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3段階の心の観かた ルアンポー・プラモート師

心を読むやり方というのはいくつもの段階があります

もしも私たちのサティ(気づき)が遅いのならば

観えるものも遅いものになります

もしも心が欲・怒り・無知になったのならば

欲が生じたと知る

怒りが生じたと知る

無知にはまり込んだと知るのです

煩悩を観るのならば

それはまだ力が弱い段階の修習者が始めることです

なぜならば

まず初めに煩悩を観ることがやり易いからです

欲というものがわかりますか?

怒りという状態をわかりますか?

気が散るという状態がわかりますか?

落ち込むという事がわかりますか?

これらの煩悩が生じたときにそれに気づくのです

それが生じた時に生じたと知るのです

少しずつ観ていくのですよ

すると

”すべての生じたものはすべて滅する”という事が観えてくるのです

幸せが生じては滅するのです

苦が生じては滅するのです

善き心も悪い心も生じては滅するのです

訓練し始めた時に目立って生じるものは煩悩なのです

この中に怒りっぽい人はいますか?

手を挙げて下さい

何を見ても腹が立ってしまうのです

イライラしてしまうのです

もしも心のベースが怒りっぽい人ならば

チッター・ヌパッサナー(心随観)を使うことができます

それは

怒りが生じたならば、怒りが生じたと知る

怒りが無い状態であれば、怒りが無い状態であると知る

ありのままに観るのです

怒りが生じたならばそれを知るのです

怒りが消えたのならばそれを知るのです

これらは交互に消滅を繰り返していくのです

ある人は煩悩を観ると

煩悩がまだ一杯にはなっていないと感じることもあります

煩悩が生じる前に

心の長いプロセスが走っており

その結果煩悩が生じるものだと感じているのです

煩悩は容易に生じますか?

本当は煩悩が生じる前にカンティ(忍耐)が沢山に働いているのです

煩悩は受(ヴェータナー)の後に生じます

受(ヴェータナー)と共に割り込んでくるのです

もしも幸せが生じ、私たちにサティが無いのであれば

欲(ラーカ)が割り込んでくるのです

満足という心が割り込んでくるのです

もしも苦が生じて、私たちにサティが無いのであれば

怒り(ドーサ)が割り込んでくるのです

楽、苦、不苦不楽の感覚をはっきりと掴めないのであれば

容易に対象に浸り込んでしまうのです

無知(モーハ)が割り込んでくるのです

ある時には失意で落ち込んでしまいます

しかし

怒りを観ている時

怒りを受けている時にはあまり落ち込むという事はありません

しかしボーっとしてはまり込んでいる時には

落ち込みやすいのです

ですから

落ち込んでいないとき、あるいは、苦(ドゥッカ)では無いときには

無知(モーハ)が割り込みやすいのです 

心が苦(ドゥッカ)の時には怒り(ドーサ)が割り込むのです

心が楽の時には欲(ラーカ)が割り込むのです

ですから

私達の心が遅い時には

怒り(ラーカ)・欲(ドーサ)・無知(モーハ)が

生じて、安住しては滅すると観るのです

中には

これだけでは不十分という人もいます

サティが早い人です

幸せが生じたならば、それを知る

苦が生じたならば、それを知る

不苦不楽が生じたならば、それを知る

これは心を観る二つ目の段階なのです

しかし

これよりももう一つ高い段階の心の観察があります

もしもサティが本当に強く

サマーディが本当に良い状態ならば

受(ヴェータナー)が生じる前から観ることが出来るのです

何が受(ヴェータナー)を生じさせるのでしょうか?

答えることが出来ますか?

受(ヴェータナー)は何の後に生じますか?

受(ヴェータナー)は触(パッサ)の後に生じます

目で見ることが出来るということは

心は見えたものを解釈するということです

その後に楽と苦が生じるのです

不苦不楽が生じるのです

もしもこの時にサティが無いのであれば

楽は満足となりそれにうっとりして、欲(ラーカ)が割り込んでくるのです

目で見る時

目に見えるものを想(サンヤー)が解釈するのです

そして悪いものであれば

それは敵であると認識し

怒り(ドーサ)が生じるのです

怒り(ドーサ)が生じる時というのは不満足なのです

圧迫されたような感じになるのです

心のプロセスというものはこのようなものなのです

もしも私たちの心が遅いのならば煩悩を観るようにするのです

心がこれよりも早いのならば受(ヴェータナー)を観るのです

心に生じる苦・楽・不苦不楽を観るのです

もしもこのところから観ることが出来るのであれば

煩悩は生じないのです

心に楽が生じたのならば、楽が生じたと知る

心に苦が生じたのならば、苦が生じたと知る

不苦不楽であれば、不苦不楽であると知る

サティがここにあるのならば、煩悩は割り込んでこないのです

しかし、もしも受(ヴェータナー)が生じた時に

サティが間に合わないのであれば

煩悩が割り込んでくるのです

ですからもしも

心を観ることが遅く煩悩が割り込んでしまったのであれば

煩悩が割り込んでしまったと知るのです

欲(ラーカ)が生じたと知る

怒り(ドーサ)が生じたと知る

無知(モーハ)が生じたと知る

このように観ていくのです

もしもこれよりも早く観ることが出来るのであれば

心に楽が生じたならば楽が生じたと知る

ここにはまだ煩悩が生じていないのです

心に苦が生じたならば苦が生じたと知る

心に不苦不楽が生じたならば不苦不楽が生じたと知るのです

自分の心に生じたことを知っていくのです

すると

煩悩は100%の力で仕事をすることが出来なくなるのです

煩悩は少しの働きしかできなくなるのです

しかしもしも

サティがこれよりも早く働くことが出来るのならば

心の何が観えるのでしょうか

6つの方向の心の消滅が観えるのです

心が見えるものに向かって走っていく

心が聞こえるものに向かって走っていく

心が匂いのあるの方向に向かって走っていく

心が味のあるの方向に向かって走っていく

心が身体に触れるものに向かって走っていく

心が心の中で思う事に向かって走っていく

心が感情に浸り込んでいく

いろいろな働きをするのです

6方向とは眼(げん),耳(に),鼻(び),舌(ぜつ),身(しん),意(い)の事です

ですから私たちが熟達するまで訓練するのならば

心が目で見る事に向かっていったならば

心が目の意識に向かっていったと知るのです

心が聞くで見る事に向かっていった

心が聞く方の意識に向かっていったと知るのです

心が考えるという方向に向かっていったのならば

心が考える方に向かっていったと知るのです

もしもこの部分を観ることが出来るのであれば

それは最も早いサティなのです

しかし全員が全員ここから始める必要はありません

どの部分から始めても良いのです

煩悩が生じて、在して滅していった

このことが観えるだけでも大変に良いのです

もしも苦・楽・不苦不楽が観えるのならば

煩悩は100%働かないのです

もしも心の6方向の働きが観えるのならば

これは最も早いサティなのです

心が映るものを見、音を聞き、匂いを感じ、味を感じる

ここには楽も苦も無いのです

心は捨(ウベッカー)なのです


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