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『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』 (5) 須藤プロでの日々 / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 映写技師を辞め、またもや流浪の旅へ。とりあえず専門学校の同期のI.Wちゃんを頼って、乃木坂にある映画機材レンタルの『東京アリフレックスサービス』に居候。もちろん無給でしたが、そこにいれば機材の点検整備を覚えられる上に、撮影助手の仕事も入る可能性がある、という事で面倒を見てもらいました。
 ある時、世田谷の『東京映画撮影所』にアリフレックス16ミリBLを配達しました。
 おそるおそる撮影部スタッフルームを訪ねると、どてらにハンチング、長靴姿のカメラマンらしき人に「おう、町場のアンちゃんは小奇麗だな」とドスのきいた声でからかわれました。貧乏な私は普通のジーンズ姿だったのですが。たしかにお世辞にもきれいとは言えないスタッフルーム。なんだか“飯場”みたいだな、と一目散で退散しました。

 そんなこんなで、そろそろ生活費も尽きてくる頃、「大阪の独立プロで撮影助手を募集している」という情報が入りました。I.Wちゃんは「凖ちゃん、よく考えたほうがいいよ」というアドバイス。けれど事実上“天涯孤独”状態の私は切羽詰っていました(私の親は息子がどこでなにをしているのかも一切興味がなかったみたいです)。
 気づけば私は“渡りに船”と次の週には歯ブラシと若干の衣類を詰め込んだボストンバッグ一つを抱えて、大阪行きの新幹線の車中にいました。
 幼い頃に見た車窓からの東海道の風景は、その時も変わることなく早送りの映像のようにめまぐるしく変化してゆきます。
「ああ、まだ私は転校生のままだ・・・」
 けれどその時の私は、感傷的というよりは「不安よりちょっとだけ期待のほうが大きかった」そんな気持ちだったと思います。
 新大阪で降りてから御堂筋線に乗り換え。シートにドスンと腰を下ろすとガーーン!
「なんじゃ、こりゃあ!」
 大阪の地下鉄のシートは堅い!これが大阪の第一印象でした。

 そして、大阪にも『我孫子』という地名があるんだと知り、その手前の『長居』の駅に、これから私がお世話になる独立プロがありました。
 そこは「須藤プロ」といって、須藤久監督と撮影、制作主任、助監督が文化住宅で共同生活していました。
 須藤久監督は『狭山の黒い雨(1973年公開)』という映画で有名な方でした。
 ご存知の方も多いかもしれませんが、『狭山の黒い雨』には題材となった実際の事件(※1)がありました。

 須藤久監督は「おれは心情右翼だ」が口癖でした。当時、須藤プロは部落解放同盟大阪府連の下で同和対策費から年間の活動費を援助してもらっていたそうです。というわけで、同和問題を知らない私でも、活動費の中から給料をいただけるようになりました。
 須藤プロの共有部分の部屋には、機材が収納されていました。撮影機材は16ミリアリフレックスBL、ミニキット、バッテリーライト。編集機材はビュワー、スプライサー、フィルムバスケット、シネテープ(音声磁気テープ)とフィルムを同期させるシンクロナイザー。私としては専門学校で8ミリの編集、映写技師の時には16ミリフィルムの補修などをしていたので、編集は何とかなると思いました。
一通りの説明を受けて、さぁ撮影か編集か、とモチベーションが高まったのでしたが、最初の仕事は食材の買い出し、からの、スタッフの飯作り。私の仕事は炊事当番だったのです。
「やっちまったか・・・。」
 まあ最初は下積みだから、と自分を納得させます。
 ある日、監督が気まぐれに「秋田犬を飼う」と言い出しました。そうなると、そう、お犬様の世話も・・・わおーん!
 監督はといえば、部落関係のお客さんと麻雀をしたり、お水風のケバイお嬢さんが「せんせぇー」と黄色い声で遊びに来るのを相手にしたりと、映画を志してわざわざ大阪まで来た私にとっては、なんだか訳の分からない生活が始まりました。 

 そんなもやもやとした思いを抱えたまま雑用だけの日々で数か月。私はついに須藤監督に直訴しました。
「撮影の仕事がしたいです!」
 特別にアルバイトの許可が出ました(あくまでも須藤プロが暇な時に限って「目をつむります」という特別処置でした)。そして私にとっては初めての『フリーランスの撮影助手』の仕事がスタートしました。
 映画の撮影助手の仕事は、まず「フィルムチェンジ」です。ロケ時はフィルムの感光を防ぐためにダークバック(チェンジングバッグ)という黒い袋に手を突っ込んで、撮影済みのフィルムと新品を手さぐりで交換します。きちんと装填しないと当然ですが事故になります。フィルムをカメラに装填してからは回転出し。サイレント・アリはバリアブルモーターだったので1秒24コマ、タコメーターを見ながらチェックします。バッテリーが落ちると回転も落ちるので常にチェックしなければなりません。次にレンズを外してアパ―チャ―の“窓ゴミ”をチェックします。特にダークバッグを使うとゴミが出やすいので気を付けます。忙しい撮影だとこれがおろそかになり、特に16ミリは“窓ゴミ”が大きく出ますから、これがラッシュの時に出たら針のむしろです。撮影用ゼラチンフィルターを切り出して、それをレンズに装着することや、各種レンズの管理。さらに撮影中の露出計測、フォーカスのチェックやハレキリ(ハレーション切り)。勿論、三脚を担いで移動する体力も必要になります。撮影助手はそういう雑多な一朝一夕では身につかない仕事なので、レンタル機材屋にいて修行していたのでした。
 ※撮影助手の仕事の第一条件は、まず様々な機材に対応できることでした。普通は会社の撮影部などで覚えるのですが、そういう機会がない人は機材屋で覚えるのです。というわけで、機材屋には専属の助手さんはいませんが、機械に詳しいので緊急時に依頼が来る場合があります。また機材屋をフリーの助手さんが連絡先にしている場合もありました。

 大阪での撮影助手として最初の仕事は『宝塚映画』でVPの仕事でした。私が助手で付いたのは、年配の寡黙な、そして気難しそうなカメラマンでした。ところが寡黙は寡黙なりにコミュニケーションの問題が!
 この時のカメラは単レンズ交換のアリフレックス16ミリ。
 寡黙なカメラマンがぽつりと、
「ゴジュ」
「・・・は?」
 関西弁のイントネーションで「ゴジュ」。前後の「50ミリに交換して」とかあれば理解できますが、これはちょっとしたカルチャーショックで、かなり慌ててしまいました。フリーのスタッフは駆け出しでも経験者でも、ギャラは同じです。ゆえに現場で少しでもいい仕事をしよう、と思って焦ってしまうのです(どうせ同じ値段なら、雇う側としても優秀なスタッフの方を選びたくなるのが人情ってものです)。失敗すれば次は呼んでもらえないかもしれない、という強迫観念もあり、ちぐはぐな上手く意志の疎通ができないままの、私にとっては、ちょっと悔しいデビュー戦でした。
 悔しさを抱えたままで挑んだ次の仕事は、『放送映画』という会社のTV番組の取材でした。こちらは若いカメラマンでコミュニケーションは問題ないのですが、忙しい現場であまり自分が働けていないのが分ります。継続して仕事をすればスタッフと打ち解けて勉強しながら仕事を覚えて行けるのでしょうが、須藤プロとしては自分たちのスタッフを長期で他社の仕事に出すわけにもゆかず、結果ちぐはぐな状況だったと思います。
 また、本来の仕事である同和対策の活動のほうも、
「公共住宅や学校の設備などはすでに豊富な予算で、へたをすると部落の方が周辺の部落以外の町よりも生活水準が良くなっているんじゃないの」
 というのが、第三者の目で見た私の正直な感想でもありました。彼らの悲惨な歴史や境遇は少しは理解しているつもりでしたが、難しい問題ですよね。
 思い切って大阪まで来てみたけれど、結局本来の映画の仕事はほとんどなく、無駄に時間だけが過ぎてゆく日々。
 半年後・・・。
 「東京へ戻ろう」
 むむ、またまた流浪の旅だ。

 私の人生双六は気が付くとふりだしに戻る運命のようです。
 再度『東京アリ』に居候です。同期のI・Wちゃんはフリーになって『東京映画』へ。TVドラマ「コメットさん」のスタッフとして現場に入っていました。私は私で、時々単発の仕事に出てはいましたが、先述の“大阪トラウマ“で、自分には撮影助手は向いていないのかもな、というネガティブマインドがちらつく日々でした。
 また別の同期のN・S君は、日活照明部で根岸吉太郎監督や森田芳光監督の下で働いていることも伝え聞いていました。ちょっと取り残されたような敗北感がありました。
 ※後にN・S君はチーフから技師として一本立ちできるほどになりました。我々仲間内の出世頭だ!ところが10数年後、腰を痛めてこの業界を去ったということを聞きました。人生「諸行無常」ですね。

 その後しばらくして映像の業界はフィルムからビデオへの過渡期になりました。 今では考えられない事ですが、当時の映画人の中には、
「ビデオは所詮、電気だ」
と軽視する人がいました。よく分からない物に対する漠然とした恐れがあったのかもしれません。
私にもビデオ撮影のアシストという仕事が入ってきました。カメラはフィルム時代と違って、VE(ビデオエンジニア)さんが管理をするので撮影の負担は減りましたが、その分、現場でADさんや制作さんのお手伝いが多くなります。カメラは電源を入れて1時間はヒーティング(プランビコンという真空管みたいな撮像管の為)。それからレジストレーションチャートを写してRGB、三つの撮像管の調整。その後グレースケールを写してホワイトバランスを手動で調整します。撮影の午前中は、これで終わります。ビデオカメラはなんてめんどうくさいんだ。今では考えられない時代でしょ?
しかし、このビデオの仕事が私の人生の大きな転換となります。そして時代も大きく変わろうとしていました。 
(続く)

(※1)1963年(昭和38)に埼玉県狭山市で発生した女子高校生殺害事件で、通称〈狭山事件〉と呼ばれています。今は被害者保護の観点から、未成年者は特に事件の内容によっては実名で報道をされることも少なくなりましたが、当時は〈善枝ちゃん殺し事件〉と呼ばれていました。
 この事件が一般的な殺人事件と違った社会的な注目を受けた背景には、被疑者となった青年、石川一雄氏(1974年に東京高裁にて無期懲役判決、確定の後、1994年に仮釈放)が、被差別部落の出身であり、部落差別に起因する冤罪事件ではないかという見立てがあったためです。そのため、部落解放運動団体や、新左翼党派と呼ばれる立場の団体などからは、この事件に関する裁判を〈狭山差別裁判〉と呼ぶ向きもありました。

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「映画撮影」は日本映画撮影監督協会(J.S.C)の機関誌です。これを読みながら夢を抱いてたわけです。

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アリフレクス16ミリBLです。総重量が10kgほどあります。


【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。

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