枠_フレーム_の向こう側を見つめていた02

『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』(2) 父の記憶 / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 私が生まれたのは東京都北区滝野川。昭和28年12月26日のことです。父は戦争中、陸軍のパイロットだったのですが、戦後、陸軍の仲間に誘われヘリコプターの操縦という仕事を得ます。
 木場にあったその職場の名はニッペリ(日本ヘリコプター輸送株式会社、後の全日空(※1))と言いました。

 かつてオンエアされた全日空のCMをご存知でしょうか?
「たった二機のヘリコプターから出発した小さな純民間航空会社、それが私たちANAのはじまりでした。」
 このヘリコプターに搭乗していたのが父、三郎でした。ちなみに今でも使われているANAの便名のNHは日本ヘリコプターの頭文字から取ったものです。

画像1

 ヘリの左にいるのが父。なんだかPR用の写真っぽいです。

画像2

 このCMは父が他界した後です。もし生きていて観たら号泣したかも。
 ・画像引用元:ANA全日空CM「きたえた翼は、強い。」篇 より
  https://www.youtube.com/watch?v=kc6GyqGPc-Y


 そもそも映像ディレクターという仕事を選んだことからも推察頂けると思いますが、私のアウトロー人生は父親譲りのDNAということかもしれません。父は埼玉県飯能市の代々医者の家系の三男として生まれ(だから名前も三郎なのです)、医者には目もくれずに法政大学航空部へ。当時のパイロットは今のF1レーサーぐらいカッコいい職でした。
 後先考えずに行動しちゃう私のDNAは父親譲りなんでしょうね。
そして第2次大戦の勃発で、父は陸軍航空隊に志願します(赤紙召集ではありません)。
 激戦のフィリピン、台湾方面で偵察機に搭乗。マラリアで内地に送還されたため特攻はまぬがれ九死に一生を得た・・・らしいです。
 おお、なんだかNHKの『ファミリーヒストリー』みたいになってきました。
 父は戦争の事は多くを語りませんでした。
 ただ私が幼少の時に、交戦した敵の戦闘機の弾がかすった痕だと親指の傷を見せてくれたことがありました。当たり所が悪ければ危うく私がこの世に生を受けることはなかったのです・・・。
 私だけではなく、日本のあちこち、いや、世界のあちこちで私と同じように紙一重で生を受けることができた人達がいるように思います。

 ニッペリの仕事は空から宣伝ビラを撒いたり農薬を散布するなど地味な仕事が多かったみたいです。ある時ガス欠で墜落しかかったことがあり、咄嗟に学校の校庭に緊急着陸したことがあったそうです。
 おー、危うく母子家庭になる危機一髪!

 当時のヘリコプターは我々一般の人間が考える以上に操縦が難しいらしく、また、公務員(安定した仕事として)好きの母の強い勧めもあって、父は創立間もない警察予備隊(現・自衛隊の前身※2)に転職しました。もしニッペリにいたら全日空の要職までいけたんじゃないの、と今から見れば溜息しか出ないのですが。これもDNAのなせる業ということなのでしょう。


 実はなんの因果か、私が映像の仕事をしていたおかげで、そのヘリコプターと再会することになります。
 2011年、私は縁があってボーイング787の製造工程のビデオを編集していました。 
 そのビデオを担当していた富士重工の方にニッペリの話と父が他界した時に残した手記のお話をすると、「ぜひANAに寄贈しましょう」ということになり、さらに「下丸子(※3)のANAグループ安全教育センターに当時のヘリが保管してあるので、行きませんか?」と、まるで何かに導かれるように話が進みました。
「えっ!下丸子!?」
 前の年、イベント映像の打ち合わせで足しげく通ったCanon本社が東京都大田区下丸子。その建物の隣がANAだったのです。これはなにか私をそこに引き寄せる不思議な力、強い因縁のようなものを感じました。
 そして60年越しのヘリとの邂逅。

画像3

 じゃ~ん

 父が操縦したであろうその機体に触れた瞬間、ビビビッ!指先から振動が伝わり、私の体は宙に浮かび、光の中へしゅわ~っ!・・・
 当然そんな映画のような奇跡は起こらず。(残念!)

「なんでこんな変な黄色い色に塗ってあるんだろう?」なんてつらつらと考えていると、そこへ通りかかったCA(キャビンアテンダント)さんに写真を撮ってもらって「ハイ!チーズ!」あっけなく再会を果たしたのであります。
 父の話が長くなりましたが、そもそも私が映像の世界にひきこまれたのは、そんな父を巡るある事件が大きく影響したせいなのです。

 私が高校3年の時、父は50歳で定年を迎えました。そこへタイミングよくかつての部下が現れ、
「会社を設立するから取締役に。ついては保証人ということで印鑑を・・・」
 ア~やってもうた! 
 勘のいい方はもうお分かりですよね。取締役なんてのは名ばかりで、間をおかずに父が保証人となった会社からの負債がいっぺんに我が家に押し寄せてきました。

 退職金で買った自宅は差し押さえに。
 世間知らずの父はあっさりと騙されてしまったのです。

 とりあえず生きて行かねば・・・。

 年末のジングルベルが鳴り響く喧噪渦巻く街角で、楽しそうな人の波を17歳の私は途方に暮れてただぼんやりと見つめていました。しかも私の誕生日は12月26日。オーマイガ―!
 ひょっとして、その時サバイバルナイフでも持っていたら凶行に走っていたかもしれません。
 それとも空っぽの頭で駅のホームから線路に飛び込んでいたか・・・。
 
 いや、正直なところ当時はそんなことも思いつかないほど、

「あれこれ悩むことすら、めんどくせー」でした。

 いずれにしろ幼少期の転校生の疎外感から一気にアナーキーな私が形成された事件だったのです。
 あな、恐ろしきは世間なりや。

 そして私の人生のベクトルはこの事件を契機に徐々に映像の世界へと舵を切ってゆくのでした。

 (続く)

(※1)正式名称は全日本空輸株式会社。国際民間航空機関の略名はANA
(※2)1952年(昭和27年)8月10日に国家地方警察及び自治体警察の警察力を補うためものとして、ポツダム政令の一つである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)により設置された武装組織。同年10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて発展的解消をした。
(※3)東京都の南部に位置する大田区の町名。地域区分としては蒲田地域に当たる。大正13年(1924)に設立された耕地整理組合によって、戦時中は中小を含めた軍需工場を中心とした大工業地帯へと発展した。現在は工場が転出した跡地を利用した高層マンションや商業施設、産業施設などが立ち並んでいる。

【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。

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