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Photography(ing) 

上の記事の冒頭でも少しだけ触れたことなのだが、一般的には写真は認識の対象である。それは文字や絵と同様に何かしらの観念や概念を指し示しているということだ。林檎という文字が林檎それ自体ではないように、林檎を写した写真は林檎を指し示しているに過ぎない。この意味において、写真はあらかじめ一定の虚構性を内包していると言ってよい。

しかし、この話はある意味当たり前のことで、本当に面白いのは「だからどうするのか?」という問いの方だろう。だから、私はそういった前提があり、(人間である以上)認識そのものを打ち破ることが限りなく難しいとするならば、写真を経験することはできないだろうかと考えた。

私の言う経験は認識と比べてより原初的な体験であり、観念や概念で抽象化することが出来ないような漠然とした知覚の在り様の事だ。そして、観念や概念で縛れないということは、それは現れたそばから立ち消えてしまうような流動性を持っていて、なおかつそれが視覚以外の知覚も駆使して得られる経験でなければいけないような気がしている。最も近い例えは、音楽のような写真だ。

音楽のような写真。それを現時点で具体的に想像できているわけではないし、そもそも、この思考自体に価値があるのかも疑わしい。でも、もし本当に写真を経験できたなら、それはどんな体験なのだろうかと想像せずにはいられない。

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