見出し画像

【インタビュー】結婚、長期休養を経て連載中の『後ハピ』に寄せる思い

スタジオジブリの機関誌「熱風」2020年9月号に掲載された安野モヨコのインタビューをnoteに再掲載いたします。インタビューの内容は掲載当時のものになります。
2022年8月現在、「安野モヨコ展 ANNORMAL」は東京、大阪の巡回展を終え、2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。(スタッフ)

文責・構成/編集部+山下 卓

インタビューの前編・中編はこちらからご覧いただけます。


小3で夢見た「漫画家」。30年の漫画家生活を経てなお「描く」こと三昧の日々~後編~


――お話を聞いていると不思議というより、運命というか(笑)。たしか2001年の講談社『イブニング』誌での『さくらん』連載に先立って、すでに多忙で精神的に疲弊していたモヨコさんに、庵野監督が「自分のために描いたら」というアドバイスをされたという話がありましたよね。かなり親しくなっていないと、こんなことは言えないと思うんですが。

 
安野 それはもう結婚した後です。
 
――あっ、結婚した後だったんですか。
 
安野 はい。あっ、待って。
あれ、結婚してないか。
『さくらん』描いたとき、結婚してなかったのか……。
 
――図録の年表によれば『さくらん』の連載開始が2001年で、庵野監督と入籍されたのが2002年になっていますね。
 
安野 そうですね。あっ、そうです。
『さくらん』を描く前にはもう付き合っていたのかな。
取材でいろいろ見に行ったりしてたんですけど大阪に遊郭の建物をそのまま使用している居酒屋さんがあるというのを知って、撮影も出来るというのでこれは行かないと! と。
大阪の地理がわからないのでどこら辺なのか聞いてたら監督は大学が大阪だったので、案内してくれる事になったんですよ。
同時に監督はおじさんのお見舞いに行くというのもあって。
大阪の帰りにちょっと寄り道して帰ろうという話になりました。

「自分のために描いたら」と庵野監督から助言されて吉原の花魁の世界を描いた『さくらん』。
蜷川実花監督で映画化もされた。

――岡山?
 
安野 いや、山口です。
初めは大阪での取材が終わったらそこで解散して私は東京に戻る、監督は山口に向かうという計画だったんですけど、お見舞いといってもほんとにちょっと顔見て帰るだけだから、山口から一緒に飛行機で帰ればいいじゃんと言われて、それもありかなと。
私は山口は初めてだったのでちょっと観光してみたかったんですよ。
でもいざ新幹線で山口に到着すると改札にご両親がいる。
私は「じゃあ帰りの時間がわかったら連絡してね」って立ち去るつもりでいました。
でも監督もご両親も説明とか解説とか一切しない性質なんで(笑)、「こちらは〇〇さんです」みたいな紹介もされないまま「車はこっちに停めてある」って連れて行かれて固まってたら、そのまま押し込まれておじさんのいる病院へ連れて行かれてました。

なんか言葉の通じない国にいるみたいでしたね。
病院に着いてみるとそこはホスピスでした。
おじさんはお子さんがいなくて、監督を息子のように可愛がっていた人なんですが、看病してくれていた奥様も2ヶ月前に亡くなって、ご自分も末期の癌で余命はあと何日か、みたいな状態で。
だから監督も会いたかったんですよね。

でも私はこんな無関係な人間が来ちゃってどうしたらいいのかと思ってたんですが、病室に着いた瞬間「ご家族の方にお話があります」って呼ばれて監督とご両親がカンファレンスルームに行ってしまったんですよ。
それでいきなりおじさんと2人きりになってしまって。
しかもその日はおじさんのお誕生日だったので、看護士さんから職員の皆さんが書いたお誕生日カードを何枚か手渡されて、読んであげてくださいって言われたんです。
それでずっとおじさんに読んでいたら私の手を取って「ありがとう、秀明のところに来てくれてありがとう」って涙を流されてたんですね。
違うんですけど、なんかそこでわざわざ否定することないかなって。
喜んでおられるんだしいいかと思って「いえいえ」とか言って。
おじさんはもうご自分が瀕死のところに監督がお嫁さんを連れて会いにきた、って思って喜んだままその数日後に亡くなられたんです。
東京に戻ってすぐでした。
最期まですごく喜んでいたと聞かされました。
 
――いい話です。
 
安野 そうなんです。おじさんに会ったその日も飛行機の席は絶対とれると思ったら予約がとれなかった。
それで結局、初めて行ったのに監督の実家に泊まることになっちゃって。
そしたらもう、お母さん的には挨拶に来たみたいに思われて。
 
――完全に嫁、確定ですね(笑)。
 
安野 まだ何も言っていないのに「式はいつだ?」って問い詰めてくるから、監督もさすがにそのときは「いや、式とかしないし、そういうんじゃなくて、この人は自分の友だちだから」と言っているのに全然ご両親は聞いていない。
こっちが言っていることは一切聞かないで、うんうんって頷いていて、「で、式はいつだ」と。
だから「式はしない」と、そのやりとりを何回したんだか。
 
――それ、庵野監督に怒らなかったんですか。もっとちゃんと説明してくれと。
 
安野 いやいや、言いましたよ。
2階の部屋で一緒に寝ろって言われて、「なに布団とか、つなげて敷いてんの?」みたいなこともありましたし(笑)。
 
――漫画みたいですね。
 
安野 そうなんです。それで次の日の朝、起きたらお母さんが紅白餅の入ったお汁粉を用意してくれていて。
なんかお祝いみたいな雰囲気になったんです。
まあ、それでも「結婚も式もないです、ないです」と言って帰ったんですよ。
そしたらおじさんが亡くなってしまって、最期まで「ほんとに良かった、ほんとに良かった」と言って亡くなったって言われて。
それがあったのはけっこう大きいかもしれないですね。
 
――運命を感じた?
 
安野 いや、運命というほどドラマチックじゃないんですけど。
なんかそうやっていくうちにね、だってお母さんが電話をかけてくると、「どうなってるの?」ではなく、「式はいつなんだ?」なんです。
式をしないとご近所とか親戚の手前ねぇ……みたいな話で、結婚するのかしないのかなんて段階はお母さんの中ではとっくに終わっている。
ほんとにあまりにも毎日電話がかかってくるから、「とりあえず1回、結婚しようか」という感じでした。
だから指輪も買ってもらってないし、プロポーズもされていないし、ステキ感ゼロですね。
私はきっと離婚するんだろうなと思っていたので、別に結婚ぐらいいいかと思っていたんですよね(笑)。
 
――でも、絶対イヤとは思わなかったんですよね。
 
安野 まあ、そうですね。1回結婚しておかないと自分的にも据わりが悪いから。
その後ずっと独身で行くにしても1回は結婚したんだって思えば、自分でも納得できるかなと思ったんですよね。
だからほんとに正直に言うと、離婚するんだろうなと思って結婚しました。
 
――念のため確認しておきますが、それは庵野監督が相手だからということではなく、結婚という制度に対してということですね。
 
安野 そうです、そうです。自分がそんなに長期にわたって他の方と人間関係を続けられるわけがないと思っていたので。


鎌倉に移り住み、その自然に
長年の疲労が癒されて……。


――でも、そうやってプライベートでいろいろあるときも漫画はずっと描いていらしたんですね。
 
安野 まあ、若いから体力もあったので。
物理的な辛さはありましたけどね。
夜寝られないとか、2時間しか寝ていないのに起きてペン入れしなきゃいけないとか。
でもまあ、そういうのって総合してみると楽しいじゃないですか。
だからそこまで辛いと思ってはいなかったですけど。
『働きマン』も『シュガシュガルーン』も描くこと自体は楽しかったし職場も特に問題とかなかったんですけどね。
とにかく寝てなかったし休みが無くて。

また休むのが下手なんですよ。
たまに休みが取れると思い切り気分転換したくて急に海外に行ったりしてました。
よくひとりでオーストラリアとか香港とか行ってましたよ。
後から心理療法士さんに聞いたら体力のある状態ならいいストレス発散になるそうなんですが、そのときの私のようにくたびれ果てた人が行くのはかえってさらなる疲労が溜まるので良くないらしいです。
最初の頃そういう突発的な旅行でスッキリしたのが病みつきになってたんでしょうね。
すでにそんなことでは解消できないほどの疲労を抱えて、体力も落ちているのに判断力も失ってるから、休みのたびにどこかへ行ってはヘトヘトになってました。
休むためにも前倒しで仕事をするからすでに疲労困憊の状態で出発してるんですよね。
観光したりトレッキングとかするから帰りには精魂尽き果てるんです。
その状態で次の仕事して。

今はそのときの失敗と長い療養期間で疲労のコントロールを学んだので、とにかく何もしないで寝ている日というのを作りますが、当時は若いのがかえって仇となりましたね。
くたびれているのにどこか行きたいんですよ。
仕事ばっかりしてるのが嫌だ! なんかしたい! 山登りたい! 海で遊びたい! って。 

『働きマン』は、青年誌『モーニング』掲載。
ジャンルを超えて様々な漫画を描くことができるのも安野モヨコさんの特徴だ。

――『オチビサン』を除く全ての連載を休止し、休筆宣言をしたのが2008年ですね。そのときすでに鬱の診断を受けて10年目だったということですから、ほんとうにギリギリまで我慢されての決断だったと思います。
 
安野 そうですね。もう2~3ヶ月の休載を繰り返すようになってましたし、休んでも全く回復していない。
脳が働かないからネームも出来ないし、スケジュールとかわからなくなってましたね。
普通はあと1週間で締め切りってなれば最初の3日で下絵やって、というふうに計算して動くんですがもうそんなことでは動けないし、日にちが頭に入ってこないというか。
あと3日で締め切りって言われても動けなくて、もうダメだなと思いました。
あと3日って言われたら飛び起きてなんとしてでも漫画を描きあげてた自分はもういないんだなと。
あと、ネットでいろいろ言われてたのもその状態だとかなりこたえました。
描いてももう飽きたとか見たくないとかいろいろ言われて、休んだら休んだでいいから早く続き描けと言われる。
自分が何をどうしたいのかが何もわからなくなってしまいました。
 
――休筆宣言をしたとき『オチビサン』だけはやめなかった理由は?
 
安野 『オチビサン』は描いている自分も癒されるという部分がありました。
自然の中のちょっとしたことを描ける。
それを読んでくれたお年寄りや小学生の子がたまにお便りをくれたりして、それにもずいぶん救われました。
それと、休んでも実家をずっと養い続けなきゃいけない。
その仕送り分まで監督に出させるわけにはいかないので『オチビサン』を続ける必要もあったのです。 

休筆宣言をしたあともこの漫画だけは描き続けられた『オチビサン』。
絵本のようなカラーコミックは鎌倉の自然からヒントを得て描かれた。

――鎌倉に越されて環境に癒されたところもあるんでしょうね。
 
安野 それはほんとうにありますね。やっぱり自然がものすごく強いから。
 
――長期休養中に自分はもう漫画を描けないんじゃないかと不安になることはありませんでしたか。
 
安野 ありました。たぶん描かなくなるかなと思っていましたし、監督は「別にそうなったらそうなったで、君ひとりくらいは食わせてあげるから」って言ってくれるときもあったんですけど、急にやっぱり稼いでほしいって言われて(笑)。
 
――なんなんでしょう、それは(笑)。
 
安野 まあ、でも、そうですね。漫画業界ってすごく回転が速いので、3年描かなかったらサイクルから落ちていく。
だから自分が戻る場所はもうないしなと思っていて、戻ったとしても『オチビサン』的なものを細々と描いていく感じかなって自分では思っていたんです。


時代が急激に下り坂のいま、
老後のモデルが何もないのが怖い。
『後ハッピーマニア』の主人公、
45歳のシゲタさんは?

 
――でも、そんな中で2013年から新作『鼻下長紳士回顧録』の連載を始められ、さらに2017年に『ハッピー・マニア』の続編『後ハッピーマニア』を読み切りで仕上げ、2019年からはその連載を開始しています。『ハッピー・マニア』というのは安野さんにとって、やはり特別な作品だった?
 
安野 まあ、そうですね。連載期間が長かったというのもありますが描きなれているので楽といえば楽ですが、逆に手クセだけで描かないようにしなきゃなという緊張感もありますね。
なんだろう? 幼なじみとかだと再会してすぐは盛り上がるんだけど気楽な分、会話がダレてスマホとか見がち、みたいな感じですかね。
気をつけます。

45歳のシゲタさんの今後に注目したい『後ハッピーマニア』

――『ハッピー・マニア』の続編で、45歳のシゲタさんが主人公として登場して、まだ結末は見えていないと思いますが、彼女の人生を追っていくという感じなんでしょうか。
 
安野 人生は追うつもり無いです(笑)。
ただ45歳とか40代のまんなかあたりから50歳くらいまでって、女性の人生的にはバリエーションが増えすぎてて主人公の設定が難しいんですよね。
特にこの10数年でステレオタイプみたいなものがバラけてきてるので。
 
――それぞれが生きてきた時間の結果が、それぞれの人生に現れてくる年齢ということ?
 
安野 ええ。離婚してひとりになる人もいれば、お子さんがすごくいっぱいいて孫もいるぐらいの人もいれば、ずっとひとりという人もいる。
結婚する相手の経済状態によっても生活に差が出ちゃうし、ずいぶん離れちゃったなみたいになる時期で。

同時に今の45歳以降ってモデルケースがあまりに曖昧なんですよね。
親の世代だと結婚して、普通だったら子供が高校行くとか、ある程度のところまで来て手を離れ、この後は旦那が定年まで勤め上げるまで頑張ろうみたいなイメージですよね。
ようするに家庭に収まっているのが普通というようなイメージしか持っていないけれど、今はもう全然違いますからね。
独身の人もいっぱいいて、離婚をしている人もいっぱいいて、いわゆる一般的なイメージと現実が非常に乖離していると思う。
「そういう中でも、この先どうするの?」というのがやっぱり……自分もそうですけど。

私は先ほどお話ししたみたいに、結婚しても離婚するんだろうなと自分で思っていたので。
たまたま結婚した相手の人が非常な変わり者だったので長持ちしてますけど、その前におつき合いしていた人とかだったら絶対離婚していたと思うんですよね。
自分からじゃなくても向こうから別れたいって言われていたと思うんです。
だとしたら、そのときはどうなっていたのかなというのを考えます。
 
――女性に対して、どうなるかわからないけど、頑張ってねみたいな、そういう気持ちが『後ハッピーマニア』の根底にあるということですか。
 
安野 ここから先って、とくに今40代中ぐらいから上の世代って、子供のときからわりと豊かになってきて、その後もずっと上り調子なんですよね。
で、10代後半とか20代ぐらいでバブルが崩壊する。
それでもガタッと国力が落ちたという感じもなく、とくにそこに不安はないままここまで来ちゃって、今、ゴッゴッゴッと下がっていく。
この先どうなるのか、ちょっとわからないじゃないですか。
自分の親の世代の人たちとは明らかに老後のクオリティが変わってくるはずなんだけど、それに対してまったくビジョンがないので、すごく怖い。
怖いけれど、怖いと怯えちゃうと動けなくなるから、そういう破天荒なキャラクターの人がしんどい環境とか、状況としてはしんどいんだけど、それをちょっと引きで見て笑えるみたいなモデルケースがあれば、自分もそういう状況になったときに、「いや、ここでそうなってはいけない」って踏みとどまれるかなというぐらいの感じです。
だから元気出していこうとかじゃなくて、考えようによっては笑えるかもぐらいの感じの展開をしていきたいなと思っています。
そう思うと、ちょっとだけ気が楽になったりするかなって。
 
――今おっしゃったような世の中の感覚を意識する上で、表現者としてこういうことだけはやっているということはありますか。なるべく人と話すようにしているとか、新聞だけは読もうとか。
 
安野 そうですね。いろいろな記事を読むようにしていますけどね。
新聞もそうですけど、外国の雑誌の翻訳記事を読むようにはしていますし、一方ですごくしょうもない謎のOLとかのツイッターを。
 
――意外と面白いものがありますよね。
 
安野 あります、あります。すっごいやばい生活をしている人とか、いわゆる裏垢女子というやつですね。
そういうのも見ますし。
どっちかに偏らないようにしています。
やっぱり自分の友だちって似ている感じの人たちだから、もうそんなに自分とかけ離れた人と会うことがないんですよね。
想像を絶する反応をわりといつも見たくて。
これに対してこんなふうに考えるんだというのを見るようにはしていますね。
 
――庵野監督ともいろいろ話したりされるんですか。
 
安野 すごくします。たとえばネットのニュースとか普通のニュースでも、コメント欄とかあるじゃないですか。
こういうこと言っている人がいたとか、それはどういう考えにおいてそうなってるのかなみたいな話をしたり、今はそういう感覚の人も増えているんだねとか、そういう話をしますね。
 
――今はますますネットユーザーが増え、SNSなどで人の悪意がより可視化されるようになってきてクリエイターには、ますますしんどい状況なのではと思います。安野さんだけでなく、庵野監督も一時期、メンタルをだいぶ崩されていた時期がありましたよね。
 
安野 そうですね。でも、それを気にしちゃうと、やっぱりつくる範囲が狭くなっちゃうし、どうしてもエネルギーが下がるからストロークがちっちゃくなっちゃう。
そうするとつくったもののパワーが落ちる。
今はさまざまなハラスメントやジェンダー的な差別表現にも厳しい目がありますからね。
あんまり気にしすぎてもいけないけど、無神経になりすぎてもいけない。
そのバランスが難しいなとは思います。
 
――ストーリーものの漫画を描かれるときは特にそういうことを気にしなければいけないぶん、精神的な疲労度も高いと思います。たとえば今後は1枚絵であるとか文章表現などの割合を増やしていきたいというようなお気持ちはありませんか。
 
安野 漫画ってほんとに瞬発力とか反射神経の世界なので、あと10年ぐらいかなと思っていて。
だからだんだんそっちにシフトしていけたらいいなとは思いますけど、その頃にそれほど需要があるのかなという疑問もあります。
VRとかのほうが主流になっていくんじゃないかと思うから、文章と絵ってどうなるのかなと思ったりするんですよね。
もちろん需要があれば続けたいですけど、今は着物の柄を描くのが楽しくて。
今もちょっと小紋を作ってるんですけど、すごくかわいいんですよ。


――世田谷文学館の展覧会の会場でも2体、飾ってありましたね。あれは要望をもらって作ったわけではなく、自分がほしいと思うものを作られたんですよね。
 
安野 そうです。あれはアンティークの着物で欲しかったんですけど、サイズがあまりに小さくて。
昔の人は小さい方が多いから私のように背が高い人間は、着られないんですよね。
なので、自分で描いてデジタルプリントしてもらいました。
安いし早いんです。
漫画家って、便利だなと思いましたよ(笑)。
それで味をしめて。
なかなか欲しい柄が無い季節の模様で、たとえば吹き寄せっていうのがあるんですけど、紅葉や銀杏とか松葉が入り混ざっている様子のね、いろいろ素敵なアンティークもあるんですけど、もう市場には出てないんで、自分で描こうと思って。
何枚も習作して。
でも着物ってデザインですからただ枯れ葉を描きゃいいってもんじゃないんですよ。
配置とかバランスも大切ですし、適度なデフォルメで葉先をきれいにトリミングして。
でも、そう考えて描いたのに仕上がってみたら漫画っぽいというか、現代イラストっぽい絵になってしまってどうも着物感が無いものになってしまうこともある。
アンティークそのものなら、もうそのままコピーして、ジェットプリントすればそのほうがいいに決まってます。
大正昭和の着物の柄は専門の図案家が作ってますし、代々受け継がれてきた伝統のデザインに加えて、そのときそのときの職人さんがブラッシュアップして何世代にもわたっての集大成みたいなことになっているので、一朝一夕では追いつけない。
完成度といいセンスといい今現在の自分がちょっと描いたくらいでは到底かなわないです。
それでも頑張って描いてますが。
オリジナルで、それでいて和のたおやかさや可愛らしさもあって……というのがえらい難易度が高いんですよ。
何枚も水彩で描いたり和紙にコピックで描いたりして見本をプリントしてもらうんですが、ジェットプリントはムラがあまり綺麗に出ない。
染めと同じように版で分けてプリントするしかないって、考えが行きつきました。

展示会場には、安野さんがデザインした着物も展示されている。
右が黒ベース、左が水色ベースでふたつとも帯、帯留めとの合わせ方も粋に仕上げている。

――先ほどおっしゃったVRのような流れに対抗できるとしたら、着物や帯のような手触りのあるモノという方向性はあるのかもしれませんね。
 
安野 そうですね。実際に見て触って身につけることが出来るモノですかね。
でも最近は、洋服やメイクに対しても関心が下がってきたとか聞きますけどね(笑)
大丈夫かしら?
 
――完成予定はいつなんですか。
 
安野 帯はいつだろうな。
着物は秋にはできると思います。
仕立てにだいたい3週間ぐらいかかるので9月中にプリントがフィックスすれば。
ジェットは速いから、このデザインでって言ったら、すぐ出来ちゃうんですよ。
 
――帯は?
 
安野 帯はね、さきほどお話しした吹寄せと桜のをまず作りたくて、ずっとやってます。
それで版で分けてやろうとしてますが、手法としては『オチビサン』と全く同じことなんですよね。
 
――面白いですね。
 
安野 やってきたことが無駄にならなくて良かったです(笑)。
あとは夏の前から浴衣の柄を描いてて。
でも普通浴衣って3月には仕上がっていないといけないらしくて、7月にプリントしたいって言ったらもう生地が無いって。
だから来年に向けて作っています。
今年は浴衣もなかなか着る機会がなかったから、来年のほうがいいかもしれいですね。
 
――花火大会もないですしね。
 
安野 3月に仕上がってる事を考えると、急がないと。
その前に桜の帯がありますし、そのもっと前には11月に向けての吹寄せが(笑)。
忙しい! 季節ごとの帯のデザインを追っているとすぐ1年経っている。
とはいえ漫画の締め切りもあるので思うように進められませんが。
合間合間でやっていて、これが今一番楽しいですね。
自分が欲しいものと、一緒にやってくれてるスタッフさんたちが欲しいものしか作らないので本当に趣味ですが、無趣味で仕事ばかりして倒れてた20~30代の自分が見たら驚くほどかもしれませんね。
趣味でまた絵描いとんのか! と。
 
――絵三昧の生活ですね。今日は、ありがとうございました。

(2020年8月5日 代官山にて)

次回「ANNORMAL」の巡回展は2022年9月10日(土)~10月10日(月・祝)に金沢21世紀美術館での開催を予定しています。
詳細は下記リンクからどうぞ!(スタッフ)

ここから先は

0字

安野モヨコ&庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画「監督不行届」の文章版である『還暦不行届』の、現在連載中のマンガ「後ハッピーマ…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?