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【インタビュー】小3で漫画家になると決意した安野モヨコの学生時代とデビューまで

スタジオジブリの機関誌「熱風」2020年9月号に掲載された安野モヨコのインタビューをnoteに再掲載いたします。インタビューの内容は掲載当時のものになります。
2022年8月現在、「安野モヨコ展 ANNORMAL」は東京、大阪の巡回展を終え、2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。(スタッフ)

文責・構成/編集部+山下 卓

小3で夢見た「漫画家」。30年の漫画家生活を経てなお「描く」こと三昧の日々~前編~


『ハッピー・マニア』『さくらん』『働きマン』『鼻下長紳士回顧録』そして単行本第1巻が刊行されたばかりの『後ハッピーマニア』……安野モヨコさんの描く漫画はいつもその時代の女性たちの本音に満ちている。
だからこそ、高校卒業後すぐのデビューから、2020年の現在までその漫画は読み継がれてきた。

だが、その長い時間は、月に連載7本をかかえる超売れっ子の時期、人間不信に陥り、精神的に追い詰められ描けなくなった年月、そして映画監督、庵野秀明氏との出会いなど、紆余曲折をはらんだ30年である。
そんな安野さんに、この30年を支え続けてきたものはなんだったのかをインタビューした。

展覧会「安野モヨコ展 ANNORMAL」(東京・世田谷文学館で9月22日まで開催 事前予約制<※2022年8月現在は終了>)を拝見したあとでのインタビューは、安野さん曰く「上海帰りのおじさんの事務所をイメージして改装した」という事務所で行われた。

・・・

編集部(以下――)この新しい仕事場はずいぶん趣向を凝らした作りですね。インテリア雑誌で『ふしん道楽』を連載しておられるのも納得する凝り方です。完成までどのくらい時間がかかったんですか。
 
安野 最初のデザインや打ち合わせから考えたら、足かけ2年ぐらいになるんじゃないかと思います。
私たちも仕事をしながらの工事だったので、1階と2階と1期と2期に分けて工事を進めてもらいました。
ちょうどこの部屋の工事をやってもらったのが3月、4月頃で世の中はコロナの自粛で会社がお休みのところが多かったですが、前々からそのあたりを休暇に予定していたんです。
その休暇の期間に昨年末からずれ込んでいた職人さんの工事の時期がきれいにハマって、6月にひとまず作業が終わったところです。
 
――ではコロナの自粛期間は仕事場の工事のタイミングとしてはちょうどよかった、というとちょっと言葉が悪いですけど。
 
安野 工事の職人さんたちが毎日作業されてましたけど、工事中は窓も玄関も開け放してるしあまり気にならなかったです。
まあ、殆ど事務所に行くこともなくて自宅で作業してたんですけどね。
 
――仕事場に関しては、これで一段落という感じですか。
 
安野 そうですね。あとはキッチンです。
それと、中華風の格子戸をもう少し作ってもらうのと、外の庭もこれからです。
最初は庭にデッキを敷いて、そこでご飯でも食べられるようにテーブルを置くスペースがほしいとか言っていたんですけど、結局そういうことしないから、もう坪庭みたいに作り込んじゃって見る専門の庭ということで。
それはこれから始めるので、またお金を稼がないと(笑)。
そんなことばかりやってるから。
 
――たしかこの仕事場のコンセプトは「上海帰りのおじさんの事務所」のイメージとか?
 
安野 そうなんですよ。最初にその企画を言い出したときは、まさかこんなに中国との関係が悪化するとは思わず(笑)。
 
――先月、7月1日には漫画家デビュー30周年を記念した「安野モヨコ展 ANNORMAL」が世田谷文学館で始まりましたね。この展覧会のディレクションもちょうどコロナの期間に重なっていたので大変だったんじゃありませんか。
 
安野 いえ、そちらは私は基本的にノータッチだったんですよ。
コルク(クリエイターエージェント会社)の私の担当編集の子、彼女、今年の4月で違う編集部に武者修行にいくと退社したんですけど、その子が3、4年前に担当になったときからずっと展覧会をやりたいと言っていて、1人で駆けずり回ってやってくれました。


――展示物の確認作業などはどうされていたんですか。
 
安野 不要不急の外出は控えようという風潮が一番激しかったときだったので、現場には行かず、会場内を動画で撮ってきてもらって、それを見たり。
現場から送ってもらった画像を見てメールで指示を返すみたいな、そんな感じでした。
 
――最終的に完成したときは、さすがに現場に行かれたんですよね。
 
安野 完成したときもリモート確認です(笑)。
普通だったらプレスの方をお呼びした内覧会とかをやりますが、今回はそういうことも一切やらなかったし、トークイベントも予定ではいっぱいあったんですけど、それも全部やめちゃったんです。
一応プレスの方々をお呼びしたイベントはあったんですが、私が行くとインタビューになっちゃうので、それはやらないほうがいいってことになって行きませんでした。
だから私が会場に行ったのは、展覧会が始まってから2週間ぐらい経ってから。
 
――私たちは展覧会を拝見してきました。ほんとうに多彩な作品が並んでいて、30年という漫画家生活の中で安野さんが創作に注ぎ込んできた強い想いが実感できる展示でした。500点という原画の迫力もさることながら、公式図録に収録されたインタビューや自伝的漫画である『よみよま(黄泉夜間)』に綴られたご自身の家庭のお話などを読むと、この30年という時間の重みをあらためて深く考えさせられます。
 
安野 ありがとうございます。

東京・世田谷文学館で開催された「安野モヨコ展 ANNORMAL」


――今日は安野さんの漫画家生活30年を支えてきたものについて、いろいろとお話を伺えればと思っています。

小学3年生で「漫画家になる」と決意。


――まず幼少期から振り返って、そもそも絵を描くということには、小さい頃から興味を持たれていたんですか?
 
安野 絵を描くのはすごく好きで、それこそ物心ついたときからチラシの裏側とかにずっと何かを描いていたのは覚えていますけど、特別うまいということはなかったですね。
幼稚園や小学校でも、たとえば絵のコンクールで賞をもらったり、先生から絵が上手だと褒められたりした記憶は一切ないです。
子供のときってみんなお絵かきをするじゃないですか。
ほんとうに、そんなレベルの絵です。
 
――小学3年生のとき、突如、漫画家になろうと思われたんですよね。
 
安野 はい。もともと漫画は大好きだったから、その時点でも漫画をたくさん読んではいたんですけど、職業として漫画家を意識したのはそれが最初ですね。
 
――なにかきっかけがあったんですか?
 
安野 学校で、「将来の夢」の作文って書くじゃないですか。
当時の女の子はみんな保母さんなんです。
クラスに十何人か女子がいたら10人ぐらいが保母さんになりたいって書いていた時代です。
でも、私は保母さんには興味がなくて、かといって他の職業についてもよく知らないから、お花が好きだったからお花屋さんになりたいって書いたんです。
書きながら、なんかしっくりこないというか、今とりあえず大人が何か夢を書けと言っているから、それに対してわかりやすくお花屋さんって言ってみてるだけだなって、自分でも思いながら書いていた。
それがなんか気持ちが悪くて、ほんとうになりたいのは何なのかなって、ずっと何日も考えていたんです。
それでお掃除の時間に机を運んだり、箒で床を掃いたりしているときにハッとなって、そうだ! 私は漫画家になりたいんだって。
すごくはっきりと漫画家だと思ったんです。
 
――漫画家という職業が思い浮かんだというのは、やはり伯父の漫画家、小島功さんの存在から受けた影響もあったんでしょうか?
 
安野 あったとは思いますけど、小学生ですからね。
漫画を読んでいて、それを作った漫画家さんという方がいることはなんとなくはわかっているんだけど、子供のときってその一つひとつを作った人の仕事までは意識できない。
私の場合は伯父がいたので漫画家という職業を普通の小学生より立体的に捉えることができたのかなとは思います。
 
――当時はどんな漫画を読まれていたんですか。小学校低学年というと年齢的には漫画雑誌だと『なかよし』?
 
安野 いや、小学校低学年のときは『リリカ』ですね。
サンリオが出していた雑誌です。
 
――AB判のカラフルな?
 
安野 そうそう。ちょっと正方形に近くて、フルカラーだったんですよ。
そこで手塚(治虫)先生の『ユニコ』を連載していたんです。
あとサンリオの「いちごの王さま」というキャラクターがいて。
キティちゃんやパティ&ジミーはしゃべらないキャラクターなんですけど、この王様はわりと親しみやすい、今で言うところの企業イメージキャラクターでサンリオの情報などを伝えてくれたような……。
それは『いちご新聞』だったかな。
とにかく読み物も楽しかった記憶があります。
うろ覚えでタイトルがわからないのですが外国の漫画も載っていました。
フルカラーだからすべての作品がすごくきれいで、毎月買ってもらうその本をとても大事にしていました。
買ってもらったら、次の月が来るまで繰り返しずっと読んでました。
 
――お家では漫画を読んじゃいけないとか、そういう家庭環境ではなかったんですね。
 
安野 まったくなかったです。
『リリカ』も母が買ってくれていました。
小学校1、2年生ぐらいまでは『なかよし』は買ってもらえなかったんですよね。
母の勝手な基準で『リリカ』ならいいみたいなのがなぜかあって。
 
――普通の漫画雑誌に比べると、『リリカ』は絵本っぽいですよね。
 
安野 そう。絵本っぽいし、内容がファンタジックで、ドメスティックな内容の漫画が少なかったんですよね。
当時は自分では買えないから、親に買ってもらうしかなかったんですけど、近所の友だちにすごくたくさん漫画を持ってる子がいたんです。
お母さんが漫画好きで、その子の家の昔の古い江戸間サイズの押し入れを開けるとぎっしり漫画が詰まっている。
小学生の子供からすると、そんな大量の漫画は見たことがないというぐらいあって、そこで『ブラック・ジャック』とか『マカロニほうれん荘』を借りて読んでいましたね。
『少年チャンピオン』系の漫画が多くて。
あとはわたなべまさこ先生の怖い漫画とかですね。
 
――それは単行本?
 
安野 全部単行本です。
あと『まことちゃん』もあったかな。
どこでどの作品を読んだのかまでは記憶が正確ではないですね。
他の友だちの家にあったものとか、習い事先の先生のところにあったものとか、いろいろなところで見つけたらすぐ読んでいたので。
 
――当時は漫画だけでなく、小説もよくお読みになっていたとどこかのインタビューで答えておられるのを読みました。最初はどういう作品に触れていたんですか。
 
安野 最初は岩波の少年少女文学全集だったかな。
世界の名作を集めた銀色の表紙のシリーズが家にあったんです。
新しいものが出るとつねに買ってくれていて、そこに『赤毛のアン』とか『若草物語』とか『十五少年漂流記』とか『源義経物語』とか、いろいろな作品がありました。
あとは図書室が好きだったので、そこでケストナーの『エーミールと探偵たち』とか『飛ぶ教室』とか、そういうものを読んでいましたね。
 
――漫画と児童文学と、どちらがお好きでした?
 
安野 うーん、どっちも同じくらい好きでしたね。
どっちのほうがというのはないです。
とにかく読むものがあれば、ずっと何か読んでいたいという感じで、それこそ新潮社の『波』とか。
 
――小学生で『波』を読んでいたんですか。
 
安野 読んでました。読んでました。
書店さんで無料でもらえるから、それをうちの母親がいつももらってきていて。
あと小学館の『本の窓』や筑摩書房の『ちくま』かな。
ああいうのもずっと読んでいました。
 
――アニメーションについてはどうでしょう。
 
安野 見ていました。
夕方に再放送しているものが多かったかな。
その頃の子供が見ていたものはほとんど見ていました。
宮崎(駿)さんの『未来少年コナン』も見ていたし、『アルプスの少女ハイジ』や『母をたずねて三千里』も見ていたし、あと『ルパン三世』や『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』、『天才バカボン』もありましたね。
今思えば夕方四時五時がめちゃくちゃ豪華だった時期ですね。
 
――学業についてはいかがでしょう。勉強はできました?
 
安野 全然できませんでした(笑)。
国語はすごく成績が良かったです。
国語は高校生ぐらいまですごく良くて、全国模試でもかなりいい成績でした。
でも算数はほんとにできなくて。
算数の話を聞いているとだんだん眠くなっちゃうんですよね。
なにを話しているのかわからなくて脳にもやがかかる(笑)。
1+1=2みたいなことを言われたときに、どうして2になるんですかと聞くと、先生がそれは今考えなくていいから、そのまま暗記すればいいだけの話だからとか言う。
でも、どうしても飲み込めなくて。
そのことをずっと考えちゃっているうちに……。
 
――どんどん先に授業が進んでいく。
 
安野 そうそう。どんどん霧の中に迷い込んで(笑)。
 
――絵はやはり得意でした?
 
安野 美術の成績は悪くなかったですけど、絵がうまい子って最初からものを捉える能力がものすごく高くて、塗り方も丁寧できれい。
私はあまりそういうのができなくて、なんか下手だなと思ってました(笑)。

高校生で『別冊フレンド』の研究生になる。
デビューまでの道筋を自分で設計する。

 
――中学生になってからは漫画クラブの仲間と漫画の同人誌を作られたりと着実に漫画家への道を進んでいく。安野さんにとって漫画クラブでの活動というのはどのようなものだったんでしょう。
 
安野 漫画クラブを作ったのは小学校の高学年くらいで、中学にあがると違う小学校の子も一緒になるじゃないですか。
そのころ漫画が好きな子たちがいっぱいいて、私の学年は絵がうまい子がめちゃくちゃ多かった。
だから私は仲間内では全然うまいほうじゃありませんでした。
学校内での活動拠点は美術部になっていて、毎月の同人誌作りとかをしていましたね。
 
――その美術部では部長をなさっていますよね。どちらかというとまとめ役だった?
 
安野 その当時の仲間の子はみんな漫画を描くのは上手なんだけど性格的に控えめな子が多くて、みんなで話してると、「ええ、私、いいよー」「なんとかちゃん、どうぞ」みたいな感じで。
みんな本を作ってみたいという気持ちはあるんだけど、いつまでも話がまとまらない。
私もリーダーシップを取るのは苦手なほうですけど、他にやる人がいないならしょうがないかと思ってやっていました。
本音を言えば、部長なんてやりたくはありませんでしたけど(笑)。
 
――中学時代はその仲間たちと平穏に漫画を描くことを楽しんでいたという感じですか。
 
安野 そうですね。6ページとか長くて12ページとか短いページのものばかりでしたけど、みんなちゃんと頑張って仕上げてました。
今思い出しても凄くレベルの高い子が何人もいて、みんなの原稿をもらってはいつも感心してました。
 中学2年くらいから今で言う腐女子の方向に行く人が出てきて、だんだんとみんなオリジナルを描かなくなって行ったように思います。
 
――ああ、そっちですか。
 
安野 それでだんだんとみんなの漫画作品の集まり具合も減っていって。
私は単純に受験もあるから忙しいのかな、って思っていましたが趣味の変化があったのかもしれません。
『キャプテン翼』と『聖闘士星矢』がすごい人気で。
 
――まさに今の腐女子文化の走りですね。
 
安野 私は今ひとつ乗り切れなくて取り残されました(笑)。
でもまだオリジナルも描いている子もいたので、高校生になって初めてオフセット印刷の同人誌を作って喜んでました。
それで小さなコミケみたいなイベントに行くんですけどこれがまったく売れない。
 
――どんなに面白くても?
 
安野 まあ、そもそもたいして面白くないんです(笑)。
それにアニメ雑誌などにイラスト投稿して名前が売れている人とかでもない限りオリジナルは売れません。
友達と2人であまりに売れないので「どうするこのまま帰れないよ、みんなに申し訳ない」って青くなって。
それでふと隣のサークルさんを見るとよく売れてる。
それが『キャプテン翼』の同人誌やイラストだったんです。
 
――やはり『キャプテン翼』なんですね。
 
安野 B5のイラストボードに『キャプテン翼』のキャラクターが描かれているのがブースにバーンと飾ってあるのでまずそれでお客様が来てて、すごいなあと(笑)。
そのキャラクターだからというだけで買って行ってくれる人がいて。
その一方で下手なりに一生懸命描いたオリジナルは見向きもされないという。
今思えば驚きというより、絶望ですね(笑)。
そういうものなんだな、と学んだのは大きかったです。
このあたりを最後に小中学校の友達と一緒に漫画を描いたりしなくなっていきました。
みんなそれぞれ高校で漫画の仲間が出来ていったり漫画自体から離れてしまったりで。
私は相変わらず “やおい系” にはハマれなかったんですが。
あとその小さな即売会で投稿を始めるきっかけになる事がありました。
高校生になって商業誌に投稿を始めようと別マ(『別冊マーガレット』)と別フレ(『別冊フレンド』)の漫画賞のコーナーを毎月チェックしていたんですね。
審査員の先生たちの寸評から編集さんのコメントとか、投稿作のひとコマと一緒に名前や年齢も出ているので同じ年くらいの子でよく賞をとっている人とか覚えてて。
たまたまその即売会で見て回っていたら投稿で名前をよく見る人が同人誌を売っていたんです。
それで「これってもしかして〇月号の雑誌に出ていたものじゃないですか?」って聞いたら「そうです」と言うので初めて他の人の投稿作が読める! って嬉しくて買って帰りました。
それで読んだんですけどそんなに、自分が想像してたほどすごくなくて。
それまで身構えすぎて、こんな下手な自分が投稿などまだ早いと思っていたんですけど気が楽になってすぐ描いてすぐ投稿しました。
そしたらその月のトップ賞とってそのまま研究生になりました。
 
――トップ賞の漫画はどんな作品だったんですか。
 
安野 これは何度もインタビューで答えてきたことですが、当時描いていたものってタイトルもどんな漫画だったかも覚えていないんです。
当時は学校から帰ってきてから一晩で描きあげて投稿するということを繰り返していたので、一つひとつの内容をまったく覚えていないんです。
だから投稿したことすら忘れていた時期に入賞したという知らせを受けて、「オオー」みたいな、そういう感じです。
 
――研究生になると、プロの編集者から何かアドバイスをもらうのでしょうか?
 
安野 最初は編集部に来いって言われて、学校の帰りに制服で行って、漫画家としての基本的なことを教えてもらいました。
とにかく、ネームを催促されなくても書いて持ってきなさいとか、そういう基本的なことです。
 
――そういうことを体験すると、もしかしたら本当に漫画家になれるかもしれないと実感し始めたりするものなんですか。
 
安野 それどころじゃないです。
高校生で怖いもの知らずだから、早くデビューさせてよぐらいの感じです(笑)。
もしかしてとか、そういう謙虚な気持ちは一切なくて、これで来月デビューしたとしても載るのは7月だから、とか計算をしてました(笑)。
そこから連載が始まったとしても高校3年生のときまでに単行本が1冊出せるくらいだからとかね。
早くデビューしたかったんですよね。
 
――今回の展覧会の図録の年表に、投稿して入選すると賞金がもらえるので、漫画を描いて投稿することがバイトの代わりになっていたと書かれています。ある意味で、すでに漫画を描いてお金を稼ぐということを明確に意識されていた?
 
安野 連載するとちゃんと毎月お金ももらえるし、ぐらいには考えていましたね。
だから、ぼんやりした夢とかじゃなく、どうやってそこまで行くのかと考えていました。
 
――具体的に自分で設計されていたんですね。
 
安野 そうなんですけどね。
でもそれはね、今思うとほんとうに考えが甘くて。
その当時描いていた原稿なんてプロのレベルにはほど遠いものだったので。
私は絵がうまかったり上手に漫画が描けるから研究生になったわけじゃなく、最初からずっと言われていたのはセンスとか言葉の選び方の部分を買われていた。
感覚が普通の少女漫画の人と違うから伸びるかもしれない、編集的にはちょっとした賭けというか、確実にこの子は漫画家になれるというより、もしかしたら化けるかもぐらいの感じで入れてくれていたんだろうなって今は思います。

インタビューは中編、後編に続きます!
次回「ANNORMAL」の巡回展は2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。
展覧会の詳細は下記リンクからどうぞ!(スタッフ)

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安野モヨコ&庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画「監督不行届」の文章版である『還暦不行届』の、現在連載中のマンガ「後ハッピーマ…

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