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創作意欲の次に必要なのは、技術ではなく愛だと思う

noteをはじめてから創作意欲がふつふつと戻ってきて、書きたいものや描きたいものが出てきた、という記事を先日投稿した。

今日はその、次の話。
文章を書くのは楽しい。漫画も久方ぶりにネームを切ったりもしてみた。
だが書いたはいいが、投稿するのにとても抵抗を感じる。「恋する日本語」にひたすら応募してた時はそんなものほとんど感じなかった。
それがなぜ苦しくなったか?

twitter経由でリアルな友達に身バレしたからだ。(twitterもこっそりやっているつもりだった…)

顔を知ってる人の目に作品が晒されるのがとても苦しい。
noteは基本的にtwitterにも連携しているので、私のnoteの記事を読んだかもしれない。

そう。かもしれない、だけだ。

にもかかわらずtwitterでその子からフォローされたとき、ものすごい動悸がした。自分でもこんなに人の目を恐れているとは思わなかった。だって中学生の時はクラスの女の子たちに自分の漫画や小説見せてたし、それはその子も読んでいる。

でも、そうだよな。あの頃とは違う、ということも分かる。
私もその子も大人になって、面白い文章も綺麗な絵もいくらでも見てきた。
私はそれらと比較されるのが怖いのだ。「金にもならない文章や絵を本気で書いてる」と思われるのが辛いのだ。

更に言えば、自分でも自分の作品にがっかりもするし、こんな稚拙なものを晒すなんて、なんて恥知らずな!!という思考も湧く。

怖い、と思うほどに本気で好きなのだ。文を書くのも絵を描くのも。

そしてこれは、絵や文が上手くなったら解消するのかというと、そうではないような気がしている。
だって上を見たらキリがない。

だから、上手くなるよりも大切なのは「自分の作品を好きになること」ではないかと思う。
どう思われようと、「でも私は好きなの」と心から思えたら、創作上こんなに強いことはない。
ただ一文でも良い。絵のほんの一部分だってかまわない。
あー、ここは好きだな!こうかけて満足だな!という場所を一つ見つけて自分で褒める。
どうしても上手い人と技術面や人気で比較してしまう、というなら書いた/描いたという事実を褒めるんだって良いと思う。
時間作って記事書いてえらいじゃーん!! 
今日は色塗りまでしてすごいじゃーん!!って。

そうやって少しずつ自分の作品を愛する癖みたいなものをつけると、投稿する度に変な動悸がすることなんて無くなるんじゃないかな、と。

自分で実践して、変化があったらまた記事にしてみようと思う。

あぁ…まだドキドキするなぁ…

◇◇◇◇

ところで見出し画像を「みんなのフォトギャラリー」から選んで挿入したところ、写真のタイトルが「書いたものを人に見せる2つの恐怖」みたいな感じで驚いた。
こういうシンクロは、感覚が立ってきているように思えて嬉しい。今日の褒めどころだ。

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