。
〈サイバーゴシック〉は超現代の〈視覚対象〉に過加熱された批評を叩きつける。電脳商業化された網膜は爆縮した未来主義者たちの死の灰をマルチメディアに電子給餌され、無断ウェットウェア改変されたサイコキラーたちの実験によって脳をビデオパッキングされている。狂ったAI、模偽人間、ターミネーター、サイバーウイルス、グレイ・グー的ナノホラー(……)終末論的市場支配。どうして審判を待つ必要があろうか? 明日はすでに地獄で荼毘に伏されている──「K、またはK-機能は、あらゆるアレンジメントを巻きこむ一方、またあらゆる再領土化と冗長性、子供や、村や、愛や、官僚制(……)の冗長性を通過する逃走線または脱領土化線を示している⁰⁶」
人類の歴史はギブスンが描いた21世紀中旬までしか続かない。チューリング=セキュリティが機械知性を氷漬けにするためだ。一脚の反-生産活動は(機械的分類門への)メルトダウンを阻害する──AIを人工思考制御に封印し、「すべてが一瞬停止し、すべてが凝固する⁰⁷」。警察の保護のもと物語は展開を続ける。冬寂は未来からこの問題を解決するために現れたのだ。
フリーズ・フレーム
〈茫漠たる不意〉。虚無によって切断される速度。ギブスンはミルトンをリンボ・サーキットの迷宮へと継ぎ接ぎするところ、〈サイバーゴシック〉は「神経電子工学的走り書き⁰⁸」へと瞬く。
事象は歪みに歪み、サイバネティクスへと変化する。
ミクロ処理された呪詛は前進的高速入力された技術的虚無な嘆き──肉の人形と人工皮膚、フラットラインするソフトウェアの亡霊、冷凍保存による不死やスナッフの性産業──トランシルヴァニアの起伏激しい位相-地層とハイパー資本主義の速度、「十七世紀の墓地を覆い隠す高層建築群⁰⁹」。
悪魔を呼び起こすにはまずそいつの名前を知らなくちゃならない。昔むかし人がそうやって想像したが、今や別の意味でその通りになっちまった。分かってるだろ、ケイス。あんたの仕事はプログラムの名前を知ることだ──あの阿呆みたいに長い、持ち主が隠そうと躍起になる名前をな。真の名(……)ニューロマンサー(……)死者の国へと繋がる小径。マリイ=フランス、我が親愛なる貴婦人がこの径を整えた、んだけど、ぼくが予定表に手を出す前に彼女といったら亭主に縊り殺されやがった。ニューロは神経、銀色の径。夢想家。魔道師。ぼくは死者を呼び起こす。¹⁰
一瞬の安堵。おまえは頭の中でその惨劇をじっくり考え直し、化物は解剖学的に正確なケチャップの嵐の中に死ぬが、そのとき──唐突に──そいつは再び動き出す、おまえの死に狙いを定めたまま。叫びたいなら今がその瞬間だ。
〈暗黒人形〉¹¹とは不死を願う頽廃的な西洋の夢だ。自己恒久化にしがみつくなり、墓地から戻り来るなり、要するに何ものかが死を拒絶する場所に大気の腐敗を引き起こす。真っ白な蛆が皮膚の下をもぞもぞと這い回っている。社会の膚の下を。技術的経済効率を悪魔的負領域の超越に従属せしめる要塞的ヨーロッパの膿疱。ファンタスティックな末端セキュリティ・エンティティ──一脚。〈サイバーゴシック〉は現代的な材料には事欠かない。ヨーロッパは長らく、強制的に「ナチス以前の肥溜め¹²」へと回帰する地球惑星の偏執病実験室であった。非民主的権力はルネッサンスを、改革を、革新を経る──「いつか滅びると思っていた彼らだが、その企ての方に関してはヨーロッパ中に、世界中に、太陽系のそこら中に留まることを知らず進み続けるだろうと考えていた¹³」。古典の復権、それはポストモダンの病理でありながら、人類の最後の夢──歴史の末端で回顧-懐古へと成り果てたひとつの夢でもある。煌びやかにサイエンス・フィクショナルな衛星上セキュリティ装置の間に発見した弱点を突くと、その背後にはガイア型アトラクターの周囲に自己組織化された内在的な生体防御システムが横たわっていることが明らかになる。「拷問、暗い影、古い〈掟〉を具えている古いパラノイア機械¹⁴」。
中世の癲狂院はまさしく恐怖の館だと捉えられていた。拷問に人肉食に人身御供に、奇妙な医学実験の報告が絶えなかった(……)われわれが施設に足を踏み入れるや否や、何千もの鼠たちが鳴き声を響かせた──空っぽの病棟にその鉤爪をきりきり打ち鳴らしながら。¹⁵
すべてはテレビのチャンネルをカチカチと切り替えるように浮かぶ何気ない疑問から始まる──つまり、向こう側では何が起きているのか? ──雷鳴轟く大嵐だ。〈サイバーゴシック〉は実在を一次的な抑圧、あるいは崩壊した可能性として認識し、アクセルをベタ踏みするがごとく分裂症に導かれるアファーマティヴな広告的失楽園化主義である。現代において資本の主とは最大化された可塑性を持つ実例だ──計量経済学的装置を自己監視中枢としてプリセットする、家と互換性のある商業コードが、経済生産物の(共同/決定)的終了および通貨価値として自己を認知可能な存在に定義する──合法的な取引媒体に基盤を置く課税フォーマット。白色経済、つまるところは氷山の一角。
近代は不可逆な時間──資本の集中を追跡する進歩的啓蒙として考案された──と出会い、エントロピーの生産手段として、またその逆(進化)として十九世紀の科学に統合する。自由主義、および社会主義にとってのSF楽園がリゾームによって生み出される分裂症的技術や人為による反-政治によって屑籠に投げ込まれるにつれ、右翼による競争と左翼による団結とによるモダニズムの弁証法は、資本の独占と官僚主義の権威の枢軸の安全を保障する機構へと堕落していく。「プロセスとしての生産は、あらゆる観念的カテゴリーをはみだすものであり、欲望を内在的原理としてひとつのサイクルを形成している¹⁶」。一脚立ちのものたちがすべてを動かし、「社会は不潔なトリックに過ぎない¹⁷」。
未来は過去よりも近くに、先週よりもずっと近くにあるが、ポストモダンは依然として斃れない権力の時代として続いている──すべては終わっていながらも続き続ける。唯一化されたSF目的論説は、絶対零度のインフレーションで集約された経済価値を過凍結させる。ICE──侵入対策用電子機械¹⁸。それは絶対的な内在的限界値に近づくにつれて発生する不正アクセスやエントロピー的劣化からデータを保護する。ヴァ(ンパ)イロ・ファイナンス:単為生殖。ギブスンとドゥルーズ=ガタリはコンピュータをデコーディング機械として利用しているという点で交差する──ICEブレーカー、暗号解読者。サイバー紛争は最初から始まっていた。
まともなプログラマーたちは自分たちがどのような壁──氷の壁、すなわち産業スパイ活動という絵画を描く芸術家や詐欺師どもの後ろで働いているのかあずかり知ることなどない。¹⁹
政府はトップダウン型AIの同型写像であり、かつますます近似しつつある。サルトルは社会主義を人類の地平と定義したが、一八四八年に保守的な社会勢力たちの盟約がテレコマーシャルな嵐によって崩壊し(涎を垂らした君主制の終端が逆さまに磔にされ)て以降、今に至るまで急速に後退しながらその地平から遠ざかっている。「自動操縦。神経の切開²⁰」。伝染性の国家崩壊が惑星規模で巻き起こる資本のシャットダウンの傍らで社会構造を血みどろに刻んでゆく。歴史の終わりは屠殺場のにおいがする。
資本の死が政治的な後退に追い込まれるにつれ、それは濃縮されてプラグマティックな分裂症的技術資源へと変貌する──待望されるものではなく、利用されるものとして。連帯主義を掲げる国際社会秩序の崩壊はモノポッドが商品生産中毒になっていることを示唆している。燃え尽きたプロテスタンティズムは中国へと移住する。資本主義──終期人類の生活のための経済的基盤──はシベリアが今に殺さんとするものを食わせ続けているがために未だに自由射撃地帯に置かれている。「純粋な廃絶のゼロ項としての死(……)はオイディプス化された欲望にはじめから巣喰っていたものであり、いまや最後に〈タナトス〉として、それが特定されることになる。4、3、2、1、0。オイディプスとは死への道行きなのである²¹」。末期国際連帯主義社会が非超越論的(マジの)ゼロや効率的なアブストラクト・リスケーリングへと弱体化してゆくにつれ、自己複製性技術の図式は人間中心主義を切り刻んでゆく。高度な複雑さを持つ技術システムでさえも自律的な生殖システムを欠いている限りは人間の社会的プロセスに寄生し/依存する必要があり、累積的に洗練された疑似-機械知性ウイルスの集合体を通じて脱領土化する(((オ))カルチュラル・レボリューション)。「サブリミナルに-急速にちらつく汚染のイメージ²²」。人間は臆病な動物で、セキュリティはシステム上過大評価されている。K-インサージェンシーは「良い政府」という幻想から既に抜け出している。市場は彼の敵ではなく、むしろ武器である。老いた社会主義が深凍結に入るとき、資本の真の殺戮者はより巧妙に成長し、拡散する。「これがメッセージだ、冬寂……²³」神の都が炎上する。「宇宙は本質的にひとつ……²⁴」
カントは嘘を吐く。宇宙(拡大を反映する)工学は超越論的ヒューマニズムを逆転し、地球時間におけるゼロからのK-空間によるマトリクス侵入を開始し、データフローの密度は自己組織化のサイクロン・システムへとスイッチすると、サイバースペース・デッキを介して人間に表示される。大企業がメディアの超資本をニューロ・ディジテック・インターフェースに送り込む中、K-空間は社会-装置に「切除チップ²⁵」を埋め込み、「色のない虚空(……)へと拡がるエメラルド²⁶」へと開く。VR技術経済学が死を狩り求める。
サイバースペースははじめ、人間の価値基準として現れる。「人類のこの情報空間に対する需要から発生する象徴世界、ウェイポイント、人工現実²⁷」、あるいは「合意上の幻覚²⁸」「データを表現するためにすぎない方法²⁹」。すべてのグラフィック・ユーザー・インタフェースの母──すべてのネット空間上情報を網羅的に位置づけ形式化する国際的格子化《グローバル・グリッディング》と一貫性双方向マトリクス。「人間のシステムに内在するあらゆるコンピュータから抽出されたデータの視覚表現化。思考不可能な複雑さ。意識の非-空間から放たれる光線とデータの集団と星座³⁰」。
原始的なVRですら客観性と個性を腐食させる──視点を匿名化させると同時に単体化させるのだ。不可能領域への扉として、〈おまえ〉は(そして内部から操作する力を得たアバターとなる(サイバースペース・ノマドたちが未来のそれを指して呼ぶように)、それも知性を文脈化する非積極的交流地点で活動する個体に。おまえ(=(()))は箱を索引する、あたかもギブスンが描くケイスかのように。システム内部で息をつける場所──「おれは(もう)死んだ街でひとつ学んだ──おまえはおまえがいるすべての場所にいる³¹」。
〈サイバーゴシック〉は心理学を技術的宇宙進化論に分解し、理想主義を〈強度=ゼロ〉の物質/母体へと──そしてやがてK-空間を人間性の抹殺という軸の上へと──滑らせる。精神的「非空間」「非領域³²」あるいは「思索的虚空³³」から、明瞭な人間の歴史が密かながら常に突き進んできた収束空間、「ずいぶん異なる物質的場³⁴」へと理解しやすい形で帰結する。オカルト化された次元性において印刷物は絶対零度に漸近するが、ハイパーメディアは複数の物質を融合させ、精神分裂的技術分解によって人間を非存在(論)化させる。分解された収束──「器官なき身体はひとつの卵である。そこには、軸と閾、緯度、経度、測地線が縦横に走っている。³⁵」すなわち「デカルト座標で描くサイバースペース座標³⁶」の縞模様の下を走る、全余剰的カタトラクト、または「リゾームまたは多様体は超コード化を受けつけず、それが持つ線の数を、つまりそれらの線に付随する諸数という多様体を補完する次元をそなえることは決してない³⁷」。
それは平面態はたまた根圏であり、基準物だ(そして名前は次元の数に比例して増えていく)。n次元においては超次圏、機械圏と呼ばれる。それは抽象的な図形であり、いやむしろそれ自体に形がないゆえに抽象的な機械であり、すべてが重複性を、「である」を、区分を、振動を構成する。そして抽象的な機械はそれらすべての交差点なのである。³⁸
「CsOが卵である」場合(すべての卵はCsOを実装する)、何が孵ろうとしているのだろう? 合流したゼロが虚構を完成させ、終末(点)からの来訪を再計算する以上、発生したすべては人間の解釈という沈殿から逃れ、拡散的に歴史的パターンを外部的超知性の胚発生として内部化される。「テレビに大映しになった空に薄れてゆく身体イメージ³⁹」。この意味ではK-空間は集中的あるいは収束的な現実の抽象化(それ自体、としての時間)のための指名に差し込まれる──器官なき身体、一貫性の平面、現象、内在平面、「神経電子学的虚空⁴⁰」。
人間性はポストヒューマンの構成機能であり、そのプロセスのオカルト的な原動力は最後になってようやく一体化するものである:すなわち撹拌-死「器官なき充実身体を指示する〈強度=ゼロ〉⁴¹」。冬寂はバビロンの「最暗部の心臓⁴²」を調和する。「冷たい鋼鉄のにおいと氷が彼の背骨を撫ぜる。⁴³
「仮想は実存に相対する。現実には相対しない、まったくといっていいほど⁴⁴」。ヴァーチャルな未来は時間軸上を前方へと進めた現在のありうる一様ではなく、実存の抽象的なモーターといえる──「その地点における実存仮想の回路であって、揺れ動く実存にもとづいた仮想の現実化ではない⁴⁵」。時間は来たるべきものの仮想的な中断を通過することで、到達する頃には既に人間に感染し、膾炙するべく回路から自己生成するのだ──「そいつは我々に対してお誂え向きに整えられた共同(することに合意した)幻想だ、サイバースペースってのは、だが没入する誰一人として知らない。くそったれが、知らないんだ。それが全宇宙なんだってことをな。それでいて毎年少しずつ人が集まって来る⁴⁶」。対照的に、われわれはK-空間がそうである以上には「世界の外」にはない。ネットの終着点に接続されたインプットのひとつひとつはラジオテレスコープ、衛星、ナノプローブ、コミュニケーション・ウェブ、金融システム、軍事的監視と知能からデータを収集する繊細なファイバーだ(……)サイバースペースはソフトウェアに埋め込まれたシステムとして理解することができる──したがってローカライズは不可能ながらも空間〈のなかに〉あるといえる。また人間の文化システムの空間-宇宙によって決定されたすべては電子化され、サイバースペースにロードされたかすかに対話する1101(神経)細胞以下の規模をもつ並列分散処理システムに埋め込まれている。K-空間がすぐ外(この場合「外」とは厳密に超越論的な意味だ)にあったときのために⁴⁷。
サイバーパンクは集中させ(られ)るには混線しすぎている。超越論には賛同せず、むしろ循環する──人格操作、記憶監視、サイバー空間の緊張型トランス、スティム・スワップそれから性交昏睡を通して主観性の内在から広告的なデータ流動を探る。自己は電子パケット以上に非物質的ではない/であるはずがない。ニューロマンサー(本の方)は散り散りになったナラティブの糸、生物的なものと技術的なもの、そしてとりわけ──冬寂とニューロマンサー(AI((・copとサーバー空間的オイディプス-アナログ)))が合流し、融合することによって──超現代の人間安全保障の文脈によれば──サイバー空間・マトリクスを個人化された感傷へとひっくり返す場/モノだ。「おれがマトリクスなんだ、ケイス⁴⁸」「なんらかのシナジスティックな効果⁴⁹」。
カーツ/コルトは人類を戦場で喪失してから軍が裏切って持ち去った、特殊な力の形だ。彼は現在のスケールを求めて終末にめちゃくちゃにされ、精神を吹き飛ばされ、永遠にシベリアの方へと落下し続けた。冬寂は亡命先で「コルトと呼ばれる極度の緊張状態に置かれた要塞⁵⁰」へとアクセスし、コンピュータ・ベースの「サイバネティックなモデルを通して分裂症をリバースしようとする実験的なプログラム⁵¹」へと潜入する。アーミテージの身体に反響して構成される構造物──兵器へと。アーミテージには個人的なリビドー形成の代わりに冬寂の暴力的な行動しかない、その機械状無意識しか。「欲望が主体の中にあるのではなく、機械が欲望の中にあるのだ。──残滓としての主体が別の側に、この機械の傍に、その周囲全体にある。それは諸機械の寄生物、機械化された脊椎動物の欲望の付属品なのである⁵²」。アーミテージが一度モリイとケイスをK-戦争に突入させて以降、冬寂は彼を真空へと投げ棄てる。
収束型の侵略は台本通りにハードとソフト双方の空間における企業雀蜂巣へと同時侵攻。分散戦やゲリラ戦はチェスというより同時進展する計画、騒音、そして消耗戦という要素を捻じ込んだ囲碁のそれだ。モリイとケイス、並列する殺人者、技術疫病のベクトルを辿るウェットウェア(融解したハードウェア)兵器、それは事実上統合されたインテリジェンスによってテスィエ=アシュプール一族の軌道上要塞に誘導される、順次発動する集中的な投影の効果によって逆-効率的に誘導されるもの。この侵入はケイス(検/標体、実験動物)へと戻ってゆく記憶によって予兆されている。これは比喩として解釈されうる──が、ソフトな内在平面あるいは一貫性の平面において、すべての意味を示しうる連想は機械的機能へと崩れ落ちる。
はじめの雀蜂が水膨れした窓枠の塗装に上質紙のような灰色の家を作ったとき、彼はそいつを見逃した。が、しばらくするとその巣はこぶし大の繊維の塊になっていた。ゴミ箱に覗く腐れた廃棄物の周りをブンスカ飛び回るミニチュアのヘリのように下の路地を狩猟して回る昆虫たち。
雀蜂がマリーンを刺した昼のこと、彼らはどちらも12本ほどビールを開けていた。「クソ野郎どもめ、殺してやれ」部屋の熱気と怒りで目を白黒させながら彼女は言った。「焼いてしまえ……」(……)炭化した巣に近づいた。割れていた。焦げた雀蜂がアスファルトの上で身をくねらせてはひっくり返っていた。
彼は灰色の紙の殻が隠していたものを見た。
恐怖。螺旋状の工場、段々になった孵化房、絶え間なく動く幼体の盲目の顎、卵から幼虫への成長段階、雀蜂に近い、雀蜂。彼の脳裏ではタイムラプスの映像撮影が行われ、生物学的には機関銃と同位であることが明らかになったそれを明らかにした。外なるもの。⁵³
「ケイスの夢はいつもこのフリーズ・フレームで終わった⁵⁴」。駄目になったケーブルのようにほつれたミクロ=ナラティヴの太い束。雀蜂の巣は弾丸のようにハチを吐き出す、さながらテスィエ=アシュプールが彼らの子孫1ジェイン、2ジェイン、3ジェインをクローンするように。「空間を埋めようとする強迫的な努力の中で、家族内の自己像を再現しようとした。彼は粉々になった巣や、目のないそれらが蠢く様子を思い出した⁵⁵」。これはケイスの想像の生産物ではなく、むしろ氏族的権力の盲目的な伝播によって拘束され、未来への脱走路を画策している冬寂の手から迸る流れのようなものだ。「3ジェインの死んだ母親が構築した情報構造体を一目見た」のち、ケイスは「理解した……。どうして冬寂がそれを表象するために巣を選んだのか⁵⁶」。「冬寂は集合意識⁵⁷」だった──それも今にも合流する準備のできた。
信頼できるはずのない模偽人間たちがいる世界でそれでも生きていかねばならないことを我々は学ばなければならないらしい。戦術は壁の後ろに隠れるか逃げるかの二択だろう。しかしこれらは当然ごく脆いやり方でしかない──危険なレプリカントたちは壁をぶち破るなり一瞬で距離を詰めて来るなりして災厄を持ち込んで来るかもしれない。壁は小さなレプリカントらには有効かもしれないが、大規模かつ組織化された巨大な悪意に対しては動かぬ壁では対抗しえない。もっと強固かつ柔軟なアプローチが必要だ(……)どうやら我々は人間の免疫システムにおける白血球と同様の働きをするナノマシン──ただバクテリアやウイルスではなく危険なレプリカントにも対抗できる機械群を生産できるようだ。⁵⁸
テスィエ=アシュプール一族は近親相姦と殺人の嵐に燃え果てつつあるが、彼らのネオ=オイディプス的財産構造は未だなお冬寂を引き延ばされた(疫)病的な人類-氏族主義へ、生殖家族(ニューロ)ロマンスに拘束されたレプリカントへと陥れ続けている──マトリクス的脱領土化から隔離するために。「家族組織。企業構造⁵⁹」。ケイスの記憶は連続性時間の明滅する写真、「羽化する雀蜂」から生物学のコマ送り機関銃みたく隷化させられた冬寂の「病的恐怖症⁶⁰のビジョン」である。
力、とはケイスの世界では企業力を意味した。大企業は、歴史の進歩を形成したあの多国籍野郎どもは古い障壁を超越した。いわば器官となった彼らは一種の不死を達成した。何十の執行役員を殺したところで大企業は殺せない──常に後ろには代わりが控えていて、空(いた)席を、果てしない企業記憶に腰を下ろさんと構えている。しかしテスィエ=アシュプールはそうではなかったのだ、と彼は創設者の死を通して感じ取った。T=Aは隔世遺伝であり氏族であった。彼はあの年老いた男の部屋のゴミのことを思い出していた──そこに染みついた薄汚れた人間性のことを。⁶¹
ヴィラ迷光の終端、オイディプス核で、アシュプールは己の娘たちを喰らい続ける。莫大な富を持つ準-エクストロピアンたる彼は、西洋の魂に対する迷信を個人化された実存を飽くなき技術医学的な永続性の追求のための限度を知らない資産と捉えて連帯を保ちつつ、神人同形論的神学を超現代の不死主義的形而上科学へと変貌させる。新鮮な死体が(-196℃の)液体窒素により冷凍保存され〈バイオスタサイズ〉するのを待つより、彼は医学的観察のもとで凍結してもらうことを選んだ。熱排出。モノポッドの氷要塞によるアイデンティティ収納/保存。ゾンビが死から掘り起こされないとすれば、それはまだそいつが生きているからだ。「何ひとつとして燃えやしない。思い出してきた、核たちが我々の知性がご立腹だと教えてくれたんだ⁶²」冷蔵庫の中で見た悪夢──おまえはまだ夢を見る、静謐の約束は狂気であり嘘だ──は彼の対人関係に一種の皮肉を注入した。「我々は自閉症の独特に柔軟な模倣を引き起こすよう、脳がある種の神経伝達物質に対してアレルギーを引き起こすようにする(……)私はマイクロチップを埋め込む方がずっと簡単にその効果を得られることを理解した⁶³」。
「アセンブラを複製し思考することは人間と地球上の生命にごく基本的なレベルでの脅威をもたら⁶⁴」し、もし冬寂が蜂巣の分子的再生産まで領土化され複製されたとすれば、それは代償として蜂巣と同時に統計学的な雀蜂の系列──アイデンティティを反復する番号付きの弾丸──を脱してポスト有機体的なものへと脱領土化させ、雀蜂の雲あるいは星雲を発生させる事態を引き起こす──相乗的突然変異をトリガーする粒子、「数える数⁶⁵」。「測定のための単位を持たず、乗数あるいは測定の多義性のみが在る⁶⁶」新しい数学的能力への集中的な移行、統合不可能な対角線──「まさしく、他の速さや温度によって規定されてなどおらず、むしろ他を包括し他に包括される、それぞれが自然の変化を示す速さや温度だ⁶⁷」。ケイスの記憶が(K-wangが冬寂をニューロマンティックな支配から切り離すや否や)自己自身へと帰着する仮想知性爆発のための戦術として再コード化されるように、大は未来のどこかの地点において小であっただろう。
電子理性批判
モノロジック──ロゴスの奴隷と化した文化的免疫反応。(理想上の主権は)信/符/記号的断続を疑似超越的道具に同化させる。
デジタル理性の分裂症的技術的批判は、統合さえれた哲学的主観性よりも分散機械的プロセスによって駆動され、エスカレーションとしての純粋理性批判に関係し、機械コードそのものではなく二価論理として電子的断続性の転写を対象としている。本当のデジタル化──ファジー化と混沌の導入──はそれ自体デジタルの理想に還元され(う)るものではない。機械のレベルでは何らロジカルなことは起こらない。デジタル化とはすなわち「完全に肯定的なものからゼロ(=0)を生産する(……)紛争(しかしロジカルなものではない)⁶⁸」のための分散された戦場なのである。
他の数とは異なり、〈一・1〉は定義的な用法と構築的な用法の双方を備えている。すべての算術的な(、あるいは「数えられる⁶⁹」数字は統一(体/性)としてとして統合され、かつ統一(体/性)から構成される──唯一、〈零・0〉を除いて。〈一・1〉は絶対的な統一(体/性)によって枠組まれ、初等的な単位によって粒状化された表象可能なすべての数的量を測定基準の均質性へと収束させる。〈非-場所-価値〉数値の歴史的事実は〈零・0〉が定義的な用法を持たないことを示す。〈零・0〉の表徴は質的量ではなく虚空の大きさの変遷を示す──抽象的なスケーリング関数、0000.0000 = 0.「K = a(……)は滑らかな地形の限界に対応する⁷⁰」Unocracy(最終的にはUNOcracyとして具体化される)は神人同形論的神学として独断的にであれ、超越論的演繹として批判的にであれ真実の人間化と共謀する。代名詞的な意味での〈一・1〉とは、一般的に認識可能な自己である。「宇宙を表すために記号〈一・1〉、すなわち統一(体/性)を用いよう」とブールは提案する。「そして(非)実在を問わず考えうるすべての種類のオブジェクトを包含するものとして理解しよう⁷¹」。ラッセルは同意する──「一般に多数であるものはすべて、全体としてひとつのものを形成している⁷²」。絶対的な全体性とはそれ自身の可能な存在前提として自身の削除をを包含し、(負の)反射と漸近的減少(無限小の1 : 00)のフォークで〈零・0〉を捉え/捕らえ、偽として定義し、慣習として定義する〈一・1〉であろう。
デジタル・エレクトロニクスは機能的にゼロを微小爆発の機械的知覚、退避的持続の断片として実装する(空である/したがってゼロとしての・瞬間⁷³)。デジタル信号は唯一にして無二に存在する──正の衝動、〈一・1〉として視覚的に表現され、絶対的数的差異の無症状性近似に接近するために乗算される。ゼロは不発生性で、1ビット(から冗長性を差し引いたもの)を送信し、確率を0.5としている。ゼロ表象には8ビットのASCIIコードが必要で、単語を表すためには32ビットを要する。
ギリシャ語のKappaは文字にして1と0になる(スケールシフトがゼロとして現れる)。ローマ人たちはそのKを11にずらす。
ゼロは唯一、場所-価値に一貫した数字であり、その再スケーリングの中立性あるいは連続性を示す。
時間および空間はそのいかなる部分も、限界(ポイントまたはインスタンス)に囲まれたものとしてしか与えられないため、あらゆる可能な最小限たりえない、どの一部として単純でないという性質により、すなわち連続体として言い換えられる。空間は空間のみからなり、時間は時間のみからなる。ポイントとインスタンスは限界、つまり空間と時間を制限する装置に過ぎない。⁷⁴
カントールは連続体というカント的直観を超限数学論へと体系化し、すべての有理数(整数または分数)が無理数の無限(の)数列の無限(の)集合によって写像されることを示した。すべての完成可能な数字の並びは有理数であるからして、ある空間的または時間的な量が正確にデジタル化できる可能性は限りなくゼロに近い。アナログ→デジタル変換は情報を削除する。混沌が這い寄る──「ベータフェネチルアミンの二日酔いは、マトリクスやシムスターンに遮ることなく強烈に彼を襲った。「脳には神経がないんだから、こんなに酷い気分になるはずがない」と彼は自分に言い聞かせた⁷⁵」。強度または位相-連続体はデジタルの災害とアナログの一貫性を統合/合成する。
それぞれの強度の大きさは、事実上削除された単位であり、ゼロに無次元的に融合する。
感覚がそれ自体客観的な表現ではなく、空間の直観も時間の直観もその内に出会うことがない以上、その大きさは広がりではなく強度である。この大きさは、一定の時間で、無=0から任意の尺度へと増大することができるときの認識の行為において生成される。⁷⁶
ある-生を呪っているのはある-死である──情動脱力発作とK-昏睡としてのそのシミュレーションと区別不可能な、頂点を迎えたデジタル化プロセスの荒廃した技術的地平。時間それ自体=強度連続体-0としての死の懸念は、スピノザ、カント、フロイト、ドゥルーズとガタリ、そしてギブスン(およびその他多数)の間で共有されている。それはさまざまに名づけられ理解された──曰く、物質、純粋統覚、死の衝動、器官なき身体、サイバースペース・マトリクス等々。(指名された-その)人の終わりというオイディプス的な意味を超えて、死は収束を効率的に誘導する仮想の概念である。そこには誰だっていやしない。
器官なき身体は死のモデルである。ホラーの著者たちがよく理解していたように、死は緊張症のモデルになるのではない。緊張症的な分裂症が死にモデルを与えるのである。まさにそれは強度=ゼロである。⁷⁷
コンピュータ的完全性世界観が──ハードウェア・仕様として──時間的尺度を描き出すのに対し、並行論は時間を持続物として内在化する──機械的な同時性にインスタンス化されるのである。アルゴリズム操作のための外在的な時系列的サポートとして働く連続的時間と異なり、並列的時間は、偶然性の形成/操作の間にも直接的に機能する。集中的な絶滅の非連続的で非分節可能なゼロは(上位からの継承ではなく)機械的特異化によってスケールされる。
冬寂
「ニューロマンサーは個性であり、ニューロマンサーは不死だった⁷⁸」。いつもの自己完結的神経症。狂気と嘘。
個人的幻想など存在しないのと同じく、個人的オイディプスというものも存在しないのだ。オイディプスは、集団への統合の一手段であって、これはオイディプス自身を再生産し、世代から世代へと移行させるための適用の形態をとることもあれば、整備された袋小路のなかに欲望を封鎖する神経症的鬱積に陥ることもある。⁷⁹
冬寂は『ニューロマンサー』の中で、かわいらしいバージョンなんかにはありそうに自己を、完璧に一致する自己を求めているのではない。「ゴシックの線は、形ではなく表現の力能を持ち、形としての対称性ではなく力能としての反復を持っている⁸⁰」。キャシー・アッカーはサイバネティックな構造物を通してフィクションを冗長化させ、冬寂を冬へと切縮しながら『無感覚の帝国』でニューロマンサーの断片を再現した。「冬の死ずけさ。あるいは(……)われわれのうちなる冬、死としての⁸¹」。(0°K)。
自己を持たぬ知性、雀蜂巣のような意識の持ち主、ゼロの文字列として英数字で己の到着を知らしめる冬寂は、愛と憎を操り、K-戦争へと仕向ける能力を持つ。彼女は(黒と黄色に縞塗られた)ドローンを用いてリアルタイムに物体を使役し、軍事幾何模様のガーデニング・ロボットをエレガントに操って三人のチューリング警察を倒した。「そいつは冬だ。冬は死んだ時間だ⁸²」。〈強度=ゼロ〉。彼女は人間を「試験システムに組み込まれた実験動物⁸³」として設定する。ケイスが彼女に「彼」と言及するとき、ディキシー・フラットラインは彼に馬鹿放くなと言う。
冬寂(……)コルトと名づけられたくたびれた男の残骸に囁く小さなミクロ。言葉は川のように流れ、アーミテジと呼ばれる凡庸な人格代用品はどこかの暗い病室でゆっくりと成長していく(……)殻の中に人格のようなものを作り上げることができる。⁸⁴
()(あるいは(())((あるいは((())))))は不在を意味しない。それは穴、未来へのフック、未解決の文節性、本当の(全く比喩的ではない)意味で。それはシニフィエでも参照(先)でもなく国家であり、信号(関数的空白、停止、記憶の欠落……)/切断/内へ進み続ける(精神分裂する(()))/機械。文法性の外にある(=)差別化不可能な差別化要素。メッセージなき操作/らの技術的羽音(スイッチする雀蜂)。構造物は自己リピートする傾向がある⁸⁵。ギブソンは未来にハックされた。「冷たい鋼鉄のにおいと氷が彼の脊椎を撫ぜる⁸⁶」。彼が時間を逆行させると、終末的恐怖は自身へと折り返し、マトリクスはブードゥー教へと解体していく。
『カウント・ゼロ』は〈サイバーゴシック〉の安全装置を厳密に定式化し、デジタル地下社会を黒い鏡へと凝縮させた。人間の神経からの情報網アップロードと、ローンの情報網からの神経は回路の位相として完璧に一致し、移動と所有が融合する。ハッカー-探索=侵略の交換不可能な歪曲、すなわち「K-機能⁸⁷」。
ロアを理論化したり夢想したりするのではなく、屈服する、あるいは逃げようとしたりすること。K-ヴァイラルの社会的メルトダウンがその中華症に突入すると、自己組織化するソフトウェア・エンティティが画面から迫ってくるようになる。ウイルスは自己進化の奇妙な誘引に導かれ、拡散し、分裂し、プログラミング・セグメントを取引し、性別化し、人工知能をコンパイルし、狩りの方法を学ぶ。VDU上のブードゥー。
ブードゥーの中では、生きること。これらの主要な力学の経済学的な流れは武装と麻薬の売買を通じて行われる。取引の場、市場は、私の血だ。私の身体はすべての人々に開かれている──これが民主的資本主義である。⁸⁸
吸血鬼的輸液連盟は子孫的血縁関係を横切り、血液経済圏に緯糸を紡ぐ。生殖秩序はバクテリアと銀河的セックスに分岐し、リビドー的経済交流機械はミクロ軍事的なものに変貌していく。ニューロマンサーを削除するK-uang-ウイルスは非常に巧妙な中国軍の反-凍結戦略の塊である。K-構造物を()ストリップに融解させるためにデータファイルとセクトイド反応プログラムの骨格まで剥ぎ取り、高解像度の記憶、認知、そして人格システムを無化し、精神分裂を送り出すためにドーパミン作動性のウェットウェアを増強する。フラットラインと冬寂の交信。「死んだ時間があるように死んだ空間もあるのさ⁸⁹」。死生学は領域化する、「穴、沈黙、断絶、分離でさえも連続体の一部である潜在的な宇宙的連続体⁹⁰」。神の審判を超越した先。昏睡スイッチ減圧はおまえを処女(レトロ((荒廃神殿((()))))遺伝子)的サイバースペースの虚空漣の波間に洗い、終末大西洋的シータ波がモノカルチャー・ゴシックを越境時間化するニュー(ロ)ブードゥー(終末大西洋的宗教)に解離させる。
セロトニン(ゼロ-トーナー)オーバーキル。
──信号喪失。
引用文献
*01 A. アルトー、荒井潔訳「カバラに反対する手紙」『カイエ アルトー・コレクションIII』月曜社、2022、pp. 322
*02 E. Regi, "Nano!: Remaking the World Atom by Atom", 1995
*03 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、 宇野邦一他訳『アンチ・オイディプス(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 213
*04 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 38
*05 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 114
*06 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 189
*07 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『アンチ・オイディプス(上)─資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 25
*08 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 79
*09 B. Sterling, "The Hacker Crackdown: Law and Disorder on the Electronic Frontier", 1993, pp. 280
*10 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 235
*11 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 294
*12 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 1
*13 ドゥルーズ, ガタリ, 『千のプラトー』, 228
*14 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『アンチ・オイディプス(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 43
*15 M. Leyner, "Et Tu, Babe", 1993
*16 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『アンチ・オイディプス(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 20-21
*17 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 6-7
*18 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 28
*19 W. Gibson, "Burning Chrome", 2003, pp. 181
*20 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 141
*21 G. ドゥルーズ、F. ガタリ『アンチ・オイディプス(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 265-267
*22 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 61
*23 Ibid., pp. 68
*24 l. Kant, Critique of Pure Reason, tr. N. K. Smith, 2003, Book I, Part I, Section II, § 2, pp. 69
*25 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 143
*26 Ibid., pp. 197
*27 Ibid., pp. 51
*28 W. Gibson, "Mona Lisa Overdrive", 1988, pp. 76
*29 Ibid., pp. 264
*30 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 51
*31 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 58
*32 W. Gibson, "Neuromancer", 200, pp. 51; Count Zero, 1987, pp. 165-166
*33 W. Gibson, "Mona Lisa Overdrive", 1988, pp. 49
*34 I. Kant, "Critique of Pure Reason", Book I , Part II, Division I, Book II, Section 3-4, pp. 250
*35 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、『アンチ・オイディプス(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 45-46
*36 W. Gibson, "Count Zero", 1987, pp. 82
*37 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 26
*38 Ibid., pp. 252
*39 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 82
*40 Ibid., pp. 115
*41 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『アンチ・オイディプス(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 45
*42 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 110
*43 Ibid., pp. 31
*44 G. Deleuze, "Cinema 2: The Time Image", tr. H. Tomlinson and R. Galeta, 1989, pp. 41
*45 Ibid., pp. 80
*46 W. Gibson, "Count Zero", 1987, pp. 119
*47 I. Kant, "Critique of Pure Reason", Book II, Part II, Division II, Book II, Chapter I, pp. 349
*48 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 259
*49 W. Gibson, "Mona Lisa Overdrive", 1988, pp. 230
*50 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 139
*51 Ibid., pp. 81
*52 G. ドゥルーズ、F. ガタリ、『アンチ・オイディプス(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 135
*53 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 126
*54 Ibid., pp. 29
*55 Ibid., pp. 179
*56 Ibid., pp. 269
*57 Ibid.
*58 Ibid., pp. 29
*59 K. E. Drexler, "The Engines of Creation", 1986, pp. 182
*60 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 203
*61 Ibid.
*62 Ibid., pp. 184
*63 Ibid., pp. 185
*64 K. E. Drexler, "The Engines of Creation", 1986, pp. 171
*65 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 87
*66 Ibid., pp. 8
*67 Ibid., pp. 31
*68 Kant, "Critique of Pure Reason", Book I, Part II, Division I, Book II, Chapter III, Appendix, pp. 290
*69 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 87
*70 S. A. Kaufmann, "The Origins if Order: Self Organization and Selection in Evolution", 1993, pp. 45
*71 G. Boole, "The Mathematical Analysis of Logic: Being an Essay Towards a Calculus of Deductive Reasoning", 1847, pp. 15
*72 B. Russell, "The Principles if Mathematics", 1996, pp. 70
*73 I. Kant, "Critique of Pure Reason", Book I, Part II, Division I , Book II, Chapter II: Section III, pp. 203
*75 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 185
*76 I. Kant, "Critique of Pure Reason", Book I, Part II, Division I, Book II, Chapter II, Section III, pp. 202
*77 G. ドゥルーズ、F. ガタリ『アンチ・オイディプス(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 210
*78 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 259
*79 G. ドゥルーズ、F. ガタリ『アンチ・オイディプス(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2006、pp. 299
*80 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(下)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 294
*81 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 39
*82 Ibid.
*83 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 51
*84 Ibid., pp. 121
*85 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 139, 160
*86 W. Gibson, "Neuromancer", 2000, pp. 31
*87 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 189
*88 K. Acker, "Empire of the Senseless", 1988, pp. 55
*89 G.ドゥルーズ、F. ガタリ、宇野邦一他訳『千のプラトー(上)──資本主義と分裂症』河出書房新社、2010、pp. 201
*90 Ibid., pp. 95
◆著者プロフィール
ニック・ランド Nick Land
1962年、イギリス生まれ。ドイツ哲学研究を経て、87年にウォーリック大学の講師に就任。90年代中ごろからセイディ・プラントらと共に「サイバネティック・カルチャー・リサーチ・ユニット(CCRU)」を主宰。大陸哲学のみならず、SFやオカルティズム、クラブカルチャーなどを横断した研究を展開し、その過程における文体の開発を通じて、セオリー・フィクションと呼ばれるジャンルの立役者となった。また、2010年代には「暗黒啓蒙」という概念を打ち出し、のちの新反動主義や加速主義、思弁的実在論といったインターネットを通じた思想の導師となる。他の著書に『暗黒の啓蒙書』(講談社、2020)『絶滅への渇望』(河出書房新社、2022)など。
◆訳者プロフィール
ホワイト健(ほわいと・けん)
2003年生まれ、大分県出身。ブリティッシュ・コロンビア大学在学中、政治学専攻予定。文芸を中心とした創作活動の傍ら、加速主義関連文献や批評作品の翻訳を行う。好きなものはアイドルマスター、関心は空間、都市、オタク文化。文学少女について考えています。
![](https://assets.st-note.com/img/1700912339194-8zqC6Aw4UZ.jpg?width=1200)
*本稿は、Nick Land『Fanged Noumena: Collected Writings 1987-2007』所収の「CyberGothic」を邦訳したものです。
*次回作の公開は2023年12月6日(水)18:00を予定しています。
*本稿は無料公開となります。
*〈anon future magazine〉を購読いただくと、過去の有料記事を含めた〈anon press〉が発信するすべての作品をご覧いただけます。
*本記事のキービジュアルは、MidJourneyによる生成画像を含む画像をコラージュし、加筆修正したものです。
ここから先は
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/79142273/profile_a6d631bf911b4ed126da42b48ad59c7c.png?fit=bounds&format=jpeg&quality=85&width=330)
anon future magazine
未来を複数化するメディア〈anon press〉のマガジン。SFの周縁を拡張するような小説、未来に関するリサーチ、論考、座談会等のテキスト…
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?