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Saññā 知ろうと意図する心① ルアンポー・プラモート師

 もしも毎日このように修習できるならばとても良いです。心が身体と共にあり散り散りになっていませんね。ダンマは沢山学ぶ必要はありません、しかし沢山修習するのですよ。もしも学び覚えているだけならば、頭で覚えたダンマでは煩悩に打ち勝つことは出来ないのです。心で理解したダンマは、本当に心の中に届いたダンマは私たちの心の煩悩を洗い流すのです。ですから、毎日毎日、訓練して私たちの心に少しづつ教えていかなければならないのですよ。ある日解るのです、私たちが実践している仏教は得るものは何も無いのです、失うものも何も無いのです。一つだけ私たちが得ることが出来るのは、サンマー・ディッティ(正見)です、正しく知る、正しく理解する。私たちが失うのは一つだけですそれはミッチャー・ディッティ(邪見)間違って知ること、間違って理解することです。
 私たちは法の実践を幸せの為や静けさ、良いことの為に行うのではありません。幸せは不変で変わらないものではありません。静けさも不変ではありません、良いこともまた状態が変わらず留まっているものではありません。今日は良く、他の日は良くないということもあるでしょう。今日は静けさがあり、別の日は心が乱れて落ち着かないこともあるでしょう。本当の何かを拠り所にすることは出来ないのです。しかし、私たちが法の実践を真剣に行うならば、それは五戒を守る、サマーディ(集中)がありパンニャー(智慧)があるならば、得られるものはサンマー・ディティ(正見)なのです。正しく知る・正しく理解することです。
 この世間はドゥッカ(苦)で満ちています。なぜならばそれぞれの人がドゥッカを探し自分自身で纏おうと求め歩いているからです。私たちは生まれたい、しかしその通りに生まれたのならば、年老いて、病になり、死ななければなりません。誰もが生まれたいのです、誕生日になるとお祝いをするのです。しかし、本当はドゥッカ(苦)の始まりなのです。私たちは解っていないので、あれが欲しい、あれが欲しくない、生まれたい、しかし死にたくないと思います。しかし、もし私たちが本当に理解したのならば、生まれたならば死ななければならないのです。すべてのことは一瞬一瞬に生じて、在し、滅する一時的なことなのです。自然とはこのようなものなのです。(つづく)

仏暦2564年12月17日



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